ダンテの著作である『神曲』は、ダンテその人が古代ローマの叙事詩人ヴェルギリウス(ヴィルジリオ)に案内されて地獄界からめぐっていく物語になっている。大きくは3部構成になっていて、よく知られるように「地獄篇」「煉獄篇」「天堂篇」と訳される。煉獄篇については、あえて「浄罪篇」とするほうが分かりやすい。そして、これは壮大な叙事詩であり、すべての詩形はボローニャ風ではあるが、ダンテ自身が工夫開発した3行詩(テルツァリマ)で進んでゆく。地獄篇・浄罪篇・天堂篇ともに33歌からできていて序章がついている。そのため全詩は100歌になっている。序章の発端は人生の矛盾を痛感して煩悶している35歳のダンテがまどろんでいるところから始まる。ダンテはある日に「暗闇の森」に迷いこむ。「ある日」は金曜日で、イエスがゴルゴダの丘に罪を引き受けた日にあたる。天界に遊星が走る暗闇を脱したダンテは、そこにあった浄罪山に登ろうとして、ヒョウに会う。ヒョウはダンテの行く手を遮って立ち去らない。けれどもダンテはそのヒョウの模様のもつ示唆に気づく。ライオンとオオカミが現れ、ダンテは最初から窮地に立つ。この三匹の野獣はダンテの行手を暗示する寓意になっている。もはや絶体絶命となり、天上から三人の女神が手をさしのべる。マリアとルチアとベアトリーチェ。ベアトリーチェはヴェルギリウスにダンテを案内させることを命じ、ダンテが天堂界に着いたときには自分が案内することを誓う。そんな風に松岡正剛氏が述べている。
更に続けてゆくと、ダンテは何かをめざすには他者の救いをもつべきであることを冒頭に告げる。ヴェルギリウスがダンテの案内人になっている。『神曲』は古代ローマ初期のヴェルギリウスの傑作古典『アエネーイス』を下敷きにしている。『アエネーイス』はローマ建国の神話を謳った叙事詩であるが、主人公がトロイアの英雄アエネーアースになっていて、トロイアの落城後に“第二のトロイア”、すなわち理想のローマを建国しようという構想になっている。ダンテはこれが気に入ったようだ。前半の6巻はトロイアからローマに到達するまでの放浪。この筋書き自体、『オデュッセイア』のローマ版になっている。悲しみに向かって物語を告げていくという方法が、ホメロスからヴェルギリウスをへてダンテに到達した方法なのか。後半の6巻はラティウムに上陸後、原住民との激しい戦闘が繰り広げられ、アエネーアースは辛くも勝利を得るが、このあたりはダンテの時代のフィレンツェの戦闘に擬せられる。この戦闘に神々が介入するという、天界の地上への唐突な介入の仕方についても、ダンテはこれをヒントに『神曲』のシナリオに生かしている。ダンテは、この『アエネーイス』の作者を自らの案内役にも選んでいる。ともかく、回復しがたい罪状であり、壮大きわまりない復讐という内容になっており、これは偉大な作為そのもの、それなのに至上の恋情で、比較のない感銘の比喩に満ちている。それは宇宙であり、想像であり、国家であり、そして理念の実践のための周到なエンサイクロメディアの記譜になっている。こんな途方もないマスタープラン、なかなかお目にかかれるものではない。
ダンテは『神曲』で何人もの教皇たちを地獄に堕している。ダンテは決して無神論者ではない、敬虔なカトリック教徒だ。なぜこんなことをしたのか。そもそも『神曲』は叙事詩であり、物語でもあり、歴史、百科事典の一面もある。おびただしい数の人名辞典でもある。さらに『神曲』はフィレンツェの政治史であり、国家理想をめぐる議論にもなる。この時代はフィレンツェもラヴェンナもナポリも都市国家、トスカーナ地方だけでもいくつもの都市同盟が複雑に結ばれていた。国家理想といえば、ある意味ではキリスト教の「神の国」のことだった。『神曲』の随所には、ダンテのフィレンツェ政治やキリスト教社会に対する主張や見解が記述されている。それだけではなく聖人や神学者たちのアドレス(住処)も決定されている。そのなかで教皇が次々に地獄に堕される。ダンテには教皇を堕しめる理由もあった。
当初、ダンテは政治家をめざしていた。プラトンにも似ており、フィレンツェを追放された挫折者でもあった。死にいたるまでダンテは理想と挫折の懸崖にぶらさがっていた。1289年にフィレンツェはギベリーニ党を相手にカンバルティーノの合戦で戦った。ダンテはこの時はグェルフィ党の騎兵隊の一兵士だった。グェルフィ党は合戦には辛勝したが、戦闘はかなりすさまじく、地獄篇第20歌と煉獄篇第5歌はその戦闘のありさまで埋まっている。勝ったグェルフィ党が真ッ二つに割れ、それが黒党と白党だった。黒党には古い封建貴族がつき、白党には富裕な市民がついた。ダンテは白党で、富裕な白党はプリオラートという最高行政機関をつくって3名の統領(プリオリ)を選び、毛織物業と両替業を保護する作戦に出た。フィレンツェだけがこうした商業で繁盛していたわけではない。相互に複雑な都市同盟によってこれらの権益は上下降し、いつも左右に揺れた。特に教皇の権勢や教会の利益との関係が熾烈をきわめた。ダンテが統領に選ばれる日がやってきた。ダンテは社会や組織のリーダーになることを引き受けた。その覚悟の瞬間から自分の活動の理想のマスタープランをハイパークロニクルに書き上げていくことを決意し、その実践に乗り出していく。こんなマスタープランこそが『神曲』だった。『神曲』は魂の階梯を描いた長大な浄化の物語、他方においては、この時代の同時進行的な社会宇宙論のためのプログラムだったともいえる。
ダンテによって地獄に堕ちた教皇の代表は、ボニファティウス8世やアドリアーノ5世やクレメンテ5世。ボニファティウス8世はフィレンツェに圧力をかけ、黒党がその権勢のおこぼれをもらおうとした。そこへ教皇庁から教皇に奉仕する100人の騎兵を出せと言ってきた。すでに統領の一人となっていたダンテはこれを拒否する手紙をつきつけたが、教皇庁は応じない。ダンテはローマに陳情するために赴き、失敗し、ついでは冤罪をふくめた容疑で裁判にかけられる。結果は罰金と2年間の国外追放となる。ダンテはやむなく放浪を開始して、各地の食客となって流れ、ラヴェンナに住んだ。この間に『神曲』を書き続けた。当然のごとく、ボニファティウス8世は地獄界に位置づけられる。ニッコロ3世は地獄界第8圏に、アドリアーノ5世が煉獄界の第5円に、チェレスティーノ5世も地獄の入口に捨ておかれた。教皇のすべてが地獄にアドレスされたわけではない。マルティーノ4世は煉獄界第6円に、ジョヴァンニ22世は天堂界第4天に配された。『神曲』の中では教皇であれ、すべてダンテの思いのまま。誰をどこに配当するかということでは迷っている。興味深いことに、ラヴェンナに滞在していた時のダンテは、この地の大司教にそのアドレス配当をめぐる心配事を相談していた。それは、イスラムの異教徒でありながらアリストテレス学を発展させたアヴェロエスやアヴィケンナを煉獄界に住まわせていいか、トマス・アクィナスの論敵でパリ大学の教授だったシジエーリを天堂界の第4天にトマスとともに住まわせていいかといった相談だ。まさに聖人とそれに匹敵する知の王者たちを、どこにアドレスさせるというマスタープランの保留事項を決めたかった。大司教はダンテの配当通りでいいと答えた。ダンテは放浪の中で『神曲』を書いた。そのように放浪しながら聖俗のアドレスをマッピングしながら物語を編集していく作業でもあった。
1289年6月、フィレンツェはアレッツォを盟主とするギベリーニ党の軍隊と命運をかけたカンバルティーノの合戦で辛くも勝った。けれども世情は落ち着かず、人心は動揺していた。その1年後、フィレンツェのアルノー河畔のバルディ家の一室でベアトリーチェが病死した。すでに結婚してはいたが、まだ24歳だった。ダンテも24歳。ダンテは茫然自失、悲嘆にくれる。なんとか神学書や哲学書を読んで気を紛らわし、ヴェルギリウスの『アエネーイス』、ボエティウスの『哲学の慰め』、キケロの『友情論』などを読み、ともかくもベアトリーチェのために綴ってきた詩をまとめ、4年後に一冊の詩集とした。これが『新生』(ヴィタ・ヌーヴォ)だった。詩的半生の恋情自叙伝といってもよい。ソネット25篇、カンツォーネ4篇、バラータ1篇、スタンツァ1篇。ソネットは14行詩、カンツォーネは最初の詩節の行末の語が続く詩節の行末にくりかえしあらわれる詩、いずれも当時、シチリア派がようやく完成しつつあった詩型だった。
ダンテを知るにはこのシチリア派を観望することが欠かせない。シチリア派を興したのはスヴェヴィア朝のフェデリコ2世。フェデリコ2世は父ハインリッヒ6世のドイツの血をもって生まれたのに、初期イタリア語のほうがずっと好きで、1208年にナポリ王兼シチリア王になると、詩歌に耽溺した。日本でいえば、後鳥羽院が『新古今和歌集』とそのスタイルに耽溺した時期とまったく同じ時期にあたっていて、不思議なくらいの同期的振動ともいえる。ダンテを知ろうとするには、この“シチリア派の後鳥羽院”とでもいうべきフェデリコ2世のことが欠かせない。シチリア派はトスカナ派を生んだ。13世紀末になってシチリア派の影響を受けたボローニャ派がおこり、グイド・グイニツェリがその花を咲かせると、この派の清新な詩体がフィレンツェに流れこんだ。
若きダンテの最も親しい友人だったグイド・カヴァルカンティはこの清新な詩体を最初に身につけた。『神曲』煉獄篇の第26歌では、ダンテはグイド・グイニツェリは「私の父というべき詩人」と書いている。『新生』の詩篇はボローニャ派の集大成ともいうべきものになった。これをもって、フェデリコ2世を後鳥羽院に比するに、定家・西行・長明をへて、兼好や阿仏尼あたりがダンテの執筆時にあたる。ダンテの生まれが1265年、夢窓疎石が1275年、兼好が1283年の生まれ。ダンテによってイタリア語が確立していく、これはフランス語が『ロランの歌』で、英語が『アーサー王物語』で、日本語が『平家物語』でというようにだ。 『新生』はこれをもって新生を期そうとしたダンテの願望がよくあらわれてはいるが、この詩集はどう見てもベアトリーチェの死を乗り越えないままのダンテの取り乱した実情をあらわす。有心(うしん)ではあっても余情(よせい)や幽玄には至っていない。『新生』第23章にはベアトリーチェが死んだ夢を見て、夜中に起きると凍えるように慄くダンテ自身の姿が描かれる。それほどにベアトリーチェはダンテの宿願の光だった。ダンテを語るにはこのベアトリーチェの存在を無視できない。
フィレンツェでは毎年5月1日に花祭カレンが開かれる。ダンテがベアトリーチェと出会ったのは1274年のときの花祭で、この年はコルソ通り聖ピエール・マジョーレ教会の隣のファルコ・ポルティナーリの宏大な邸宅の庭で催された。そこがベアトリーチェの実家だった。ベアトリーチェは9歳。すでにダンテはベアトリーチェの兄マネットから妹ベアトリーチェのことを聞いてはいたが、会ったのは初めて、その白い服に包まれて接客している可憐なベアトリーチェにたちまち魂を奪われる。相手は9歳、ダンテも9歳。これは早熟だ。ダンテがベアトリーチェに出会うのは、二人ともフィレンツェの街にいながらも9年後になる。アルノー河畔の聖トリニタ橋のたもとを、ベアトリーチェが二人の女友達にはさまれて歩いている。二人は再会する。二人は会釈をしたが、会話はしていない。それでも『新生』にはベアトリーチェへのそれ以来の熱愛が痛々しいほど謳われた。その熱愛は、ベアトリーチェが銀行家に嫁いでもなお続き、そして24歳で若死にしてしまった瞬間に永遠の凍結をみせる。ベアトリーチェを失ったダンテが、恋愛詩や失意の物語を書いたというならともかく、『神曲』という巨大なプログラムに立ち向かったところにはただ驚くしかない。
更に続けてゆくと、ダンテは何かをめざすには他者の救いをもつべきであることを冒頭に告げる。ヴェルギリウスがダンテの案内人になっている。『神曲』は古代ローマ初期のヴェルギリウスの傑作古典『アエネーイス』を下敷きにしている。『アエネーイス』はローマ建国の神話を謳った叙事詩であるが、主人公がトロイアの英雄アエネーアースになっていて、トロイアの落城後に“第二のトロイア”、すなわち理想のローマを建国しようという構想になっている。ダンテはこれが気に入ったようだ。前半の6巻はトロイアからローマに到達するまでの放浪。この筋書き自体、『オデュッセイア』のローマ版になっている。悲しみに向かって物語を告げていくという方法が、ホメロスからヴェルギリウスをへてダンテに到達した方法なのか。後半の6巻はラティウムに上陸後、原住民との激しい戦闘が繰り広げられ、アエネーアースは辛くも勝利を得るが、このあたりはダンテの時代のフィレンツェの戦闘に擬せられる。この戦闘に神々が介入するという、天界の地上への唐突な介入の仕方についても、ダンテはこれをヒントに『神曲』のシナリオに生かしている。ダンテは、この『アエネーイス』の作者を自らの案内役にも選んでいる。ともかく、回復しがたい罪状であり、壮大きわまりない復讐という内容になっており、これは偉大な作為そのもの、それなのに至上の恋情で、比較のない感銘の比喩に満ちている。それは宇宙であり、想像であり、国家であり、そして理念の実践のための周到なエンサイクロメディアの記譜になっている。こんな途方もないマスタープラン、なかなかお目にかかれるものではない。
ダンテは『神曲』で何人もの教皇たちを地獄に堕している。ダンテは決して無神論者ではない、敬虔なカトリック教徒だ。なぜこんなことをしたのか。そもそも『神曲』は叙事詩であり、物語でもあり、歴史、百科事典の一面もある。おびただしい数の人名辞典でもある。さらに『神曲』はフィレンツェの政治史であり、国家理想をめぐる議論にもなる。この時代はフィレンツェもラヴェンナもナポリも都市国家、トスカーナ地方だけでもいくつもの都市同盟が複雑に結ばれていた。国家理想といえば、ある意味ではキリスト教の「神の国」のことだった。『神曲』の随所には、ダンテのフィレンツェ政治やキリスト教社会に対する主張や見解が記述されている。それだけではなく聖人や神学者たちのアドレス(住処)も決定されている。そのなかで教皇が次々に地獄に堕される。ダンテには教皇を堕しめる理由もあった。
当初、ダンテは政治家をめざしていた。プラトンにも似ており、フィレンツェを追放された挫折者でもあった。死にいたるまでダンテは理想と挫折の懸崖にぶらさがっていた。1289年にフィレンツェはギベリーニ党を相手にカンバルティーノの合戦で戦った。ダンテはこの時はグェルフィ党の騎兵隊の一兵士だった。グェルフィ党は合戦には辛勝したが、戦闘はかなりすさまじく、地獄篇第20歌と煉獄篇第5歌はその戦闘のありさまで埋まっている。勝ったグェルフィ党が真ッ二つに割れ、それが黒党と白党だった。黒党には古い封建貴族がつき、白党には富裕な市民がついた。ダンテは白党で、富裕な白党はプリオラートという最高行政機関をつくって3名の統領(プリオリ)を選び、毛織物業と両替業を保護する作戦に出た。フィレンツェだけがこうした商業で繁盛していたわけではない。相互に複雑な都市同盟によってこれらの権益は上下降し、いつも左右に揺れた。特に教皇の権勢や教会の利益との関係が熾烈をきわめた。ダンテが統領に選ばれる日がやってきた。ダンテは社会や組織のリーダーになることを引き受けた。その覚悟の瞬間から自分の活動の理想のマスタープランをハイパークロニクルに書き上げていくことを決意し、その実践に乗り出していく。こんなマスタープランこそが『神曲』だった。『神曲』は魂の階梯を描いた長大な浄化の物語、他方においては、この時代の同時進行的な社会宇宙論のためのプログラムだったともいえる。
ダンテによって地獄に堕ちた教皇の代表は、ボニファティウス8世やアドリアーノ5世やクレメンテ5世。ボニファティウス8世はフィレンツェに圧力をかけ、黒党がその権勢のおこぼれをもらおうとした。そこへ教皇庁から教皇に奉仕する100人の騎兵を出せと言ってきた。すでに統領の一人となっていたダンテはこれを拒否する手紙をつきつけたが、教皇庁は応じない。ダンテはローマに陳情するために赴き、失敗し、ついでは冤罪をふくめた容疑で裁判にかけられる。結果は罰金と2年間の国外追放となる。ダンテはやむなく放浪を開始して、各地の食客となって流れ、ラヴェンナに住んだ。この間に『神曲』を書き続けた。当然のごとく、ボニファティウス8世は地獄界に位置づけられる。ニッコロ3世は地獄界第8圏に、アドリアーノ5世が煉獄界の第5円に、チェレスティーノ5世も地獄の入口に捨ておかれた。教皇のすべてが地獄にアドレスされたわけではない。マルティーノ4世は煉獄界第6円に、ジョヴァンニ22世は天堂界第4天に配された。『神曲』の中では教皇であれ、すべてダンテの思いのまま。誰をどこに配当するかということでは迷っている。興味深いことに、ラヴェンナに滞在していた時のダンテは、この地の大司教にそのアドレス配当をめぐる心配事を相談していた。それは、イスラムの異教徒でありながらアリストテレス学を発展させたアヴェロエスやアヴィケンナを煉獄界に住まわせていいか、トマス・アクィナスの論敵でパリ大学の教授だったシジエーリを天堂界の第4天にトマスとともに住まわせていいかといった相談だ。まさに聖人とそれに匹敵する知の王者たちを、どこにアドレスさせるというマスタープランの保留事項を決めたかった。大司教はダンテの配当通りでいいと答えた。ダンテは放浪の中で『神曲』を書いた。そのように放浪しながら聖俗のアドレスをマッピングしながら物語を編集していく作業でもあった。
1289年6月、フィレンツェはアレッツォを盟主とするギベリーニ党の軍隊と命運をかけたカンバルティーノの合戦で辛くも勝った。けれども世情は落ち着かず、人心は動揺していた。その1年後、フィレンツェのアルノー河畔のバルディ家の一室でベアトリーチェが病死した。すでに結婚してはいたが、まだ24歳だった。ダンテも24歳。ダンテは茫然自失、悲嘆にくれる。なんとか神学書や哲学書を読んで気を紛らわし、ヴェルギリウスの『アエネーイス』、ボエティウスの『哲学の慰め』、キケロの『友情論』などを読み、ともかくもベアトリーチェのために綴ってきた詩をまとめ、4年後に一冊の詩集とした。これが『新生』(ヴィタ・ヌーヴォ)だった。詩的半生の恋情自叙伝といってもよい。ソネット25篇、カンツォーネ4篇、バラータ1篇、スタンツァ1篇。ソネットは14行詩、カンツォーネは最初の詩節の行末の語が続く詩節の行末にくりかえしあらわれる詩、いずれも当時、シチリア派がようやく完成しつつあった詩型だった。
ダンテを知るにはこのシチリア派を観望することが欠かせない。シチリア派を興したのはスヴェヴィア朝のフェデリコ2世。フェデリコ2世は父ハインリッヒ6世のドイツの血をもって生まれたのに、初期イタリア語のほうがずっと好きで、1208年にナポリ王兼シチリア王になると、詩歌に耽溺した。日本でいえば、後鳥羽院が『新古今和歌集』とそのスタイルに耽溺した時期とまったく同じ時期にあたっていて、不思議なくらいの同期的振動ともいえる。ダンテを知ろうとするには、この“シチリア派の後鳥羽院”とでもいうべきフェデリコ2世のことが欠かせない。シチリア派はトスカナ派を生んだ。13世紀末になってシチリア派の影響を受けたボローニャ派がおこり、グイド・グイニツェリがその花を咲かせると、この派の清新な詩体がフィレンツェに流れこんだ。
若きダンテの最も親しい友人だったグイド・カヴァルカンティはこの清新な詩体を最初に身につけた。『神曲』煉獄篇の第26歌では、ダンテはグイド・グイニツェリは「私の父というべき詩人」と書いている。『新生』の詩篇はボローニャ派の集大成ともいうべきものになった。これをもって、フェデリコ2世を後鳥羽院に比するに、定家・西行・長明をへて、兼好や阿仏尼あたりがダンテの執筆時にあたる。ダンテの生まれが1265年、夢窓疎石が1275年、兼好が1283年の生まれ。ダンテによってイタリア語が確立していく、これはフランス語が『ロランの歌』で、英語が『アーサー王物語』で、日本語が『平家物語』でというようにだ。 『新生』はこれをもって新生を期そうとしたダンテの願望がよくあらわれてはいるが、この詩集はどう見てもベアトリーチェの死を乗り越えないままのダンテの取り乱した実情をあらわす。有心(うしん)ではあっても余情(よせい)や幽玄には至っていない。『新生』第23章にはベアトリーチェが死んだ夢を見て、夜中に起きると凍えるように慄くダンテ自身の姿が描かれる。それほどにベアトリーチェはダンテの宿願の光だった。ダンテを語るにはこのベアトリーチェの存在を無視できない。
フィレンツェでは毎年5月1日に花祭カレンが開かれる。ダンテがベアトリーチェと出会ったのは1274年のときの花祭で、この年はコルソ通り聖ピエール・マジョーレ教会の隣のファルコ・ポルティナーリの宏大な邸宅の庭で催された。そこがベアトリーチェの実家だった。ベアトリーチェは9歳。すでにダンテはベアトリーチェの兄マネットから妹ベアトリーチェのことを聞いてはいたが、会ったのは初めて、その白い服に包まれて接客している可憐なベアトリーチェにたちまち魂を奪われる。相手は9歳、ダンテも9歳。これは早熟だ。ダンテがベアトリーチェに出会うのは、二人ともフィレンツェの街にいながらも9年後になる。アルノー河畔の聖トリニタ橋のたもとを、ベアトリーチェが二人の女友達にはさまれて歩いている。二人は再会する。二人は会釈をしたが、会話はしていない。それでも『新生』にはベアトリーチェへのそれ以来の熱愛が痛々しいほど謳われた。その熱愛は、ベアトリーチェが銀行家に嫁いでもなお続き、そして24歳で若死にしてしまった瞬間に永遠の凍結をみせる。ベアトリーチェを失ったダンテが、恋愛詩や失意の物語を書いたというならともかく、『神曲』という巨大なプログラムに立ち向かったところにはただ驚くしかない。