murota 雑記ブログ

私的なメモ記録のため、一般には非公開のブログ。
通常メモと歴史メモ以外にはパスワードが必要。

岡倉天心の「茶の本」、その背景が興味深い。

2019年06月22日 | 通常メモ
 岡倉天心の「茶の本」、出版された原本は英語だった。1900年(明治33年)をはさむ約5年ごとに明治文化を代表する3冊の英文の書物が日本人によって書かれている。いずれも大きなセンセーションをもたらしたが、その3冊とは、内村鑑三の“Japan and The Japanese”(日本及び日本人)、新渡戸稲造の“Bushido“(武士道)、岡倉天心の”The Book of Tea”(茶の本)だった。この「茶の本」について松岡正剛氏が興味深いことを述べている。その内容をたどってみたい。

 『茶の本』の精髄を集約した翻訳の文章のまま引用すると、以下のようになる。
1、西洋人は、日本が平和のおだやかな技芸に耽っていたとき、日本を野蛮国とみなしていたものである。だが、日本が満州の戦場で大殺戮を犯しはじめて以来、文明国とよんでいる。
2、いつになったら西洋は東洋を理解するのか。西洋の特徴はいかに理性的に「自慢」するかであり、日本の特徴は「内省」によるものである。
3、茶は衛生学であって経済学である。茶はもともと「生の術」であって、「変装した道教」である。
4、われわれは生活の中の美を破壊することですべてを破壊する。誰か大魔術師が社会の幹から堂々とした琴をつくる必要がある。
5、花は星の涙滴である。つまり花は得心であって、世界観なのである。
6、宗教においては未来はわれわれのうしろにあり、芸術においては現在が永遠になる。
7、出会った瞬間にすべてが決まる。そして自己が超越される。それ以外はない。
8、数寄屋は好き家である。そこにはパセイジ(パッサージュ=通過)だけがある。
9、茶の湯は即興劇である。そこには無始と無終ばかりが流れている。
10、われわれは「不完全」に対する真摯な瞑想をつづけているものたちなのである。
以上10か条になる。

 欧米の日本を見る目にたいする痛烈な皮肉であり、茶の湯の特色を「生の術」「変装した道教」と言い切る。「無始と無終の即興劇」という。驚くべきは「数寄」あるいは「数寄屋」を一言で「パセイジ」(passage)と喝破する。数寄とは、好くものに向けて多様な文物の透かしものを通過させていくこと。それを二つの櫛の歯を空中で互いに交差させるように実感すること。以上の十箇条のなかで最も天心の美学思想を天に届かせているのは、10の「不完全」をめぐる瞑想的芸術観。日本人がついぞ世界にむけて放てなかった哲学。天心はそこを、「想像のはたらきで未完成を完成させるのです」と言っている。『茶の本』において天心が月明の天空に放った矢は十戒のごとくエメラルド板を穿った。

 そもそも『茶の本』は薄い一冊で、原文は英文でもっと短い。村岡博訳の岩波文庫で、本文は60ページにも満たない。ここに含蓄された判断と洞察には茶道論者が百人かかってもかなわない。なぜ天心がこれほどの判断と洞察ができたのか。どんな覚悟をもって端的に濃縮しきれたのか。松本清張の天心論は意地悪で、大岡信のものは優しい。『茶の本』、『東洋の覚醒』、『日本の覚醒』と順に読む。天心が文久2年に生まれて大正2年に52歳で死ぬまでの、明治社会文化の根本的な動向、そして見えにくい細部の経緯を知る必要がある。天心には「境涯」という言葉がふさわしい。その境涯の発端は父親が越前藩士として松平春獄の命で橋本左内らとともに脱藩したことにあった。遠くは朝倉一乗谷の景色がある。天心はこの記憶のなかで生を受けた。その天心が生まれ育ったのは横浜。そこは欧米に向かって開かれた「窓」だった。そこには和洋折衷の典型としてのローマ字をおこしたヘボンも、英学校をつくったバラー宣教師も西洋思想を説いたブラウン教父もいた。7歳の天心はまさにヘボン塾とブラウン塾で英語を教わっている。この塾からはのちに富士見町教会を創設する植村正久も横浜ニューグランドホテルでボーイをしていた北村透谷も出た。

 9歳で母を亡くし、再婚した父の都合で10歳で神奈川の長延寺に預けられると、ここで漢籍に夢中になる。ついで14歳で東京開成学校(東大)に入った天心が森春濤{もりしゅんとう}に漢詩を習い、奥田晴湖に学んで大和絵の指導をうけたことともつながって、天心の山水思想を育んだ。この時期の天心の漢詩を読むと、師の水準をはるかに抜いている。天心は東大生になる。その在学中にハーバード大学からお雇い教師として来日した俊英アーネスト・フェロノサと出会い、早々に英語力を認められ、通訳として重宝がられる。18歳で結婚もした。ここではやくも境涯を分けるちょっとした出来事がおこる。卒論に天高く「国家論」を書くのだが、幼すぎる若妻がヒステリーをおこしてこれを燃やし、やむなく「美術論」でまにあわせたのがフェノロサを驚かせた。卒業して文部省の音楽取調掛に就職したところ、翌年にアメリカから帰ってきた伊沢修二とソリが合わず内記課に移った。この偶然が天心をフェノロサの美術調査に随行させることになる。なかでも千年の眠りから覚めた夢殿観音との逢着はフェノロサよりも天心を決定的に「東洋の夢」に走らせた。その一方、このときの調査団長が九鬼隆一であったことも境涯を大きく左右した。九鬼周造の父親であり、その夫人波津との恋愛事件こそ天心を東京美術学校校長の座から引きずりおろし、それが奇縁で天心らは日本美術院をおこして五浦に籠城した。とびぬけたエリート官僚であった天心は23歳で図画教育調査委員にも任命されるが、そこで学生指導の方法をめぐって小山正太郎と正面からぶつかる。小山は明治美術教育の大立者となった洋画家で、このときは洋風鉛筆の指導を主張したのだが、天心はこれをよく反撃した。毛筆にこだわった。のちに東京美術学校で断固として「洋画科」を採用しようとしなかった方針は、ここに発している。時の権威者とぶつかれなかった者が時代を切り開けるわけがない。

 明治19年、25歳の天心は図画取調掛主幹となって欧米に行く。主要な美術館をほぼ巡ったのに、イタリア・ルネサンスの絵画彫刻に感嘆したほかは、大半の近代美術に失望していた。「空しく写生の奴」に堕しているという。道元や雪舟の入宋入明体験と酷似していて興味深い。道元も雪舟も「彼の地には学ぶものが少ない」と言って帰ってきた。天心においては、すでに東洋日本の山水画を凝視していた眼がルネサンス以外の西洋画に迷わせなかった。あれほどルネサンスに精通していた矢代幸雄が帰国して東京で開かれていた宋元水墨山水の展示に腰を抜かすほど感銘したことにくらべると、天心の図抜けた早熟を物語る。

 明治憲法の発布の明治22年、東京美術学校が上野に開校する。いまの芸大の前身だ。天心はその校長であって、同時に帝国博物館美術部長を兼任し、さらに高田早苗らとは演劇矯風会を設立してそれらの牽引役をことごとくはたす。さらに高橋健三と日本で最初の本格的美術誌「国華」の創刊にもこぎつける。まだなお28歳だった。東京美術学校がいかに独創的で奇抜不敵であったか。天心の意匠指導によって教授陣がアザラシの皮の道服を着用させられたのだから想像がつく。ここで「日本画」という概念と、その後の日本の美術界を二分する「日本画家という境涯」が初めて発芽する。それまで日本画という言葉はなかった。それまでは大和絵か国画か和画だった。この美術学校時代の天心の美術史講義、帰国したフェノロサに代わって担当。いまは平凡社ライブラリーで気安く読める『日本美術史』は端的にいって、民族主義・世間主義・個性主義・発展主義の4点がみごとに陰陽交差して噛みあって、当時としてはきわめて独創的なものになっている。世間主義というのは今日なら民主主義にあたるが、天心はこれを「世間にはびこる」と見た。ともかく、このころの天心の境涯は、すこぶる隆盛で、一方において大観・春草らの学生に天才芸術教育を施してこれをみるみるうちに育てあげ、他方では根岸に数寄屋を造ってここで森田思軒・饗庭篁村・幸田露伴・高橋太華・宮崎三昧などの近所の文人とも遊芸の限りを尽くし、天心流の節会を遊んだ。

 料亭を借りきるばかりではない、明治25年の秋には隅田川に盃流しの宴を催す。天心はすでに「教育と生活と表現と遊芸」をほぼ完全に融合させる。それが「生の芸術」であり、「変装した道教」。また美術学校の目標であった「特質ある傑物」を制作することだった。天心はすでに美術・演劇・遊芸・教育をそのトップリーダーとの交わりを通してことごとく発信させてゆく。いわば文化行政のすべてにおいて試行しないものはなかった。天心は「不完全」こそ想像力が補える方法を生むという確信をもっていた。すべてはどのような領域においても「融合」しうるとおもえていた。そこまで融合がすすめばここには恋愛も加わってくる。予期せぬスキャンダルが待ちかまえていた。発端は初代のアメリカ全権公使となった九鬼隆一が、折から欧米美術視察中の天心がアメリカに立ち寄ったときに、妊娠中の夫人波津(星崎初子)を天心にエスコートさせて日本に帰らせたことにある。夫人は異国で出産するのが不安で帰国を望んだのだが、海を渡って横浜港に帰るまでの間に、二人には何かが芽生えた。明治二十年のこと、結局、九鬼隆一と別れた波津が星崎初子として根岸に越し、二人は炎上、それをすっぱ抜く怪文書が出回り、天心は校長の座を追われた。橋本雅邦も高村光雲も追われたが、天心を慕う教官24名も下村観山・横山大観・剣持忠四郎・六角紫水をはじめみずから辞表を書いて殉ずることを厭わなかった。学校は蛻(もぬけ)の殻になる。さすがに天心は困ったが、奮然と舵を切りなおすと谷中初音町に木造2階建の南北両館の展観型の学舎をつくり、ここに新たに日本美術院を創設してみせた。天心は「官」から「民」に降りたのだ。実はこのときの天心はスカンピンだったが、大勢から資金を集めようとしてままならず、かつて奈良古寺調査に同道し、アメリカでもいろいろ世話になった医師でコレクターだったウィリアム・ビゲローに、ポンと1万ドルを郵送してもらっている。

 この日本美術院出現の快挙を見た高山樗牛は「太陽」論壇にさっそく篆大の筆をふるった。これも有名になった「奇骨侠骨、懲戒免除なんのその、堂々男児は死んでもよい」。ちなみに、アメリカで星崎初子が妊娠して産んだ子が九鬼周造になる。九鬼は自分が母と天心のあいだの子ではないかという疑念を持ったという。その後、天心は遊蕩に走らなかった。ひとつには大観・春草に日本画の究極的な冒険を促した。世間はこれを「化物絵{ばけものえ}・朦朧画{もうろうが}」と揶揄したのだが、この実験成果は大きい。ひとつにはインドに旅立ってロンドンに寄り、さらにボストンに入って、そのそれぞれの地で英文による『東洋の覚醒』『東洋の理想』『日本の覚醒』を書いたこと。実は『茶の本』はこの3冊の英文本の直後に、いったん帰国して五浦に静寂の地を見つけた後に、もう一度ボストンのガードナー夫人のもとに渡った時に書き、ニューヨークで出版した。天心は世界と対峙したという実感をもったようだが、天心はたんなる美学的なコスモポリタンになろうとしたのではなかった。グローバリズムなどを持ち出しはしなかった。ここで天心は明確に「アジアは一つ」という構想を表明する。その意味はいろいろの態度と哲理と社会観と歴史芸術を含んだ西欧帝国主義に抗すること、アジア民族の自決を闘いとること、風景や花鳥や人物や精神の表現に先駆するものをさらに発展させること、黄禍{イエローペリル}のキャンペーンに退かない勇気を発揮すること、そのアジア構想の一環としての日本の覚醒を勝ち取ることなど、論旨は明快だったが、その含むところは多かった。後に大アジア主義の鼓吹とも、ナショナリズムの高唱とも、また日韓併合のお先棒をかついだとも批判されたのはこのせいだ。どんな反応が世間からやってきても、天心はまったく迷っていなかった。世間主義についてはとっくに見抜いていた。世間に対決する構想には徹底した「表現の凱歌」をあげるべきだと考えていた。かくて五浦に日本美術院の精鋭が移るときがやってくる。六角堂を建設し、それぞれの住居を建てた。これを機に家族とともに五浦に移った。大観・観山・武山・春草。名画を次々に生んだ五浦は大観によれば「赤貧を洗う日々」だった。天心の境涯はここからしだいに寂しくなっていく。その寂寞は天心が望んだことだった。

 それは最後の草稿になったオペラ『白狐』のシナリオに如実にあらわれている。この寂寞は天心ほどの者をも静慮させる。剣持忠四郎や菱田春草が相次いで早逝したこともある。ラフカディオ・ハーンの日本における日々を海外の論客が叩いたこともある。天心はこれには真っ先に抗議してニューヨーク・タイムスに反論の寄稿をした。ハーンすら海外で理解されていないことは、いったん世界に対峙したと思えた天心の境涯のどこかに小さな穴が徐々に大きな空洞になっていくという予感をもたらした。天心は日本の将来に不安をもったのであり、日本の本来が失われていくことを直観した。そのことが自身が努めた計画の実践に不如意があったかもしれないという自省をもたらしていた。それを天心の言葉で端的にいえば、「故意に何かを仕立てずにおいて、想像のはたらきでこれを完成させる」ということになる。

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。