WANABEさんの日記

wannabe=want to be
明日には! と生きてる私の日記です。
思いつくまま、気ままに書きました。

大化のの改新の通説が・・・・

2007年02月03日 | 日記

7世紀前半にけん制を誇った蘇我蝦夷・入鹿父子の邸宅跡とみられる石垣と敷地造成の跡が甘樫丘東麓遺跡の発掘で見つかったと奈良文化財研究所が発表した。

日本書紀の記述と談山神社の絵巻の蝦夷が、中大兄皇子が入鹿を斬殺されたあと「天皇記・国記・珍宝」を邸宅とともに焼いて自害したとする記述につながる焼け跡は見つからなかったとのこと。
また、NHKスペシャルでは蘇我蝦夷・入鹿が国家を我物と企んでいたという通説も覆るのではないか?

日本書紀が大化の改新の逆臣として書き換えられたのではないか?と論じられていた。

考古学は好きではないが、昔、黒岩重吾著「落日の王子」を読んでロマンを感じていたが・・・・・

(NHKスペシャルより転記)645年に起きた古代史最大の事件「大化改新」。日本書紀』によれば、天皇を脅かす権勢を誇り、改革の障害となっていた蘇我入鹿に対する中大兄皇子や中臣鎌足のクーデターとされている。
しかし、事件の舞台となった都・飛鳥(奈良県明日香村)で次々に発掘される遺跡は、史実とは異なる真相を物語りはじめた。
現在、昨年に引き続き、甘樫丘で蘇我入鹿の邸宅跡が発掘調査されているが、これまで発掘された蘇我一族の邸宅跡、飛鳥寺など関係する遺跡を総合すると、自らが盾となって都を要塞化し、あたかも王権を外敵から守ろうとしていた蘇我氏の側面が明らかになってきた。
その要が、飛鳥の入り口に位置し、都の外を一望できる甘樫丘だ。
渡来系ともいわれ、大陸に情報ルートを持っていた入鹿は、巨大帝国・唐が倭国に侵略の矛先を向けていることをいち早く察知、脅威に備え飛鳥の防衛網構築に力を注いだ。
その一方で、古代日本の海の玄関であった大阪・難波を整備し、東アジア諸国と協調路線の外交を繰り広げようとした。
それなのに何故、入鹿は殺されなければならなかったのか?さらにクーデターの後、中央集権的な律令国家を目指して行われたという大化改新の政治改革についても、『日本書紀』を古代中国語の音韻・語法から分析する最新の研究などから、その内容の信憑性に疑いが向けられ始めている。
一体、「大化改新」の真相はどこにあるのか?番組では、要塞都市としての飛鳥の全貌を浮き彫りにしながら、大化改新の隠された真相に迫る。


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