Kameの独り言

思いついたことをありのままに

道訓について

2007年10月13日 12時22分06秒 | 金剛禅

「道訓」は金剛禅運動の実践綱領というべきものです。 「天」と「人」とのつながりを踏まえ、“霊止”としてどう行動すべきかが説かれています。 「道訓」は、「人道」を説いています.「人道」とは、人の踏み行うべき道であり、道徳規範です。

 しかし、「人道」は、ダ←マに発する「天道」の裏付けがあり、一体となってこそ、いつの時代でも、どこの地域社会においても天地に恥じない行動の源泉たり得ます。ある意味では万人共通の「道徳律」ともいえる「道訓」ですが、その奥にはしっかりと金剛禅の教えが息づいていることを忘れないようにしたいものです。

 そして、金剛禅は行動の宗教です.「道訓」は、その実践の具体的な教えであり、行としての規範そのものです。実践してこそ価値があるのです。(意訳) 人の踏み行う道は、人間社会の都合でこしらえたものではなく、宇宙にあまねく大いなるはたらき、即ち大真理・大法則の象徴であり、「天」(ダーマ)に基盤を置くもので、人として等しくよりどころとするべきものである。

 そのような本来の道の在りように気づいたならば、人はまっしぐらに進むことができるが、それに気づかなければ生きる道を踏みはずすことになってしまう。だから、道というものはたとえ一瞬の間でも忘れてはならないのである。

 人間としてこの世に生を受けた以上、この、天道に基づく道を迷わずに歩むことほど尊いことはない。せいいっぱい人道を尽くしてこそ、胸を張って堂々と生きられるというものである。

 仮にも、人間として生まれながら、仁(他者への思いやり)・義(仁を実践する勇気)・忠(自己を偽らない誠実さ)・孝(両親先祖への敬愛報恩)・礼(社会的規範や礼儀の遵守)などの徳を尽くさなかったならば、肉体だけは生きていても、心は死んでいるのも同じである.これはまさに、いのちを天から盗んでいるとしか言いようがない。

 もともと、(ダーマの分霊である)人の心そのものが神や仏なのであり、神仏とは人の本質である「たましい」でもある。心に疚しいことがなければ、なんら神仏にも恥じることはないのである。

 だから、自己のあらゆる行動は、ことごとくダーマと内なる神仏が見守っているのであって、(善因には善果、悪因には悪果)結果は自ずから明らかで、ごくわずかな過ちも見逃さないのである。  それ故、大自然には敬意をはらい、外なる神仏には礼を失せず、祖先には追慕の念を絶やさず、両親には孝養を尽くし、社会の規範には従い、師の教えには背かず、兄弟妹を愛し、友人を信頼し、親族は仲良く、地域社会では互いに協力し、夫婦はともに和やかに添い遂げ、他者の難儀には手を差し伸べ、危急を救い、道を踏み外す人には、正道に戻るよう諭すべきである。

 このように心を尽くして人道を歩み、仮にも過ちに気づいたならば、新たな心でやり直し、よこしまな思いを断ち切り、あらゆる善事を敬虔な心で実行すれば、たとえ他人は誰も見ていなくても、自己の心にある神仏には、すべて見通しで、幸福へ向かう原動力ともなり、身心ともに健やかとなり、子孫への良き手本ともなり、思い患って、わざわいや病に侵されることも少なくなろう。これをダーマに守られるというのである。 ダーマと「天」「神仏」「霊」  「道訓」では、末尾の「ダーマの加護を…」という表現以外は、「ダーマ」の語は用いられていません。その代わりに、「天」「神仏」「霊」など、東洋思想 (中国・朝鮮・日本等東アジアに通底する思想・信仰などの精神文化)の用語が用いられています。

 しかし、「道訓」は、行じるべき「道」(実践)の「訓え」です。儒教や道教の教典などではありません。 <思想としての普遍性>

 これらの用語が用いられているのは、一つには、金剛禅はおろか、仏教という枠さえ越えた、思想の普遍性によるものです。

 それは、どのような信仰の対象を持っていようと、人がみな大いなるはたらきによって生かされている事実は変わらない。「天」であれ、「神」であれ、「仏」であれ、大いなるはたらきの根元は一つである。人は、この偉大なるものの「分霊」として存在する。という開祖の考えによるものです。

 <開祖の体験を反映して>

 もう一つは、金剛禅が開祖の全体験から発する宗教だからです。開祖は、幼少のころから大陸にあこがれ、長じては中国大陸を縦横に馳せ、中国人とともに過ごしました。その風土、生活、思考など、総じて東洋文化のエキスが開祖の思想形成に大きく作用したであろうことは疑いありません。

 しかも、開祖は達磨を祖師と仰ぎ、達磨ゆかりの行法を主行と定めています。達磨の思想は中国において開花結実したものにほかなりません。達磨に始まる中国禅は、儒家や道家の思想と互いに影響しあい、やがて広い意味での東洋思想の一翼を担うに至ります。「道訓」の背景には、達磨と開祖を通じて、東洋思想の影響も強く存在する所以です。  よって、「道訓」には、「儒家」や「道家」が多用する文言が使われてはいますが、それらは、東洋思想に共通する「漢字」本来の語義として用いられています。

 金剛禅の教義は、あくまで釈尊の悟りの本質「ダーマ」を中核とします。だから、東洋思想の根元ともいえる「天」も、開祖にとっては「ダーマ」の同義語であり、「霊」も死後の「霊魂」を否定しつつ、「ダーマの分霊」のように、生身の人間の存在を規定する語とするのです。また、「人心は、即ち神なり、仏なり」の句も、大乗禅たる達廉の「見性成仏=悉有仏性」と重なり、ダーマの無限の可能性を主張しているのです。

“人道’’と“天道”(道徳と宗教)

  人間社会にとって、道徳が極めて大切であることはいうまでもありません。昨今の世相を見るにつけ、何とかしなければ、人類に、日本に未来はないと考える人々は、先ず道徳復興、道徳心の向上を叫びます。

 しかし、いくら声高に叫んだからといって、自然に道徳心が広がり深まるというわけではなさそうです。実際、何年も何年も前から言われ続けているのに、退廃はいっそう進行しています。何故でしょう。

 結論からいえば、「天(宗教)」に基盤を持たない「道(道徳)」には限界があるからです。

 道徳は、特定の時代、特定の社会で、その構成員で決められた、いわば人間だけのルールです。現代社会には現代社会の道徳があるように、たとえば封建時代には封建時代の道徳がありました。そこには、士・農・工・商の差別があり、斬り捨て御免の特権さえ認められていました。人間扱いをされない人々は道徳の範疇外だったのです。

 古代の奴隷も同様でした。現在でも、正義や人道という道徳の名の下に、戦争でさえ正当化されかねません。

 また、人間だけの約束事なら、悪いとわかっていても、人が見ていなければそれでいいという風潮もあります。  これが、「一動一静、総て神仏の監察する処」で、「人見ずと錐も、神仏既に早く知りて」だとしたら、衿を正さずにはおれないはずです。「道は天より生じ」とは、このことを言うのです。そして、これこそが、宗教の世界なのです。

 とりわけ仏教では「すべて悪しきことをなさず、善きことを実践し、自己の心を浄むること、これ諸々の仏の教えなり」(『七仏通戒偈』)といって、人が見ていようと見ていまいと、悪事はなさず、善事をなし、そのことを通して自己の心を向上させるのが仏教の基本であると説いています。

[参考]道徳 人のふみ行うべき道。ある社会で、その成員の社会に対する、あるいは成員相互間の行為の善悪を判断する基準として、一般に承認されている規範の総体.法律のような外面的強制力を伴うものでなく、個人の内面的な原理。(『広辞苑(第五版)』)


鎮魂行について

2007年10月13日 12時19分43秒 | 金剛禅
1.教典を唱え、調息して身心を整える   鎮魂行は、金剛禅における「内修」の実践の一つです。教典を唱えて教えに心を向け、自らの行いを省みます。鎮魂行は、持戒、反省の行でもあります。   そして、調息して身心の統一を図り、しかるのち、少林寺拳法の修練に入ります。一同で教典を唱和することが、同じ道を歩む同志であるという意識の形成にもつなががります。   鎮魂行を行うに当たっては、参座する者の気を散らさないよう、その場に集中でききる雰囲気づくりが大切です。  2.金剛禅の「教典」 教典には、我々が目指すべき目的地と、そこへ向かうための道筋と、そのための実践行動の在りようが、具体的かつ明確に示されています。 「経典」でなく「教典」  金剛禅では、「聖句」、「誓願」、「礼拝詞」、「道訓」、「信条」をあわせて「教典」と呼びます.  一般の仏教のように「経典」としないのは、釈尊の教説(経)をまとめたものではなく、「聖句」以外は開祖が金剛禅のために自ら定められた教えだからです。もっとも、金剛禅は、“釈尊の正しい教えを現代に生かす”教えですから、教典すべての底流に釈尊の教えが息づいていることは言うまでもありません。 自分自身に唱え聞かせる  教典を唱えるのは、その内容を心に刻むためです。意味も解さずに、ただ唱えれば良いというものではありません。 一般の仏教における「経典」も、本来は、読んで、理解して、信じて、実践するための基本となるものであり、開祖も、『教範』(第一編・四「仏教軽視の原因と読経僧」)でこの点を強く指摘されています。  教典は、誰のためでもなく、自分自身に唱え聞かせるためのものです。

達磨の教え「二入四行論」

2007年10月13日 12時17分02秒 | 金剛禅
達磨の教え「二入四行論」から拳禅一如を見直してみる  先ず教範で開祖の教え「拳禅一如」を見直し、そこから達磨の教え「二入四行論」に当てはめて考えてみましょう。「拳は動功であり、禅即ち座禅は、静功である。拳は又肉体を意味し、禅は精神をあらわしている。  人間は本来、霊肉一如のものであって、霊魂と肉体は離すべからざるものである。故に、霊のみの修養によって、真実の救いや、人世に於ける真の大安慰が得られるものではなく、又肉体のみの修練によって、真の人格が完成したり、真の悟りが得られるものではない。  身と心、動と静、この相反するが如き二つのものは天地、陰陽の両相と同じく、別々には存在価値のないものである。故に正しい修養の道は、先ず霊の住家である肉体を養いながら、心即ち霊を修めるものでなくてはならぬのである。修養と云う言葉の意味は、心を修め、身を養うと云うところからきていることを知らなければならない。人間の心と身体の関係は、玄妙の極みである、心と体は二つのもののように見えて、実は一つである。心が主でもなければ、肉体が主でもなく、肉体が在っての心であり、霊があって始めて肉体は意味があるのである。・・・・・・(中略)・・・。  別々に離すことが出来ないものとするならば、その修養はあくまで霊肉一如でなければならぬ筈である。しかるに、現在多く行なわれている各種の修養法と称するものは、そのほとんどが精神偏重である。はなはだしいものは、足がくさる迄座禅せよと教えたり、絶食をさせたり、寒中滝に打たれる等の苦行をさせ、肉体を苦しめることによって、精神の安らいや悟りを得るのである等と説いている。長期の座禅や断食その他の苦行は肉体を弱化させて、枯木の如き人間をつくっている。  又各種の武道やスポーツ等は、勝敗が第一であり、精神修養とは名ばかりで、実質は技術第一、記録第一と特種な肉体を練成することに専念しているのが実状である。・・・・・・(以下略)。」  さて、拳は肉体を意味し、というところを考えてみてください。 この肉体を意味しと言う所を,単に肉体の鍛錬と考えてしまうと、単なる武道に精神論を加えたものが少林寺拳法という事になってしまうのです。それを金剛禅と呼ぶには余りにも浅すぎるのではないでしょうか。  人間の身体は鍛えても衰えるものです。若い間は力任せでも何とかなっていたものが、年をとれば何とも成らなくなってしまう、だから引退しなければならなくなってしまう。それでは武道やスポーツと変わらなくなってしまいます。  私は、体術において理法を追い求める事によって、腕力で行なっていたものを他の方向や角度、呼吸法、気の用いかたという能力によって転換する事を考えました。これは、達磨の教えた理入(りにゅう)にあたるものと考えれば、拳は肉体の限界を悟り、物事を理に応じて進める事の大切さを知る事なのではないでしょうか。だからこそ、これを禅の三祖 僧粲大師は「動中の功は、静中の功に百千倍する」と説かれた所以であり、北修禅の流れを組む我々が、拳と禅の二道に重きをおく理由と考えるべきではないでしょうか。   体の駆使と悟りから理を知り考える事を理入。様々な心構えから物事の真理を知り悟る事、称法行(しょうほうぎょう)四行の目的と考えれば、この二入の理と行が、拳と禅に置き換えられる事に気が付かねばならないのです。この二面から理を悟り万物の普遍の法則である法(ダーマ)を悟る事が拳禅一如の深い意味であると感じるのです。 「ダーマ」を物理学的宇宙観から説明する。(自説)    ダーマを説明しろと言われてなにも知らぬ人になるほどと納得いただける説明をできますか。大光明・大霊力・大真理と聞けば、なるほどなにかすごいものなんだなーという感覚を受けるかもしれませんが、それと同時に宗教的な感覚を感じとるのではないでしょうか。ここで言う「宗教的な」とはあまり良い意味ではありません。いわゆる得体の知れないものという感覚で、よく言えば神秘的な、悪く言えば曖昧な感覚のことです。  そもそも宗教は心のよりどころ、「曖昧な表現があってもそれが宗教観ではないか」と言う人もいるかもしれませんが、私はそうは思いません。なぜなら金剛禅では釈迦の正しい教えを説いているからです。  そこで私は宗教とは全く反対の分野を切り口にして皆さんが金剛禅の信仰の中心になっているダーマを理解できるようにご説明させて頂きます。  現代の宇宙論として通説になっている量子論と相対論という現代物理学の2大理論から導かれた宇宙論をまず紹介します。東大教授佐藤勝彦 著『宇宙は我々の宇宙だけではなかった』を引用しましたので是非ご覧になってください。  宇宙は時間も空間もエネルギーも全くない無から量子論的「トンネル効果」によって創世され、この宇宙は後にたくさん発生する「子宇宙(チャイルド・ユニバース)」、「孫宇宙」「曾孫宇宙」などの「親宇宙」に当たるが、ただ一つだけ生まれたのではなく、この段階でも沢山生まれたと考えられる。 「親宇宙(マザー・ユニバース)」は十のマイナス三十四乗センチメートル(プランクサイズ)程度の閉じた宇宙。創世と同時に内部エネルギー(真空エネルギー)によってインフレーション急膨張を起こし何十桁、何百桁も引き延ばされてマクロな宇宙になったそのさなか、宇宙のあちこちでは相転移が起こり、お湯が沸騰したときの様なボコボコした状態のなかから「子宇宙(チャイルド・ユニバース)」が誕生した。また子宇宙でも同じように「孫宇宙」が生まれ、「孫宇宙」でもまた「曾孫宇宙」が生まれると言うように無数の宇宙が生まれた。 この相転移のプロセスの中で宇宙のエネルギーは一挙に開放される。そして、相転移後の宇宙は開放されたエネルギーで満たされ「火の玉」となった。この瞬間が「相対論的宇宙論」でいうところの「ビッグバン」です。  こうして無数に誕生した宇宙の一つが我々の宇宙に進化した。もちろん他にも無数の宇宙が我々の宇宙と同様に進化している。すなわち、宇宙は我々の宇宙だけでないと言うことがはっきりしたわけです。 そしてビッグバンを経てわれわれの宇宙は膨張進化を続ける。光に満たされていた宇宙では温度が下がるにつれて、物質が誕生し、銀河ができ、星がうまれ、太陽系ができ、地球が生まれます。さらに生命が誕生し、人類に進化し、現在、われわれが知恵を総動員して宇宙の「来し方行く末」を考えているわけです。  しかし、進化した宇宙は、遠い将来、収縮に転じ、やがて「無」の中に消滅してしまうと思われます。宇宙はこのように、常に生成と消滅を繰り返していくのです。そして、われわれの時空を超えたところでも、無限個の宇宙がやはり生成と消滅を繰り返していると思われます。      __以上引用文 ________________________________________  この本を読んで驚かされたのは時間は物質の存在により進む速度が変化し、重力の極限状態では空間は極限まで曲げられ時間の進み方も極限まで遅くなり凍結されてしまうということ、そして何より宇宙の膨張にも終わりがあり、最後は消滅するということでした。宗教観が宇宙観を作り上げていた時代ではかんがえられないことだったとおもいます。しかし、釈迦の宇宙観はこれを素直に受け入れられるのです。無からの誕生そして膨張という育みの中で新しい芽を生み、そして迎える死。宇宙を支配するこの法則は生・育・死であり、宇宙ですらこれを繰り返していることがわかります、実は我々の営みこそが宇宙の営みとなんら変わらないことに気づくのではないでしょうか。  人の言う生をうけたものも、そうでない大地に育まれるように、直接的に生産する部位と間接的に育む部位が存在します。それと同じ様に我々も子孫を残すと同時に様々なものを間接的に育てたり破壊したりしています。死は生の為にあり、生は自らを育み新しい因子を生み死を迎えます。すべてのものはこの法則的行為のもとに互いに関わり合うのです。  超高質量の世界では時間は流れず、とまってしまいます。我々の宇宙の誕生の前がこの時ですが、これが育む段階になって時間が流れはじめます。時間は物質の存在によって変化しています。つまり時間は育みを行うために流れる時間を変えているのです。我々は死を糧として育むためにいきています。だから我々は死を拝み、また関わるお互いを拝みあい、時の中で新しいものを育んでいます。子孫に悪因を植え付けると子孫にはかならず悪果をもたらしますから、時の流れの中で良い因子を積み上げなければなりません。これが宇宙の本能であり、万物の本来の姿。宇宙と同じ呼吸なのだと思います。つまりダーマとは宇宙の本能であり、我々が時の流れの中でしなければいけないことを告げているのです。 中道の精神から不殺活人という理想を考える   単に勢力を争ったり、自分の主義主張で、我を通すために戦いを求め、各々の正義を主張して争いをはじめる。腕力や兵力で相手を叩き伏せねば気の済まない者がいるから戦いになり、多くの悲しみをつくり、怒りが蔓延する。   武の本来の意味はいたずらに人を傷つけ殺すためのものではなく、あくまで争いを止める事にある。『力愛不二』の真の意味である、「力」の表わす理智による自己確立と、「愛」の表わす慈悲をもった自他共楽を兼ね備えた姿勢がなくしては、この連鎖する憎しみを断ち切る事が出来ないのである。   人を傷つければ憎しみが生まれる、例えそれが相手の理不尽から始まった事と思えても、相手にも相手の考え方があっての行動であると思えば、負けたという悲しみが、憎しみに変わる事を理解しなければならない。この憎しみをあおり、さらに、大きな戦いへと持ち込もうとするものがいる事は、最近の世界情勢の中でまざまざと見せ付けられている。   自分の考えのみが正しいと考えるから他がゆるせなくなる。善も悪も無い、人それぞれの立場や考え方、環境で善悪の尺度などどうにでも変わってしまう事を理解する事だ。   右があれば左もある。自分が左だと思っていても、自分を右だと見る人もいる。   相手の意見が気に入らないと潰しに掛かるのではなく、お互いが共存できる道を探すことが重要なのである。   理不尽に身にふり掛かってきた災難を腕力ではなく、理智を持って対処し、粗暴な行為を抑え諭すこと、それが少林寺の拳士に求められる拳の用い方であり、誰もが行なえるためにも理の活用の重要性を説く理由なのである。 力愛不二という考えかたについて  力は理智を表わし、愛は慈悲を表わしている。理智と慈悲、力と愛、この相反する二つのものの調和、統一された状態こそ。人間生活の思想や行動の中心でなくてはならないと云うのが、少林寺拳法の第二の特徴であり、考えかたなのである。   さて、これを「力なき正義は無力であり、愛なき力は暴力である」とばかり解することが多いが、さらに深く考え、我々の日常にあてはめて考えるのならば、次のように解釈してみればよいだろう。   力とは自分に対する信頼であり、責任感を貫き通す真の勇ましさに他ならない。この力が自分に機会という場を導き出す事になる。与えられた機会の中から努力し、一つ一つ着実にこなしていく事で、他者からの信頼を得る事になる。   ただし、力だけでは世の中に通用しない。それ以上に必要なものがある。それが愛である。愛とは他人を愛する事と同時に、他人から愛されるだけの魅力を持つという事、求められるという事でもある。自分に与えられた機会をただこなすだけではなく、魅力のあるものに仕上げる事が出来る人間こそ真の信頼を得ることが出来る。   この力と愛を一つにした行動こそ、社会に求められ、自分の道を開くものである。力に任せた惰性な行動や、求められる事を見抜けないような意識の低さでは駄目だということである。   自他共楽、『 半ばは 自己の幸せを  半ばは 他人の幸せを  』という開祖のことばが答えを示している。 修羅(シュラ)の道と阿羅漢(アラハン)の道 人間の脳には二つの心が同居している。よくドラマやアニメなどでおなじみの天使と悪魔のささやきがこれで、人間を始め動物が持ち合わせている本能の働きと、人間しか持ち合わせない、理性の心の働きの二つのことである。中国では前者を魄(ハク)後者を魂(コン)として区別している。我々の行う修行とは本能の働きを抑制制御し、ダーマの分霊として備わる魂を養うことなのである。   我という字は手と戈の二つの文字が合わさって出来た会意文字。つまり我とは手に戈を持った状態であり、これを行使する心の持ちようで善にも悪にもなりうるのであるから、苦悩の根源である欲求つまりは本能の働きを修め、より理性的な行動を心がけなければならない。人の霊止たる、我の我たる真諦を極め人間は何のためにこの世に生を受けているのかを悟らなければいけないのである。   行という字は、人が人をおぶって向かい合った姿からできている。我々の行いが世のため人のために役立たなければ意味がないのである。自己確立は自他共楽のためであり、決して自己満足で終わってはいけない。己の強さを誇示しようとして他人を傷つけてはいけない。傷つけるものは傷つけられる。悪因があれば必ず悪果がもたらされるのが道理。これはまさに修羅の道。武の意義をはきちがえたものの行為である。二つの戈を止めるという意義を片時も忘れずに己を修め、己に克ち、人をいかして己も生きる済世利民の道、つまりは阿羅漢(仏)の道というより険しく遠い道を我々は選んでいるのである。利己的で安易な道に流され本道を見失ってはいけない。 欲こそ苦悩の根源 生の意義を自覚せよ 三宝印   我々の人生は悩みの繰り返しではないでしょうか。若い人であれば恋愛の悩みというのもあるだろうし、受験生には将来の悩みというのもあります。そんな君たちに知っておいてほしいことがあります。それはどんな人も必ず死を迎えるということです。  皆はまだ若いから死について考察したことなどないと思います。あるとすれば自殺したいと漠然的もしくは衝動的に思ったくらいではないでしょうか、私の言う死にたいする考察とはそういうことを言っているのでは在りません。生きたいという誰しもが持つ生存欲の果てに待つのは必ず死であるという矛盾が苦悩を生み出すのであり、死を認め人生の意義を知ったとき人は苦悩から開放されるということです。すべての悩みは事実と期待が矛盾することに始まります。期待するから失望があるのです。自分の思うままにならないから悩むのです。期待しそれが順調に行っても最後に迎えるのは死、報われない努力。だったら期待するのを止めればいいのです。この世の中は絶えず変化しています。それは生滅を繰り返し、お互いに影響を与え色々な形を生み出し常に変化を繰り返しています<諸行無常>レポートの最初にも取り上げましたがこの宇宙自体がその繰り返しなのです。その中で生・育・死の三つが宇宙の本能としてあると言うお話をしました。そして育こそが生と死の意義だとときました。直接的に育むものもあれば間接的に育むものもあり、良い因子を正しい方法で育成すればそれは次の世代に良い結果や新たな良い因子として継承されるが悪い因子や正しくない育て方をすると淘汰、排除されてしまうという宇宙の法則があるのです。  先日ある拳士が私に質問しました「年をとったり病気をして死んでしまう人がいるのは悪い原因があったんだな~って思えるけどまだ何も汚れていない赤ん坊が事故とかで死んでしまうのはなぜなんでしょう」それは先ほども書きましたが、全てが自分の持つ因や、直接的な縁によって決まるのではなく、縁はお互いに影響しあうものであり、他のものと接したり近づくことによって縁が絡む(生ずる)からなのです。決して前世の因縁(輪廻転生)がもとで死んだのではなく、事故を起こした親には事故をおこした原因があり、また経過(縁)があった結果の事故であり、その人が親であり(因)、一緒にいた(縁)からそのこは死んだのに違いありません。ところでこの親が事故してしまう原因が例えば居眠り運転で、その居眠りの原因がこの子の夜泣きだったとしたらどうでしょう。まさに近づくことで影響しあっていることが想像できると思います。私達は常にいろいろな要因にさらされ、その中で一瞬一瞬を生き抜いているのです。自分の事であって自分だけのことでない、他人のことであって、他人事でない全ての変化は相対的であり関連性の連鎖なのです。<諸方無我>だとするならば、我々は自らによい因と縁をもたらすためにも接する人にもよい因と縁を持たせねばならないのです。半ばは自分の幸せを 半ばは他人のしあわせを考え行動することで周囲を良い因子で満たし、これを直接的に、また、間接的に継承してよりよい世界を作り上げていくものでなければならないのです。そしてそこにこそ安心と安息があるのです。<涅槃寂静>そして、これこそが人間の生の意義であり、イコール宇宙の本能<ダーマ>なのです。 金剛禅と少林寺拳法の原点 開祖の意図したこと  少林寺拳法の原点は単なる武道やスポーツではなく自己確立の為の行であるということ。開祖が戦中から敗戦を迎える中で感じ取った「人の質」の重要さ、そして、この質の向上こそが祖国復興の鍵との信念の中から少林寺は誕生している。  道義も人情も廃れ跡形もなくなってしまっていた当時の日本。正しい事を正しいといえる人間を作ること、自信と勇気と行動力があってなおかつ正義感と慈悲心を持ち合わせた若者を作るために開祖がよりどころとしたのは、釈尊の正しい教え(*1)と達磨の遺法(*2)であった。それは開祖の実体験の中でまさしくこの世の中の無情とそして、相関性を痛感されたからだろう。開祖はこの涅槃寂静を死後の世界ではなく、現世に理想境を建設することと素直に捉え、廃退した仏教を本来ある形に押し戻し、自己確立と自他共楽こそがそれを導き出す唯一の手段であるとした。そのためには釈尊の教えた八正道の実践と真理を導き出すための動功として達磨が残した阿羅漢の拳の復興こそがテーマとなったに違いない。教範の文面や、文の構成、タイトルの付け方からもそれが読みとることが出来る。、開祖の思惑の中では当初から行としての少林寺拳法は確立されており、人集めのためのエサであってエサでなく、それは真意を知って行うことによって悟りが開ける一つの完成された行であることを知らなければならない。ようするに金剛禅とは仏教の始祖釈尊の正しい教えの、少林寺拳法は禅の祖師達磨の遺法に基づく開祖、宗道臣の解釈と実践の形なのである。 *1 釈尊は初法転輪と呼ばれている悟りを開いた直後に初めて行った説法のなかで四宝印(諸行無常、一切行苦、諸法無我、涅槃寂静)と、最期に弟子達に自灯明、法灯明を言い残している。これは金剛禅の二枚看板、自他共楽と自己確立の教えである。 *2 二入四行論といって金剛禅で言う拳禅一如にあたる教え、動功としての阿羅漢の拳は易筋行としての少林寺拳法。 江間氏のレポートより。

僧階 大導師の履修科目

2007年10月13日 12時13分15秒 | 金剛禅

[テーマ番号] [テーマ]

L1  開祖が少林寺拳法を創始するに至った経緯

(留意点) 開祖の少林寺拳法創始の目的が、武道の一流一派を立てることにあったのではなく、「人づくり」にあったことを歴史の中から整理し論述すること。

L2  宗教法人金剛禅総本山少林寺が設立された経緯

(留意点)様々な選択が可能な中で、自らの教団を仏教系禅門の宗教団体として定めたりゆうについて考察し論述すること。

L3  社団法人少林寺拳法連盟が設立された経緯

(留意点)社団法人設立の背景について論述し、また、金剛禅布教と社会教育との共通部分とその違いについても述べること。

L4  財団法人少林寺拳法連盟が設立された経緯

(留意点)少林寺拳法連盟設立の背景について論述し、また、宗教法人の観点から見た同連盟設立の意義と、教団にとっての今後の課題についても述べること。

L5  支部道場の発足にいたった経緯

(留意点)支部道場と道院の違いをあきらかにし、支部道場の歴史的役割について考察し論述すること。

L6  黄卍教団の思想と金剛禅総本山少林寺の思想

(留意点)黄卍教団設立時の思想と祖師貴、そして金剛禅教団とを比較し、その中で変わった部分と変わらない部分について論述すること。

L7  三法人(宗教法人 金剛禅総本山少林寺、財団法人 少林寺拳法連盟、学校法人 禅林学園)の設立の趣旨と活動から見た独立性と共通性

(留意点)三団体の独立性と共通性について論じ、また、各団体の連携による今後の金剛全布教の可能性や課題についても述べること。

科目」宗論(宗教論)4 仏教の歩みと金剛禅(上)

以下より2題を選択する。

[テーマ番号] [テーマ]

M1  釈尊の教えと金剛禅の接点

(留意点) 当時と現代の社会思想的背景の比較を踏まえ、仏教発生と金剛禅成立との接点について考察し論述すること。

M2  金剛禅が「釈尊の正しい教えを現代に生かす」教えであるとはどういうことか

(留意点) 釈尊の正しい教えとはなにか、またそれを生かすとはどういうことかをまとめ、金剛禅では「釈尊の正しい教えを現代に生かす」という表現をとることの意義も論述すること。

M3  釈尊の時代のインドはどんな社会だったか

(留意点) 当時のことを説明するだけでなく、釈尊の教えが人間の普遍的な問題に対する視点を持ちつつも、当時の社会における問題を解決し得る思想であった点についても述べること。

M4  釈尊の生涯

(留意点) 釈尊の生涯を簡単にまとめるか、または強い印象を受ける時期・出来事について論述すること。

M5  釈尊の説法の方法に共通して見られる特徴

(留意点) 釈尊の説法について考察し、その自他の関係についての考え、他者への働きかけ方、物事がわかるということについてなど、教育、人間関係、認識などについて論述すること。

M6  釈尊の教えの中核

(留意点) 「中道」「四諦」「八正道」のいずれかの要約を含めて論述すること。

M7  釈尊の悟りの本質について

(留意点) 「ダーマ(法)」「縁起(因縁)」「三(四)法印」のいずれかの要約を含めて論述すること。

科目」運動論(実践論) 布教のお手引き 教団編

以下より2題を選択する。

[テーマ番号] [テーマ]

N1  仏教の僧伽

(留意点) 原始仏教教団の「僧伽」の性格を整理し、金剛禅教団が継承すべきことと現代に対応するため考察すべきことについても論述すること。

N2  道院の役割とその公共性

(留意点) 「道院」と「寺院」の考え方の違いを整理し、専有道場の役割にも触れながら公共性ある道院活動の展開について考察し論述すること。

N3  宗教法人と教団運営

(留意点) 宗教法人法が規定する世俗的な面、すなわち信教の自由や政教分離の原則、財産の所有、維持管理などと教団運営の関係について考察し論述すること。

N4  教団の共有経済

(留意点) 原始仏教教団の現前僧伽や四方僧伽などの共有経済について考察し論述すること。

N5  金剛禅修行者にとっての教団の存在意識

(留意点) 修行者の意志と教団規範の関係において、いかに自己確立・自他共楽の人間完成の道を歩むのか、教団の存在意義から考察し論述すること。

N6  教団組織における教区の役割

(留意点) 原始仏教教団の界(シーマ)や四方共有などについて考察し、金剛禅教団組織の中核としての教区の役割について論述すること。

科 目」布教演習(阿羅漢行)2 自己評価演習Ⅱ

[方 法] 「少法師補任講習」受講の際に、「自己評価演習 自分史年表」を作成し提出する。