東海道53次鳴海の宿。
宿場町であり城下町であり門前町である歴史のある町である。
東海道筋の本町。曲手(かねんて)という曲がりくねった辻がある。
小生の子供のころ、そこに魚七という魚屋と菊屋という和菓子屋があった。
菊屋の脇の乳母車が通れるほどの小路を入っていくと、密集した家々が苦しいほど接近している。
左手の長屋のような家は「ととじぃ」と言って、夫婦で乳母車で魚を家々に行商してあるく顔の長い目のくぼんだおじさんの家。
その先を入っていくと、万福寺の斜面に沿って建つ小さな小屋のような家がある。
玄関を開けると、大きな祭壇に弘法大師の像や曼荼羅が飾られている部屋が一つ。
奥の狭い部屋には機織り機。部屋はそれだけ。ここが父の育った在所である。
祖母は真言密教の先達として、この地方ではかなり有名どころであったと聞く。
弘法の日には、多くの参拝者が狭い祭壇に犇めいてお経をあげている。
小生は参拝者に振舞われる、ところ天と砂糖菓子が楽しみでよく出かけた。
小学生のころは、毎日祖母のところへおこずかいを無心に立ち寄って、近くに居る従姉妹たちをいじめて叱られていた。
父が母と結婚して、鳴海小学校を挟んだ矢切に住居を構え姉や兄、小生を育ててくれた。
本町の親戚は矢切の我が家を「天井」と呼んでいた。
小生は「天井のおぼっちゃま」と呼ばれていた。青鼻をたらし乱暴者のおぼっちゃま。
本町通りにある食堂「米常」のおばちゃんはとても優しく、ときどきラーメンをつけで食べさせてくれた。
酒屋の菊の世さんには、父がいつも立ち寄って酔っぱらうまでお世話になった。
本町の通りは当時は賑やかだった。
西洋レストラン「みどりや」さん。和菓子の平野屋さん。お寿司の大阪屋さん。荒川畳屋さん。八百屋の千代屋さん。うなぎの浅野屋さん。お茶の寺島さん。日用雑貨の金一さん。おもちゃの福島屋さん。あおまつ屋さん。同級生もたくさんいた。たくさんの方にお世話になりました。
父は柔道を指南して、鳴海駅前の宮本骨接ぎを手伝っていた。
よく自宅に、部活でねん挫したとか腰が腕が脚がと御近所の多くの方が治療に来られていた。
その方たちは治療費に困る貧困者が多く、接骨院に通うと治療費が嵩むので自宅に来られるのだ。 そんな時いつでも快く迎え入れ治療をし、イモを掏って酢で塗り薬を調合し、わずかな野菜などを治療費の代わりに受け取って帰ってもらう。
そんな父が誇らしく、小生も中学3年から高校入学当時まで、笠寺の河原道場に通ったことがある。当時中学生だった館長の息子は、いつの間にか愛知県警察の重鎮として活躍していた。小生は長続きしなくて空手に移行。
今では愚息が、父親が体験した道と同じように、接骨院を開業して歩んでいるのは偶然だろうか。
親父の命日にあたり、思い出したことを書いてみた。
小生の持病は現状の治療では完治は難しいという。 治療方針を半年後に検討するというが、、。