Kameの独り言

思いついたことをありのままに

年の瀬に火災遭遇

2014年12月30日 17時32分15秒 | 日記・エッセイ・コラム

  年末年始用品の購入のために、孫を連れて名鉄百貨店に出かける。

 駐車場に入る前に黒煙が登るのを見て、「火事だよね、どこらあたりだろう?」と言いながら、駐車場に入ると黒煙は何やら目前。 だが従業員もお客さんもあわてた様子はない。

 エンジンを切ろうとしたときに「火災です。お客様や従業員は地上階に避難してください。」とのアナウンス。

 夫婦二人なら暫く様子を見て対応するのだが、二人の孫が一緒である。すぐさま駐車場を出て柳橋市場の駐車場に入る。 屋上で発生した火災は約30分で鎮火したようだが鉢合わせには驚いた。

 柳橋市場で買い物を済ませ、再度百貨店に出かけるが店内は何事もなかったように平常営業。

 買い物を済ませ、長久手の友人宅へ寄り帰宅。 少し疲れた。


嬉しい年末

2014年12月28日 16時20分37秒 | 日記・エッセイ・コラム

  じぃちゃんとお風呂に入りたいという孫。上の孫娘はばぁちゃんと。

  刈谷ハイウェイのかきつばたの湯にでかけ、レーシングカー(子供ゴーカート)、乗馬(メリーゴーランド)、フライト遊覧(子供飛行機)で楽しむ。入場無料で1回100円の利用はお値打ち。何度も乗って楽しむ。

 

  二男夫婦が一年間のお礼にと、夕食に誘ってくれた。

おかんもおとんもビールが飲めるようにと、自宅まで送迎をしてくれる。年寄りには食べきれないほどの料理。美味しく頂きました。とてもうれしいひと時でした。

 

  友人がきれいなカレンダーがあるのでと届けてくれた。

一年間何かにつけてお世話になった友人。 来年もよろしくお付き合いください。

今年一年ありがとう。


苦渋の一年

2014年12月27日 14時19分29秒 | 日記・エッセイ・コラム

 2014年の一年は、肉体も精神も生活も苦渋に満ちたものであった。

 組織機構改革で始まり、名古屋神の倉道院の閉鎖に伴いお別れ演武会を開催。

 同時に多くの信頼できる仲間を失うこととなる。

 5月の全国道院長会議では久野先生の不在の中、組織機構改革実施後の検証報告もない空虚なもの。

 3月中旬から咳が出始め治まらない日が続く中、愛知県大会終了後治療を開始することになり、公式行事はすべて辞退する状態。

 したがってパソコン講座も7月を最後に閉鎖することとなる。

 抗がん剤や放射線治療と同様の副作用と戦うこととなるも、効果が見られず治療を中断。

 8月には自転車の飛び込み事故で精神的に大きな打撃を受ける。

 11月には家内も体調を崩し検査を受けるも病名がつかないまま。

 家内も小生もすべての治療を放棄し、あるがままの生活を送り自然治癒力を発現することに専念。

 12月には大切な母が逝去した。

  98歳の天寿を全うした大往生。 

 導師を勤めて親族のみでお見送りをする。

 世間では多くの災害や、多くの方々の逝去が報じられ、アベノミクス解散総選挙で自民党圧勝。

 明年が幸せな年でなくてもよい。災難のない平凡なひつじ年であれば。 

 

 


戒名

2014年12月19日 11時24分10秒 | 日記・エッセイ・コラム

記録的な大雪の日。母の二七日を迎えるにあたり、戒名を考慮しなければならない。

金剛禅式葬儀で見送った関係で、菩提寺から戒名を戴くことはない。

生前の積徳と信仰心により拝受する戒名。居士・大姉で40万~。院号はそれに100万プラス。

父の葬儀の折、「代々院号を戴いていますので父も院号を付けてください」とお願いしたところ拒否され、「200出していただければおつけしましょう」にプッツン。「結構です」ということで居士を拝受。 菩提寺との心のつながりはここで終結。表面上のお付き合いのみとなる。

菩提寺は曹洞宗の寺院だが、先代和尚は父のところへ毎日将棋を指しにきた親しい間柄。その先代が亡くなられてすぐの和尚とのやり取り。 

母は高野山の遍照尊院に、先祖の供養をお願いしていた。真言宗なのに?

さっそく遍照尊院に生前戒名を頂戴していなかったか尋ねるも、残念ながらなし。

そこで 燈峰榮蓮大姉 戒名拝受。金剛禅式葬儀を司った導師が授与。

家族や周囲の民に燈(灯り)を高い峰から隅々に照らし与え、蓮に乗って成仏をする榮。

父に院号が付いていないので、母も大姉のみ。

今後の葬儀の在り方や、寺院とのお付き合いなど社会的に変化の風潮が見られる。

小生の折には、葬儀不要、戒名不要、そのまま斎場へ送り出してくれればよい。

残る家族に世話をかけることは無用であると考える。


母の生い立ち

2014年12月08日 13時11分19秒 | 日記・エッセイ・コラム

 母の生まれたのは、鹿児島県の離島「喜界島」。大正5年9月21日に生まれたが、役場に届けたのは大正6年2月15日。半年近く役場に勤めていたおじさんが忘れていたようである。故に本当の誕生日と、戸籍上の誕生日と「一年に二回も誕生日があって嬉しい」と本人は喜んでいた。

 写真にあるように、当時の離島で自転車を所有しているとはかなりハイカラな家庭であったと推察する。

 小学生の低学年ころ、父親の転勤(逓信省)で韓国の蔚山に暫く住んでいた。小生の子供のころよく韓国語を使って見せてくれた。おかげで単語は少し覚えている。

 蔚山で父親が亡くなり、母親(岡山県総社市出身)と兵庫県神戸市で暫く住んでいたようだ。

 海がありすぐ後ろには六甲山があり、ハイカラな神戸の街がとても好きだと言っていた。

 その後母親の再婚とともに今の住居に定住。母親の再婚相手は福島県会津の白虎隊の流れをくむ外国航路の機関長。

      

 そして父と結婚し、長女、次女、長男、二男をもうけたが、次女は出産後、長男は9歳の折に事故で亡くす。祖母に抱かれているのは姉の長女。

 大正・昭和・平成と激動の時代を生き抜いて、困窮の生活をしながら子供たちにひもじい思いも不自由な生活をさせることなく、ひたすら働き続け、明るい母親で居てくれた。

 夫を亡くしてすぐに、「子供のころに育ったところ、父親が亡くなった韓国の蔚山に行ってみたい。」というので母と姉夫婦と小生夫婦で出かけた。

 母が住んでいたのは60年も前のこと、町の様子もすっかり変り郵便局の所在も分からず、蔚山の海岸でお線香をたいて冥福を祈り帰国した。

 それ以来暫く一人で生活していたが、お散歩が好きでよく歩いて出かけるが自分のいるところが分からなくなって、多くの方にお世話になったこと幾度。その後4年ほど小生宅に同居していたが、毎日帰宅願望で困らせてくれました。振り返るともっと優しくしてあげればよかったと思うことしきり。

 4年前に和合の施設にお世話になることができ、そこがとても肌に合ったのか皆さんが親切にして下さるからなのか、穏やかに毎日を過ごしていたように思います。毎週着替えなど届けに出かけるたびに「ありがとう、ありがとう。」と私たちにお礼を言う。

 こちらこそ長い人生をよくぞ生き抜いてくれてありがとう。


初雪の降る中 あ~ちゃん永眠

2014年12月07日 19時20分45秒 | 日記・エッセイ・コラム

昨日ICUに入院した母が早朝に息を引き取った。

大正6年生まれの97歳。大寿を全うした。

長い人生の間、楽しいことより辛いことのほうが多かった母。

誰よりも苦労をかけた小生が母の痛恨を知っている。苦労をおかけいたしました。

何もしてあげられないまま見送る自分の不甲斐なさ。

お別れの通夜式と告別式は、小生が導師となり金剛禅式で、親族のみの見送りとした。

病院から葬儀会場へ向かう途中、自宅の前で止まって車のドアを開けて自宅にお別れをしました。

葬儀場に着くと、送り人による旅じたくをしてもらい薄化粧を施して、ほほ笑むような優しい笑顔で今にも起きだしそう。

母の思い出をいっぱい胸に秘めた親族が、八事斎場から天に上る母を見送る。

そしてまた一緒に帰宅した。小さな骨箱に入って。

安らかに先に亡くなった父のもとに着けるといいね。

瞑目合掌


あ~ちゃん緊急

2014年12月06日 00時34分56秒 | 日記・エッセイ・コラム

今日は朝から藤田保健衛生大学病院に診察。

一か月ぶりの診察に「いかがですか?」   「先生あの薬効きません。」  「吸引の仕方が悪いんじゃぁ無いですか?。」

「教えていただいたとおりに使用していますが。」 「院外の薬局はご希望ではないようですがなぜ?」

「院内で戴けるものをわざわざ外でもらうことが面倒で。」 「院外の薬局でしたら説明も十分してくれるはずですがだめですか?」

「院内の薬局では十分な説明がされないのでしょうか。」 「・・・・では少し強い薬を出しておきます。」

だれが効かない薬を飲むものか!!と憮然として帰宅。

夕刻、道場に電話が入る。「お母さんの様子がおかしいので救急車をよびました。」と施設から。

道衣のまま施設に向かう。事情は電話で聞き了解している。がんばれあ~ちゃん!

施設に着くとドクターカーに乗せられ藤田保健衛生大学病院に出発するところ。

自家用車で追従する。緊急処置と入院の手続き。

ICUに入院することになった。担当の医師の説明はわかりやすく納得のゆく説明。

とりあえず道場を終えて家内や麦仁・未来・舞が駆けつける。

10分程度の面会時間。

点滴をしながら目ははっきりと開いていた。言葉をかけると目で追う。時折辛そうに眼を閉じまた開ける。

10時近くまで施設の看護師さんが立ち会って下さった。 心から感謝します。

医師と看護師の常駐するICUに居るので、ひとまずは帰宅する。

今日は朝から夜まで藤田学園にお世話になりました。

※道場で先輩の行き過ぎた指導が小生の留守の間にあったようだ。 楽しくしたいね。


今度はあなたの番ですか?

2014年12月01日 21時09分07秒 | 健康・病気

 自分の様態の方向性が決まり、もう薬はのまないぞ!と決心した。

 薬を飲み続けることによる副作用に悩まされる。何のための投薬か疑問に感じ飲むことをやめた。

 仲間が持参してくれた核酸ドリンクを3週間で2本飲んだ。

 まだ飲む量が少ないと、先日追加を持ってきてくれた。

 飲み始めて3週間で顔の肌がツルツルになった。 

毛髪ももとに戻り始めた気がする。 体調も無理をしなければ良くなったような気がする。

このまま容態が治まればと願う矢先、家内が調子を崩し診察に出かける。

さっそくレントゲンと超音波。今日はCT検査に出かけ、週末には内視鏡。

大したことがなければよいが、病人が病人を介護することになる。

なんとも年をとるということは、ゆったりとした時間を過ごすことが一番なのだが

身体の衰えはとても苦痛に感じる。

しかし、周囲では嬉しい出来事もたくさんあって、喜ばしい。

辛いことばかりに着目せずに、のんびりと過ごそう。