母の生まれたのは、鹿児島県の離島「喜界島」。大正5年9月21日に生まれたが、役場に届けたのは大正6年2月15日。半年近く役場に勤めていたおじさんが忘れていたようである。故に本当の誕生日と、戸籍上の誕生日と「一年に二回も誕生日があって嬉しい」と本人は喜んでいた。
写真にあるように、当時の離島で自転車を所有しているとはかなりハイカラな家庭であったと推察する。
小学生の低学年ころ、父親の転勤(逓信省)で韓国の蔚山に暫く住んでいた。小生の子供のころよく韓国語を使って見せてくれた。おかげで単語は少し覚えている。
蔚山で父親が亡くなり、母親(岡山県総社市出身)と兵庫県神戸市で暫く住んでいたようだ。
海がありすぐ後ろには六甲山があり、ハイカラな神戸の街がとても好きだと言っていた。
その後母親の再婚とともに今の住居に定住。母親の再婚相手は福島県会津の白虎隊の流れをくむ外国航路の機関長。
そして父と結婚し、長女、次女、長男、二男をもうけたが、次女は出産後、長男は9歳の折に事故で亡くす。祖母に抱かれているのは姉の長女。
大正・昭和・平成と激動の時代を生き抜いて、困窮の生活をしながら子供たちにひもじい思いも不自由な生活をさせることなく、ひたすら働き続け、明るい母親で居てくれた。
夫を亡くしてすぐに、「子供のころに育ったところ、父親が亡くなった韓国の蔚山に行ってみたい。」というので母と姉夫婦と小生夫婦で出かけた。
母が住んでいたのは60年も前のこと、町の様子もすっかり変り郵便局の所在も分からず、蔚山の海岸でお線香をたいて冥福を祈り帰国した。
それ以来暫く一人で生活していたが、お散歩が好きでよく歩いて出かけるが自分のいるところが分からなくなって、多くの方にお世話になったこと幾度。その後4年ほど小生宅に同居していたが、毎日帰宅願望で困らせてくれました。振り返るともっと優しくしてあげればよかったと思うことしきり。
4年前に和合の施設にお世話になることができ、そこがとても肌に合ったのか皆さんが親切にして下さるからなのか、穏やかに毎日を過ごしていたように思います。毎週着替えなど届けに出かけるたびに「ありがとう、ありがとう。」と私たちにお礼を言う。
こちらこそ長い人生をよくぞ生き抜いてくれてありがとう。