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日本軍「慰安婦」問題  政府犯罪に償いを

2012-01-09 | 海外通信/外交/平和運動

日本軍「慰安婦」問題

 戦時中、日本軍は、侵略した朝鮮半島、中国、東南アジアなどの地域に設置した「慰安所」で、連れてきた女性たちを奴隷状態に置き、兵士らとの性行為を強要しました。被害者の数は数万人から20万人と言われています。

 韓国の元「慰安婦」が初めて名乗りをあげてから20年がたちました。昨年末の日韓首脳会談で李明博(イ・ミョンバク)大統領は、「慰安婦」問題の解決を野田佳彦首相に要求しましたが、野田首相は、「問題は決着済み」として拒絶しました。問題解決には何が求められているのか、長年、「慰安婦」訴訟に関わってきた大森典子弁護士に聞きました。

日本は法的責任負う

 日韓首脳会談などを通じ、「慰安婦」問題が改めて世間の関心をよんでいます。しかし、マスコミ報道も含め、日本国民の間に歴史的事実がしっかり理解されていないと痛感しています。
 
政府による犯罪

 「戦時中、日本軍は強制的に女性たちを連行していない、その証拠はないから責任はない」と日本政府は問題をすりかえて主張します。しかし、軍中央が「慰安所」制度をつくり、女性たちを兵士にあてがったのですから、そこに女性らを連行した態様が官憲による強制か、民間人を使ったかで日本政府の責任が変わるものではありません。
 戦時では性暴力はつきものだ、という意見も一部ありますが、日本軍が組織的に慰安所を設けていたことと一兵士が女性に乱暴するという問題とは性質が違います。

 「慰安所」に女性たちを事実上監禁し、多いときは1日に何十回も兵士の相手を強要することは、女性を人として扱わない、女性の尊厳を根底から奪う行為です。著しく人権を侵害する凄惨な犯罪行為が政府によって行われたのです。国連の各委員会、国際労働機関(ILO)がこれまで、日本政府に対し、被害者の訴追、謝罪と補償などを求める勧告を幾度も出し、米国、オランダ、カナダの3ヵ国と欧州連合(EU)の議会が謝罪や補償を求める決議をあげました。戦時下における性暴力を二度と繰り返さないための努力を続ける国際社会が、日本政府の責任逃れは許さないという姿勢を示したものです。

協議応じる義務

 韓国の憲法裁判所は昨年8月30日、「慰安婦」の損害賠償請求をめぐる日韓両政府の解釈上の違い(紛争)について、韓国政府が請求権協定に定める手続きをとってこなかったのは違憲であるとの決定を下しました。日韓両政府は1965年に、日韓基本条約と請求権協定を締結しました。韓国側は、そこにいたる外交交渉の文書を2005年に公開し、協定で放棄した請求権には、日本政府が関与した反人道的不法行為である「慰安婦」問題は含まれないという立場を明確にしました。そして憲法裁判所の決定と首脳会談での大統領の解決要求となったわけです。

 これに対して野田首相は、65年の請求権協定で、韓国側はすべての個人の賠償請求権を放棄したとの解釈から、「決着済み」だと述べています。しかし、この協定の3条1項は、日韓両国に解釈上の違いがある場合、「外交的に解決する」ことを明記しています。
 韓国憲法裁の決定はこの3条に基づく手続きを取ることを要求し、韓国政府は9月と11月に日本政府に対し、文書で協議に応じるよう求めました。日本側はそれに応える条約上の責務を負っているのです。


政府の謝罪・補償が基本

 日本政府は1993年、「慰安婦」調査を行い、その結果を受けて河野洋平官房長官談話を発表しました。「慰安所」の設置、管理及び「慰安婦」の移送については日本軍が直接、間接的に関与していたと断定し、「慰安婦」の募集についても、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、「官憲等が直接これに関与したこともあった」と日本軍の関与を認めました。その後、首相を務めた安倍晋三氏はじめ、一部の政治家は、この談話を激しく攻撃し、それに逆行する姿勢を示しました。

「償いといえぬ」

 村山政権時の95年に、被害者に「償い金」を支払う「アジア女性基金」が設立され(07年に解散)ました。しかし、これをもって補償は終わったというわけではないのです。基金は政府として償うお金ではなく、法的にも道義的にも日本政府の責任を明確にしていません。民間の基金で、国民に寄付を募り、そのお金を「償い金」として被害者に渡していたものです。「償いとはいえない」「金を払えばいいのか」と多くの被害者は怒り、韓国の234人の元「慰安婦」のうち、当初これを公に受け取った被害者はわずか7人です。その後、最終的に韓国で何人が受け取ったかは公にされていません。

 戦後66年がたち、被害者は80歳以上になり、存命する元「慰安婦」は、韓国で登録された234人のうちでは63人になりました。中国やフィリピンなど、他の国でも同じように亡くなる方が相次いでいます。認知症になった方もいます。彼女らにとって残された時間はわずかで切迫しています。生きていることの意味があったと思える瞬間がないまま彼女たちが亡くなることは許しがたいことです。

 「慰安婦」たちによるソウルの日本大使館前での水曜デモも1000回を超えました。少女像(平和の碑)が設置されたことで、野田佳彦首相は昨年末の日韓首脳会談でその撤去を求めました。日本側がきちんとした問題の解決をしないから少女像を建てられたということを理解しないで外交の場で撤去要求するのは恥ずかしいことです。

法的責任は明確

 野田首相は、「法的に解決済み」「人道的な立場で努力」といいますが、ジュネーブ条約は、非人道的な行為に基づく賠償請求権の放棄は認めない、免責はないというのが基本的な立場です。日本に法的な責任があるのは明確です。まず日本政府は、韓国から求められている請求権協定3条(解釈の違いがある場合の外交的解決)に基づく2国間交渉に速やかに応じ、さらにこの問題の最終的な解決である被害者への謝罪と補償を行う姿勢に立つべきです。これが基本中の基本です。

(おわり)

「慰安婦」問題をめぐるこれまでの動き

91年 8月 韓国で被害者が初めて名乗りをあげ、その後日本政府を相手に提訴
      12月 日本政府が調査を開始
92年 9月 フィリピンの被害者も名乗り出て、その後提訴
93年 8月 河野洋平官房長官が「あわびと反省の気持ち」表明の談話発表
94年 1月 オランダ人被害者が提訴
95年 7月 アジア女性基金発足(07年3月に解散)
    8月 中国人被害者が提訴
96年 1月 クマラスワミ国連人権委員会「女性への暴力」特別報道官が「慰安婦」問題で日本政府は謝罪と補償を行うべきだとの報告書提出
    3月 国際労働機関(ILO)専門家委員会が「慰安婦」は強制労働条約違反だと日本政府に勧告(以降、数次にわたり勧告)
98年 4月 山口地裁下関支部が立法不作為で国に慰謝料支払い命じる
    8月 マクドゥーガル国連人権委員会特別報道官が「慰安婦」問題で法的責任と責任者の処罰を含む報告書提出
99年 8月 国連人権小委員会が武力紛争下の性暴力に関して、個人請求権と国家責任は条約や2国間協定で消滅しないと決議
01年 3月 参議院に「戦時性的強制被害者問題の解決促進に関する法律案」が日本共産党、民主党、社民党により共同提出
   12月 オランダ・ハーグで女性国際戦犯法廷最終判決。天皇を最高責任者とする日本軍の組織的犯罪と認定
07年 7月 米議会下院「慰安婦」決議採択
   11月 オランダ議会下院「慰安婦」決議採択。カナダ議会下院でも決議採択
   12月 欧州議会で「慰安婦」決議採択
11年 8月 韓国憲法裁、韓国政府が請求権協定の規定に基づく解決のための手続きをとらないのは違憲と決定
   12月 日本大使館前の水曜デモ1000回目。平和の碑建立。日韓首脳会談で李大統領が「慰安婦」問題解決を要求

 ~しんぶん赤旗1月分より~

西松 中国人強制連行 消息判明 100人超す

2012-01-09 | 海外通信/外交/平和運動
 西松 中国人強制連行 信濃川

進む調査・救済

消息判明 100人超す


 第2次世界大戦末期に中国河北省、山東省などから中国人183人を強制連行し、新潟県十日町市の信濃川発電所建設工事で働かせた西松建設は、2010年4月、被害者と和解しました。謝罪し、被害者全員の救済へ「西松信濃川平和基金」をつくりました。基金による被害者・遺族調査で、判明していなかった人の消息が明らかになっています。

 同平和基金管理運営委員会の委員である中国人強制連行・強制労働弁護団団長の高橋融(とおる)弁護士は、「10年1月から5月にかけて集中的に被害者の調査が進められました。まだ調査は続けられていますが、100人を超す人たちの状況が明らかになりました」といいます。

70人に補償金

 被害者・遺族への補償金交付は同年8月から始まりました。基金の管理の実務を引き受けている中国人権発展基金会副秘書長の劉庶k(わい)さんが、遼寧省瀋陽市に住む被害者の許同友さん(85)を訪ねて、約65万円を手渡したのが第1号で、70人以上の被害者・遺族に交付されています。
 高橋弁護士は、「補償金を受け取った遺族は、父親から大変な目にあったと聞いていたけれども、こういうふうに持ってきてくれたと喜んでいたという報告を受けました」といいます。

 調査は、西松建設が戦後、外務省に提出した「事業場報告書」の名簿と被害者の情報をもとに進められました。
 名簿は、60数年前のもので字がぼやけているところもあり、名簿作成時の聞き違い、家族に累が及ぶのを恐れて名前を変えている者もあります。中国の行政区画は当時と大きく変わっており、該当すると思われる各県の民政局に問い合わせましたが、ほとんど成果はありませんでした。

語れぬ歴史
 調査員らは、被害者がいると思われる村まで行って、手がかりを探しました。
 「基金会の若い2人は、陝西(せんせい)省に赴いて11の村を訪ねたが1人も見つからなかった。名簿の判読できなかった地名をもう一度見直し、その村に行ってやっと見つけた。ところが、被害者の長男は、父親は日本に行ったことはないと否定した。日本へ強制連行されたというのは、中国では『はっきり語れぬ歴史』とされるので、トラブルを避けるため自分の息子にさえ、この歴史を隠すことは十分にありえる」と報告書は述べています。
 調査ではおよそ160の村を訪ね歩き、102人を探し当てたといいます。

真実知る 貴重な話

 信濃川平和基金管理運営委員の高橋融(とおる)弁護士は、「今回の被害者調査で、強制連行・強制労働の実態が新たに分かったということはあまりないようです。残念ながら、健在である被害者は数名しかおられず、直接、体験をお聞きすることができなくなっています」といいます。
 
激しく泣いて

 しかし、被害者の家族が調査員に話した日本軍に捕まったときの様子や、父親から聞いた日本での体験などは、強制連行の真実を知るうえで貴重です。
 被害者・李占祥さんの妻は調査員に会うと、激しく泣きだしました。日本軍は民兵隊長である夫を捕まえるために、先に自分を捕まえて拷問したため、夫は日本軍の前に出て行って捕まったということでした。

 20歳のときに日本に連行された平満倉さんは、衣食も満足にもらえない過酷な環境で重労働をさせられました。同い年の劉徳修さんが寒さと飢え、疲れで両目を失明したため、毎日の労働には、平さんが彼を背負って工事現場まで連れて行きました。こうして劉さんは辛うじて、一日一日を生き延びました。

 名簿に記載されている「李林栄」については、名簿に記載された村では知っている人はいませんでした。ただ村史には彼の名前があり、祖国に帰還した後、1947年の戦闘で犠牲になったことが記録されていました。
 調査報告書はいいます。「中国北方の大部分の農村地域ではかつて戸籍制度が存在せず、多くの地方で村史や宗族史もないため、6,70年も前に故郷を離れて二度と戻ってこなかった人については、探すことが大変困難です。人々の記憶から消えたのだから」

 被害者・遺族の多くは、農村に住んでいます。中国の農村の多くはまだ交通の便がなく、調査員らは、村から村に移動するとき、安全とはいえないオート三輪に乗せてもらったこともあるといいます。
 「調査にあたったのは中国人権発展基金会の事務方が委託した50代、60代の4人の女性です。大変困難な調査だったと聞いています。その困難を突破し、調査を進めてくれたことを私たちも喜んでいます」と高橋弁護士。

被害者多くに

 調査では、被害者らがわずか数ヵ月や1年余り、日本で奴隷労働させられたことで、多くの人が命を失わずとも体はボロボロになり、労働力をなくしたことが明らかになりました。また、帰国して間もなく死亡した人も数人いました。
 「今後も新しい手がかりを探し出し、できるだけ多くの被害者を探し当てて、西松建設による謝罪と補償を本人あるいは遺族の手に渡せるようにしていく。これをもって人類社会の正義と人権が明らかに示されるように」と報告書は結んでいます。

裁判・15回の交渉で

 新潟県十日町市の信濃川工事事務所に連行された中国人は、1944年6月と8月に中国・天津市の塘枯(とうこ)港で貨物船に乗せられ日本に来ました。信濃川では、つるはしとスコップでトンネルや川を掘り、手押し車やトロッコで土を運び、堤防を築くことや水力発電の基礎工事を行いました。
 45年1月に長野県王滝村の間(はざま)組御岳作業所に異動になり、トンネル工事に従事。さらに同年6月には同県信濃町柏原の間組戸寿(とす)作業所で、鉄鉱採掘をさせられました。同年12月に祖国に帰還しました。

何回も骨拾い

 信濃川の被害者のたたかいは、97年9月、企業10社と国を相手に提訴した東京第2次訴訟に参加したことからはじまりました。
 原告らは裁判で次のように陳述し、謝罪と補償を訴えました。
 「作業中、壁とトロッコの間に人差し指が挟まれ、指を切断する事故に遭いました。治療を求めても『医者も薬もない』と言われて、なんの治療も受けることはできませんでした」(郭真さん)
 「食事は、黒パンやぬか入りの米のご飯だった。ひもじくて耐えられない時はニレの葉やクワの葉を盗んで食べた」(李恕さん)

 「日本人の人夫頭は私に死体を焼くのを手伝わせた。何十回も骨を拾いました。拾った骨は私たちの寝起きしている宿舎の片隅に置きました」(韓英林さん)
 東京高裁は2006年6月、「強制連行はなかった」とする企業の主張を退け、「平穏な暮らしをしていた原告らが突然、強制的に異国に連行され、極めて劣悪な環境の下で過酷な労働に従事させられたというものであって、これらの行為は強く非難されるべき非人道的な行為というべきものである」と断じました。また、被害者ごとに強制連行と強制労働の事実を認定し、国と企業の不法行為、企業の安全配慮義務違反を認めましたが、時効と請求期間が過ぎているという除斥で請求を棄却しました。

来日80人要請

 同年10月、中国の被害者たち約80人が来日し、政府、各政党、企業にたいし解決を要請しました。信濃川の被害者も西松建設に赴いて、要請しました。
 信濃川の被害者が参加した東京第2次訴訟に関わった森田太三弁護士は、「最高裁は07年4月、西松安野案件で請求を棄却し、続いて6月に西松信濃川案件も請求を棄却しました。この最高裁判決後の7月、弁護団は西松建設に解決の要請を行いました。こうした経過を踏まえて、09年5月に和解交渉が始まり、15回の交渉をへて和解が実現しました」と振り返ります。今後、全面解決に向け、三菱マテリアルをはじめ、関係企業との交渉や国への働きかけを進めることが重要になっていると語りました。

(おわり)

赤旗日刊紙2011年12月24~26日号。