雲南省の大理市、楚雄市等では、稲刈りをしたら、その場で脱穀して、その後に広場や庭、道路端等で乾燥させる場合が多いようで、「はぜかけ」をする光景は今の所見た事はありません。私も雲南省全域を廻った訳でもありませんので、当然雲南省では他の地域には、「はぜかけ」して天日乾燥させる地域もあるとは思います。雲南省は中国の中でも米の生産量は結構多く第十位との事で、年間約670万トンだそうですから、地域により「はぜかけ」している場所は当然の如く有ると思われます。が私は残念ながら今迄雲南省では見かけていません。
貴州省の住む苗族、トン族等の間では、「穂刈り」して、刈り入れた稲を「はぜかけ」して天日乾燥させる地域も多いようです。無論貴州省でも、雲南省等同様に稲刈りした後、その場で脱穀する地域もありますが、一部の地域では、今も「はぜかけ」が行われています。
このトン族の村では、「穂刈り」した稲は、全て「はぜかけ」して天日乾燥させます。
「はぜ」は、かなり高いので「はぜ架け」作業はロープ等を使い二人がかりでの作業となります。
この榕江県のトン族の村は、ご覧のように「穂刈り」した稲を、全て天日乾燥させてます。
「はぜ」には屋根も付いていて雨が降っても稲が濡れないようになっています。
この村の「はぜかけ」の光景は、貴州省では有名でこの風景を見学する為、わざわざここを訪れる人も多いとの事。中国語では、これを「禾晾」と云いますが、中国人でもこの「禾晾」と云う単語を知らない人も多いようです。
日本もその昔は「穂刈り」だったそうですが、今でも貴州省では「穂刈り」が、残る理由の一つとして、棚田が多い事とも関係があるような気がします。また、これだけ「はぜ」が高いと「穂刈り」の方が効率的だし、「穂刈り」の稲は、「根刈り」に比べ、「はぜ」に、かかる重量も少ない等の点も上げられるような気がします
私の村でも60年代末までは、「はぜかけ」して稲を天日乾燥させる光景は、よく見られましたが70代には完全に姿を消し機械乾燥となったように思います。
この村の住民は殆どがトン族の村ですので、トン族の村のシンボルと云われる鼓楼が当然あります。新中国となって、中国は爆発的に人口が増えましたが、このトン族の村占里は約50年間の間、人口が殆ど変わらない村、殆ど人口の増減」がない村として中国では有名です。
これは貴州省の別の苗族の村の「はぜかけ」の光景ですが、「はぜ」にもイロイロな形があります。
日本もその昔は「穂刈り」だったそうですが、今でも貴州省等では「穂刈り」 が、残る理由の一つとして、棚田が多い事と関係があるような気がします。貴州省の農山間部へ行くと基本は棚田で、棚田で無い所は少ないです。家から田圃がある場所までは、基本的に歩きというケースが圧倒的に多く、田圃がある所まで歩いて優に1時間を越えるという村も大変多い。このように家から田圃迄遠い場合は「穂刈り」と云う方法の方が、「根刈り」と比べ運搬などにも過重な負担がかからなく、効率的と思われます。乾燥していない稲束と云うのは思いの外に重いものです。
また、上の写真の様に、「はぜ」が高いと「はぜ」に架ける場合には、「穂刈り」の方が効率的だし、「穂刈り」の稲は、「根刈り」と比べると 「はぜ」にかかる重量も少ない等の点も上げられるような気がします。所謂「根刈り」した場合と比べ、一つの「はぜ」に架けられる稲の量がかなり違うと思われます。私の村では「根刈り」した稲束を「はぜ」かけしていましたが、はぜの高さは精々8段位だったような気がします。「穂刈り」した稲束であれば、これだけの高い「はぜ」は可能だが、根刈りしてはぜ掛けする場合、このように12段の高さの「はぜ」は物理的にも無理のような気がします。
また、「はぜ」架けして天日乾燥した稲は、そのままの状態で倉庫に保管して、お米を食べる時に、初めて脱穀、精米して食べる場合も多い様です。足踏みの「搗臼」等を使い脱穀する場合は、根刈りした物より、穂刈りの方が適していると思われます。
そのような理由もあり、今でも貴州省等では、「根刈り」では無く、今でも「穂刈り」が続いているように思います。