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ちゅう年マンデーフライデー

ライク・ア・ローリングストーンなブログマガジン「マンフラ」

秋風一夜百千年

2007年11月05日 | 
 昨晩は睡眠が浅く、早めに床に入ると3時くらいに目が覚めてしまった。寝つきが悪いときは最近薬局でよくみかける睡眠導入剤などをときどき服用することもある。元土建屋編集者H氏もそんな悩みがあるらしい。見かけによらないが、やはり歳のせいなのか。

 睡眠導入剤代わりに漫画でも、と以前読んだ『一休伝』を読み出したら止まらなくなった。小島剛夕が佐々木守脚色で水上勉「一休」を原案として漫画化したもので、全3巻。一休宗純の生涯を概観するには、よくできた漫画だ。

 そんなわけでようやくうとうとしたのは明けの烏がカーと鳴く頃だった。一休さんは、なんでも明烏の一声で悟りを開いたのだそうだが、その一方で、「秋風一夜百千年」などという詩も残していて、好きな女性と一夜を過ごすことは百年、千年の歳月にも値するものだなどと、禅僧らしからぬことを言っている。78歳のとき盲目の女旅芸人「森(しん)」と出会い、そこに菩薩を見たのか、この森女と88歳で亡くなるまで酬恩庵に同棲した。一休さんの漢詩集『狂雲集』には、その森女との情交の喜びが、滔々と綴られていたりするのだが、「美人の淫水を吸う」とか「美人の陰に 水仙花の香あり」とか、80歳近い老人、しかも禅僧がこんなにもエロスに忠実であったこと、ただただ恐れ入る。マンフラなど修行が足らぬ。もっともっとエロスの道を追究しなければとつくづく思った次第。

 さて、一休という道号は、『洞山三頓の棒』という公案に対し、「有漏路より 無漏路へ帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」と答えたことから、師の華叟より授かったという。一休の2文字は、無為自然に生きよと言っているが如しで、最近のベストセラーのタイトルではないが「求めない」生き方、もしくはオッパッピーの「ソンナノカンケーネー」もここに通じるのか。いずれにしろ色欲も含め煩悩多き俗人は迷ったら、一休さんのように、まず一休みすることが大切との思いをめぐらしつつ、美人のふくよかな胸、夢見つつ浅い眠りを貪ったのであった。

 それにしても一休さんの墓は宮内庁の管理とのこと。やはり、一休さんは後小松天皇のご落胤なのだろう、いやそうでなければ話が面白くない。
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漫☆画太郎を読んで貸本マンガを思うこと

2007年09月10日 | 
 山田芳裕『へうげもの』第5巻(5服)、漫☆画太郎『世にも奇妙な漫☆画太郎1』、さいとう・たかを画『鬼平犯科帳』1、2巻を買って、シルヴァーナ・マンガーな休日。ついでに、唐突ながらペンネームを思いつき、雅島春日和(がとう・はるびより)とした。かのアルゼンチンの咆哮テナーマン、ガトー・バルビエリにちなんだ。

 マンガついでに、図書館で貸本マンガ史研究会編・著『貸本マンガRETURNS』(ポプラ社)を借りたので、自分の貸本屋体験を思い出しながら、ついでのついでに、大分前に買った文春文庫『幻の貸本マンガ大全集』を引っ張り出してきて読んだ。収録されているのは白土三平、さいとう・たかを、永島慎二、佐藤まさあき、楳図かずお、佐藤まさあき、滝田ゆう、平田弘史、小島剛夕など後の大看板から、無名作家の作品まで多彩。いずれも1960年前後の短編だが、改めて読んでみて驚いたのは、こま割や画面展開は、後の劇画に比べれば単調だが、プロットがしっかりしていることだった。現在のように作画と原作が分業化されていない時代、小説の模倣もあっただろうが、プロットに知恵を絞っていること、それをいかにマンガ(劇画)として表現するか、さまざまに挑戦していて、それぞれの作家の意気込みが感じられるのだ。ことに墨ベタの使い方など、画面構成にも映画の影響などが現れており、全体的にこの時代のマンガのレベルの高さがあって、いまのマンガがあると思うのだった。

 さて、貸本マンガ史研究会は、『季刊・貸本マンガ史研究』という研究誌も出していて、最新号には「追悼:佐藤まさあき」『追悼:永島慎二』などのタイトルが表紙を飾っていた。永島慎二が亡くなったのは新聞でも知ったし、映画化などがあって一時再評価もされたけれど、佐藤まさあきをしっかり追悼している雑誌などこの雑誌くらいではないか。そういう意味でとても貴重な活動ではないかと思うのだ。

 佐藤まさあきは、当時(昭和30年代後半)貸本マンガ界ではすでに大御所だったはず。『影』とか『街』などだったと思うが、そうしたか資本マンガ雑誌の看板を張っていたのではなかったか。体のバランスが悪く、決して絵がうまいとはいえない画風なので、僕は好きではなかったのだが、その強烈な暗い作風は一度見ると忘れられなかった。新東宝映画の天知茂的な暗さなのだ。

 僕の漫画体験として貸本屋の存在は大きなウエイトを占めている。『少年画報』『少年』『冒険王』などの月刊誌から『少年マガジン』『少年サンデー』『少年キング』などの漫画週刊誌へ移行する時代、ちょうど小学生のときだが、少年誌だけでは読めない多様な漫画を体験できたのは貸本屋のおかげだった。貸本マンガはかなり悪書としてバッシングされたようだが、マンガに寛大だった両親のおかげで、さすがにエロマンガは小学生に貸してくれなかったが、ずいぶんいろいろな作品を読んだ。

 僕が好きだったのは、さいとう・たかを「台風五郎シリーズ」、滝田ゆう「カックンおやじ」だ。台風五郎は、よくノートに模写したが、2シーターのスポーツカーを乗り回す日活アクション風の明るいキャラクターと絵のうまさに魅かれた。「カックン」は、笑いに由利徹的なちょっとお下劣なところがあって大好きだった。そのほか強烈だったのは平田弘史の残酷武士道マンガか。戦記マンガもたくさんあって、特攻隊マンガの残酷シーン(敵の攻撃でゼロ戦が炎上し、主人公の顔が燃えながら、肉が落ち、骸骨になりながら敵艦に突っ込む。その変化が現在のホラー映画のCG画像のように克明に変わっていくシーンがあった)が夢に出てきたことがあって、戦争には行きたくないという意志が芽生えたきっかけになった。

 僕がよく通っていたのは『だるま書房』という間口一間半、四畳半ほどの小さな本やで、人一人が通れるくらいの通路というか隙間以外は、壁面と真ん中の書架と平台にびっしり本が並んでいた。小学2年、自転車が乗れるようになったばかりだったので、家から自転車で5、6分の『だるま書房』へ毎日のように通った。たぶん3冊くらいしか借りられなかったはずだ。さらに理髪店にいくと、必ず旬を過ぎた『影』など、貸本屋でお払い箱になった貸本マンガが再利用されて散髪を待つ男性客に読まれていたものだ。人間の暗い面ばかり描いた貸本マンガのどこにそんなに魅了されたのか分からないが、素顔を見せられない月光仮面、親がいない赤胴鈴之助、人間になれない鉄腕アトム、あの頃のヒーローはみんな悲しさを背負っていたのだった。
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J.P.マンシェット『殺戮の天使』のエメに惚れる

2007年08月06日 | 
 図書館できれいな本を借りるには、当たり前だがほとんど借りられないで書架に眠っている本を探すことだ。手垢で汚れているのは致し方ないにしても、本をひろげていると、ときどきクッキーのくずかすだとか、なんだか分からない黄色いシミに出くわすと、本を投げ出したくなることがある。だが、面白い本はいつでも書架で静かに選ばれることを待っているものだ。とりわけフランスの現代小説などは、ほとんど手垢のつかない状態でその内容の凶暴さを隠してたたずんでいる。

 ジャン・エシュノーズの近くにあったジャン・パトリック・マンシェット『殺戮の天使』(野崎歓:訳・学習研究社)もそんな1冊だ。こんなところに凶暴な天使がいたとは。

 休日の朝の“明烏読書”で一気読み。明けの烏がカーと鳴いて東の空がしらみ始める頃、一度トイレに立ち、寝床に戻って始める読書を“明烏読書”。開いたのがこの本というわけ。

『殺戮~』はいわゆるセリ・ノワールといわれる暗黒小説で、原題は「fatale」(ファタル)。エメという美人殺し屋が主人公。映画の脚本のような乾いた文体、場面や舞台装置は描写されるが、心理は語られない。冒頭いきなりロングコートで猟銃をぶっ放して仕事を終えるエメ(お前はアントニオ・ダス・モルテスか)。その大胆で簡潔な仕事振りが披露され、読者はいとも簡単にハードボイルドにしてノワールの世界に踏み込んでしまう。そして舞台は、列車で次の仕事場の港町プレヴィルへ。

 エメは、トラブルのにおいを嗅ぎつけると、そこで細工をして対立をけしかけ、紛争に乗じて殺しを請け負い、金をまきあげてトンズラするという一匹狼の殺し屋。生きている価値のないバカは夫といえども殺してしまう。これまで殺したのは7人。列車の個室コンパートメントで、汗と涙を、飯をがつがつ食ってついた口元のシュークルートのソースを、まきあげた札でぬぐい、逗留するホテルで筋トレをし、風呂で汗を流してマスターベーションもする。個室に一人いるときのエメの殺し屋としての孤独感の出し方がなかなか秀逸だ。そして、エメのこのかっこよさに惚れてしまうのだが、街での移動はなぜか自転車。トレーニングの一環なのか、ひたすら自転車で街を走り回る。美人の殺し屋が自転車で息を弾ませながら坂を登る、こういう禁欲的なところに可愛らしさがある。

 缶詰工場の事件をきっかけに利権を貪る街の有力者、警察、マスコミから金を巻き上げて、彼らの目の上のたんこぶである男爵を殺してあげるのだが、本当に街を浄化するならこの有力者たちをやらねばと義侠の人になって、港でみんなまとめて殺してしまおうという展開。まさに殺戮の天使と化すのだが、最後は反撃にあって、自らも傷つくラストシーン。なぜか急に一人称になって、作者が「私は見た」と登場する荒唐無稽さは、まるでジム・トンプスンではないか。私は何を見たのか。朝日と血に染まった赤いイブニングドレスに身を包んで荒野を歩くエメを。

 というわけで、「ニキータ」とか、「キル・ビル」のユマ・サーマン演じるブライドなどの女殺し屋のモデルはエメじゃないかと思えるほどなのだが、金持ちを手玉に取る美貌とか機能性だけではないファッションセンスが必要なところがちょっとちがう。30代のハードボイルドないい女ができる女優って誰かなー。と思いをめぐらす月曜日なのであった。
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ゆもじにおめもじ、しゃもじのあもじ

2007年08月01日 | 
「めもじ」とか「ゆもじ」など、ちょっと意味不明な文字詞というのがある。比較的まだ聞かれるのは、お目にかかるを意味する「おめもじ」。これは女性言葉。で、「もじ」というのは、どーも、ものごとをはっきりいわず「アレ」などと恥じらいをもっていうときに使う隠語のようなものらしい。「かもじ」は、髷につけ足す付け髪、いまでいうウィッグとかエクステンションみたいなもの。「髪に付ける、ほらアレよ。かみもじ、かもじ!」というわけで「かもじ」。スプーンのことを「しゃもじ」というが、これは杓子から来ている。

 なぜ、文字詞が気になったかというと、坂東眞砂子の『岐かれ路』『月待ちの恋』(新潮文庫)という26編の短編集に、「女は湯文字一枚」で、とか「湯文字がめくれて」など、「湯文字」という言葉が頻繁に出てきたからだった。無知を曝け出すようだが、僕はこの「湯文字」が何のことか知らなかった。まあ、腰巻のようなものだろうとは思ったのだが、着物の下に付ける単衣の下着、男なら褌、いわば今日のパンティにあたる女性の下着のことなのだった。いまでも着物を着られる女性には、パンティではなく湯文字を身に付ける方も少なくないらしい。いわゆる柳腰にみえるのだという。昔の女性は湯屋に入るときも着けたりしたらしく、それで「ゆもじ=湯文字」というわけなのだった。

 なぜ、この短編集に湯文字が頻繁に出てくるかといえば、春話26夜と銘打ったこの短編集は、江戸時代の春画に触発されて書かれた官能小説集だから。春画26枚の一つひとつのシーンを題材として、春画に描かれた江戸の大らかで、奔放な性が、想像力を膨らませ、26編の男女の睦ごとの話として匂いたつような筆致で展開される。もちろん無修正の春画がそれぞれの物語の巻頭を飾る。そんなわけで、着物など身につけていないシーンが多いので、必然的に「湯文字」が多くなるというわけ。

 それにしても最初、僕は「湯文字」のことを女性のあそこのことを表す隠語ではないかと思った。なぜかというと「ゆ」という文字が、昔男の子がよく書いた二重丸に縦線の記号に似ているからだった。それにしても歌麿の一重の目のつるりとした顔の姉さん、北斎の構図のすばらしさと顔と見まごう巨大な一物表現など、この時代の日本の絵画の到達点はやはりすばらしい。

 イタリアの監督ミケランジェロ・アントニオーニが亡くなった。94歳。この監督もまた撮れない時代が多かった。合掌。

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キンチョーの夏、円朝の夏。

2007年07月26日 | 
 三遊亭円朝作「怪談 牡丹燈籠」(岩波文庫)は、カランコロン、カランコロンと下駄の音を響かせ、牡丹柄の燈篭をさげて恋の病で死んだお露の幽霊が恋しい新三郎の家を夜毎訪ねるという怪談噺だと思っていた。子供のころ夏になると必ず田舎の映画館で特集したお化け映画特集では、天知茂主演の「東海道四谷怪談」(中川信夫監督/これは怖い!)とたぶん東映版「牡丹燈籠」は定番で、テレビでも何度か見たつもりだが、覚えていたのは、まさにカランコロンの場面だけ。もちろん、そこが怪談たる所以なのだが、岩波文庫版を読んでみたら、実は、この怪談噺は、二人の男の偶然の出会いによって展開する二つの物語の一方の流れに過ぎず、終末には再び、二つの物語が合流して結末を迎えるという、まさに「瀬をはやみ」状態の物語なのだった。

 怪談部分のお露・新三郎の悲恋、飯島平左衛門と孝助の忠義の物語を二つの軸に、不義不貞をはたらく平左衛門の妾お国と源次郎、新三郎の恩義も忘れ、その家から護符をはがしてやる見返りに、幽霊お露から五十両をせしめ、宇都宮で雑貨商として財を成す伴蔵とお峰、幇間医師の志丈など、欲に目がくらんだ悪役たちの充実振りが、この噺の面白さだ。

 新三郎が夜毎通うお露の幽霊を抱いていることを伴蔵が覗き見するシーンもすごいが、圧巻は、主人への忠義から、平左衛門殺しを企てるお国・源次郎の不倫コンビを孝助が始末しようという場面。孝助が、いざ闇夜に待ち伏せして槍で一突きしてみれば、それはなんと主人の平左衛門。しかし、それは平左衛門が孝助に父の仇(孝助の父黒川考三は若き日の平左衛門に切り殺されている)である自分を討たせるために仕組んだことだった。平左衛門はその事実を孝助に伝えるとともに傷を負ったまま、お国・源次郎の密会現場になだれ込み、相手に傷を負わせるも自ら切られ果て、逆にお国・源次郎を孝助の主人の仇とさせてしまう。このたたみかける噺の展開がすばらしい。

 1年後には見事あだ討ちを果たすという忠義の物語で終わるのは、いささか忠義賛歌の感ありだが、これだけの人間模様を一つにまとめる円朝の作家としての手腕はすごい。口演の速記録だけに、読み物としての面白さとライヴの迫力が一体となって、一気に読めてしまう。

 さて、円朝の「怪談牡丹燈籠」は、三遊亭円生、桂歌丸の口演がそれぞれCD化されている。まず円生を買ってみようか。読んでみると、やはり声で聞きたくなるではないか。あるいは、国立新美術館の「日展100年展」に展示されている重要文化財、鏑木清方の「三遊亭円朝像」に会いに行こうか。
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クッツェーの『恥辱』という自由

2007年07月19日 | 
 52歳の主人公は、大学改革で准教授に格下げされ、大学の教え子に手を出してセクハラで訴えられて職を終われ、田舎暮らしをする娘の所へ招かざる客として居候を決め込むうち、黒人のチンピラに暴行を受け、車は盗まれ、娘はレイプされて、挙句の果てにその子供を宿してしまうのだが、それでも娘はその現実を受け入れて田舎を離れようとはしないので、男も同じ村の動物の避妊やらやらをする施設を手伝いながら暮らしていくという、アパルトヘイト以降の南アフリカの政治状況や社会状況についてはよく分からないが、その状態を「恥辱」というなら、大学教授の落ちぶれた人生ということができるのだが、もともとこの男は、2回の離婚、52歳になっても週一で娼婦を買い、お気に入りの娼婦が辞めてしまうと自宅をつきとめて電話をしてしまうというストーカーぶり、動物施設の嫌悪すら感じていた女とも平気で寝てしまうし、自制のまったくない男なのだから、果たして、この落ちぶれた状態を「恥辱」というべきなのかどうか。セクハラで訴えられて、ことを穏便に済ませたい大学側や同僚の情状酌量の声を突っぱねるところには気骨のようなものもあるのだが、何もそんなところで発揮しなくもよさそうなものだ。

 そんなわけで、生きようとする意志よりも、なんとなく生かされていて、環境が変わっても変わらないこの男の節操のなさには、むしろ、自由を感じてしまうのだった。初めて読んだノーベル文学賞受賞作家J.M.クッツェーの『恥辱』は、自由であることは恥辱を生きることでもあるというお話なのかもしれない。そして、この元大学教授とそう遠くないところに僕自身もいるように思えるのだった。

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声に出して読む、辻原登『円朝芝居噺 夫婦幽霊』

2007年07月11日 | 
 毎年8月11日に谷中の全生庵で開かれる「円朝まつり」で、円朝の幽霊画コレクションが公開される。その中の1幅に円山応岱作「夫婦幽霊」がある。実物はまだお目にかかっていないが、スプラッターでリアルな迫力という点では、コレクションの中でも出色ではないか。おそらくこの絵に導かれて作者は、幻の円朝口演の速記録「夫婦幽霊」の物語を構想したのだろう。

 辻原登『円朝芝居噺 夫婦幽霊』は、ある大学教授の遺品の中から発見された速記録と思しきざら紙の一束、調べれば、それはかの三遊亭円朝が晩年に口演した「夫婦幽霊」の速記で、これを翻訳して、作者が書き改めたものが小説内物語として発表されるという趣向。噺は、御金蔵4千両を盗んだ犯人とこれを突き止めようという大工の棟梁、御町の与力、そして円朝本人に歌舞伎役者の中村仲蔵などの登場人物に安政の大地震がからんで展開される活劇で、作者は円朝の口演スタイルを巧みに再現しながら、後半では、明らかに近代小説の手法が顔を出し、読むものに、この速記が本当に円朝の口演の速記なのかと思わせる、微妙なしかけもあり、まさに辻原ワールド全開。その謎は、この芝居噺が終わったあとの、では作者は誰なのかという部分で意外な人物が登場してオチがつくのだった。

 さて、三遊亭円朝といえば『怪談牡丹燈籠』が有名だが、その口演の速記が翻訳され、ほぼリアルタイムで寄席のライヴが新聞小説のようなスタイルで再現されたという。そうした口演録は、近代小説の言文一致に大きな影響を与えた。現代でいえば池波正太郎の作品群などは円朝的ではないかと思うが、落語でも「文七元結」は円朝原作の人情噺として知られている。

 で、そういえば『志ん朝の落語2』(ちくま文庫)に「文七元結」(「もとゆい」ではなく江戸なまりで「もっとい」とよむそうで)があったと思い出し、そう、これもまさに志ん朝の口演速記録。これを読みながら、朝の出勤電車に乗ったはいいが、マンフラこれがいけません。不覚にも涙腺が緩み、思わず電車の天井を仰いでしまったのだった。

 それは、吉原の佐野槌の女将が左官の棟梁の長兵衛に50両を貸し、自分の娘に礼を言えと諭す件で、最初は意地を張っていた長兵衛が、耐え切れなくなって涙ながらに娘に自分の醜態悪態を詫び、礼を言う場面なのだった。意地を張りながらも娘にすまねえと思う相反する感情の堰が一気にはずれる、そのタイミングと間が絶妙なのだ。文字を読むというだけでなく、明らかに志ん朝さんの声が頭の中で鳴っているからこそなのだ。

『夫婦幽霊』の作者辻原登は、この小説を書くに当たって、円朝節とでもいう文体を円朝の数々の名作を声に出して読むことでつかんだのだという。声に出して読む、書き写すといった小学生の頃は退屈だと思っていた行為には、確かに創造の精霊のようなものが宿っているのかもしれない。
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覗く裏窓、ラピスラズリの砂男は御慶と叫ヴェルッチ

2007年07月06日 | 
 覗くという行為はどこか心を躍らせる。公園の出歯亀となれば立派な犯罪だが、お向かいの家の2階の部屋が窓越しに見えれば気になるし、ちょっと観察したくもなる。

 ヒチコックの「裏窓」は、足を骨折したカメラマンが望遠レンズつきカメラでアパートの向かいの部屋を覗いているうち、殺人事件を目撃し、事件に巻き込まれてしまう。覗きの結果は事件が待ち受けているらしい。

 辻原登の短編集『枯葉の中の青い炎』(新潮文庫)のなかの「ちょっと歪んだ私のブローチ」は、浮気した夫が、妻の承諾を得て、浮気相手の若い女の希望で結婚前1カ月だけ一緒に暮らすという話。それを許すほど鷹揚に見えた妻は、夫と女が暮らすマンションを突き止め、その真向かいの古いマンションの上階に部屋を借り、女の部屋と同じ色のカーテンをつけ、その隙間から毎日双眼鏡で女の部屋を覗き見る。さて、その結果は。幸せを運ぶといわれるパワーストーン、ラピスラズリが効果的に使われ、意外な結末を迎える。この短編集は傑作ぞろい。か細い縁で結ばれている2つの物語や出来事を、辻原マジックともいうべき大胆さで巧みに一つの物語にしてしまう。魔法の小瓶のような書物なのだ。

 覗きといえば、久々に読んだE.T.A.ホフマンの「砂男」(池内紀訳・岩波文庫『ホフマン短編集』)もお向かいの美女に望遠鏡を通じて恋してしまう男の悲劇だ。夜更かしをする子供の目に砂をかけ、鳥のような嘴で目を突いて目玉をとりだしてしまうという砂男の悪夢に憑かれているナタナエル。怪しい化学実験の果てに父親を死に追いやったコッペリウスこそ砂男で、晴雨計売りのコッポラはその化身ではと疑っている。だが、コッポラから勧められて望遠鏡を覗くと向かいのスパランツァーニ教授宅に美しい娘の姿を認めた主人公ナタナエルは、すっかりその娘オリンピアの虜になってしまう。クララという婚約者がいるにもかかわらず、オリンピアの登場によって二人の愛は引き裂かれていく。だが、このオリンピアこそ教授が作った自動人形だった。壊れた自動人形の目玉が飛び出したのを見るや、砂男の悪夢がよみがえり、悲しい結末を迎える。

 さてさて、ホフマンには「牝猫ムルの人生観」という作品があるが、これを漱石が「吾輩は猫である」の参考にしたとかいわれ、それについて言及した研究書もあるが、あったかもしれないがそんなことは漱石の「猫」にとってどうでもいいことで、むしろ、「三四郎」の中で漱石が三代目小さんを評価しているような落語への造詣とセンスこそ研究すべきで、東京人による文学としての「猫」の面白さをもっと追究すべきといっているのは小林信彦著『名人・志ん生、そして志ん朝』(文春文庫)である。この本では志ん朝の死を東京語の終焉ととらえており、志ん朝の死によって純粋な東京語による江戸落語を聞くことはもはやできなくなったと嘆く、追悼というより落胆の書なのだが、そんな文章を読むと、志ん朝さんを聴きたくなる。さっそくCD「落語名人会・古今亭志ん朝 崇徳院・御慶」などを買って、志ん朝さんの名人芸に酔いしれるのだった。ギョケーッ!

 覗きにもどろう。

 かくいう私も、中学時代、2階の自室から向かいの家の2階に間借りしているお姉さんを覗き見る楽しみをおぼえてしまった。仏具屋の看板が目隠しになって部屋全体は見えないが、我が家の方がやや高い位置にあるので、カーテンが空いていれば、窓側にあった僕の勉強机からは目を凝らすとお姉さんの日常はほぼ丸見えだった。同じ部屋にいた兄は反対側の壁に向いていたので、たぶんこの楽しみを知らなかったはずだ。

 お姉さんは某宗教団体に入っているので、朝晩の読経はおつとめらしい。部屋の明かりを落としても街灯の明かりとか、他の家の照明の反射とかで、薄明かりのなかにお姉さんの白い姿をみとめることができる。もちろんクーラーなどない時代だ。向かいが中学生だと思えば油断していたのか、もちろんこっちも部屋の明かりは消しており、母からは部屋を明るくして勉強しないと目を悪くすると再三小言をいわれるのだが、「スタンドの明かりだけじゃないと気が散る」などと適当にやりすごしていた。だから、夏など開けっ放しの窓からお姉さんの着替える姿が見えてしまったのだった。

 モニカ・ヴェルッチの「マレーナ」に出てくる少年状態だったわけだ。1年ほどでお姉さんは引越ししてしまい、ひと夏の経験で終わってしまったのだったが、延長されていたら、高校受験には失敗していたかも知れない。
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「葉桜の季節に君を想うということ 」を読んであの後のことを思う。

2007年06月18日 | 
 歌野晶午「葉桜の季節に君を想うということ 」(文春文庫)を読んだ。いきなり、射精したあと女の乳など揉みたくない、後戯なんてごめんだという男の独白で始まる。つかみはOKというところか。かくいう私もこの冒頭で読む気になった。そう、確かに射精の後は、こっちが愛撫してもらいたいくらいだ。ただ、この独白も、年齢によるだろうよ。

 交通事故で死んだ資産家の老人の死をめぐってその真相を突き止めるべく、健康器具などの詐欺商法で荒稼ぎする団体に果敢に挑む素人探偵のお話なのだが、本筋のミステリーとは別の部分で、終盤にどんでん返しがあるという小説。おもしろいといえば、おもしろいが、「このミス」の上位にランクされるほどのものかどうか。まあ、長時間の乗り物のお供にはいいかもしれない。

 そういえば、この小説の中で、詐欺集団の一人が、年寄りが貯蓄というかたちで滞らせている金を流通させることで経済を活性化させているのだと居直っていた。最近世間を騒がせているトマソンだったかコマソンだったかの介護サービス企業が、入居料3億円の超高級介護施設を作っていたという報道があったが、悪いやつらは考えることの根本が同じなのだなと思った次第。
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『めぐらし屋』を読んだら同級生のレーミン君を思い出した。

2007年06月13日 | 
 堀江敏幸『めぐらし屋』は、蕗子さんという女性が主人公で、作中でも「蕗子さん」として語られるせいか、あるいは焼肉やら、ジャズの流れるこじゃれたうどん屋やら、食べ物の話題がさりげなくちりばめられているためか、なんか川上弘美の小説に似ているなー、これは。

 蕗子さんは、たぶん40歳前後の独身女性。倉庫業の会社のベテランOL。落語で言う粗忽者という表現がぴったりのキャラクター。蕗子という名前も、路子と命名したはずが、役場に届出に行った父親が、役所の職員が読み間違えてほめられたことがきっかけで、急遽、路に草冠がついて、蕗子にしてしまったという次第。こういうどこか調子っぱずれな人物が出てくるところが、この作家の魅力だ。

 亡くなった父親の机を整理していたら、蕗子さんが小学校のとき父親にプレゼントした黄色い傘の絵の切抜きを貼り付けた大学ノートが出てくる。表紙には「めぐらし屋」と記されてあり、日記とも備忘録ともつかぬメモで埋められている。ときおり新聞の切抜きが貼ってある。父親は蕗子さんが幼い頃、昔で言う蒸発してしまっていたので、成人してからの蕗子さんは、父親が何を生業に生きていたのかよく知らない。偶然受けた電話をきっかけに、やがて、父親が暮らしていたアパートのある街の造り酒屋のせがれがひょうたん池でおぼれかけたのを助けたこと、それが縁で、訳ありの人に隠れ家を斡旋するらしい奇妙な「めぐらし屋」という活動をしていたこと、未完の百科事典を訪問販売していたことなどが明らかになってくる。いかにも暢気そうな会社の部下や上司、離婚した幼馴染レーミンなどが、蕗子さんを取り巻いて奇妙な物語が進行していくのだが、父のアパートでたまたま取った電話が「めぐらし屋」の依頼で、それを蕗子さんが受けてしまうという展開。

「めぐらし屋」という訳のわからない、何か必殺仕置き人のような雰囲気を漂わせ、ボランティアなのか商売なのかも分からない奇妙な仕事にかかわることで、蕗子さんは、父親を自分の中に復権させ、人生にぽっかり空いた空白やら喪失感を埋めていくのだろう。その空白は、父親のアパートの前に、水をたたえて、向こう側と隔てているひょうたん池のようではないか。

 そういえば、中学時代、二つ年上で字は異なるが「富貴子」さんという美人がいたっけ。中学の同級生には、玲民と書いてレイミンと読む中華料理店の息子もいた。父母が共産党員で、かのレーニンにちなんでレーミンと名づけたのだった。名字には「菊」がついていて、菊の紋章とヴ・ナロードが同居するありがたい名前の友人であった。
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