日曜日、等々力にある川崎市民ミュージアムで開催されている公害映画特集の1本「咽び唄の里 土呂久」(伊藤宏一監督/1976年)を観にいった。この映画の監督である伊藤さんは、仕事で20年以上前からお付き合いをさせていただいているが、こうした硬派なドキュメンタリーを撮っていたとは知らなかったし、さらにいま、次回作のための取材を始めていると聞いて、がんばる団塊おやじにいささか羨望の念を抱いたのだった。
「土呂久」は、宮崎県高千穂町の山村岩戸にある土呂久鉱山の公害問題を扱っている。ここでは採掘された硫ヒ鉄鉱を原始的な焼釜で焼いて、亜ヒ酸を製造するいわゆる「亜ヒ焼き」が行われていた。この過程で、有害なヒ素を含んだ煙が村を覆い、廃棄物から出るヒ素が地面や川に流れ込み、家畜、農作物への被害、村民への深刻な健康被害を与えたというもの。鉱山は廃鉱になったが、その後も放置された焼釜や廃棄物から垂れ流される鉱毒は、子どもたちの健康にも影響を及ぼしていた。
土呂久の公害は、子どもの異変に疑問を持った土呂久の小学校教師の告発(1971年)により世間に知られることになったが、管理者である行政や鉱山会社の対応は、全国の公害問題を抱える自治体と同じで、実に不誠実なものだった。村民の訴えにニヤニヤと小ばかにした態度で臨む当時の宮崎県の役人たち。早くから健康被害を訴えていた住民に「農家の2、3つぶれても産業のない村に鉱山は利益をもたらす」とあからさまに発言する町長(村長?)など、この映画に記録された役人の姿は、いまも変わらない。「お上のやることに文句をいうな。小さな犠牲はしかたがない」なのだ。コンプライアンスだ、ロハスだと喧伝しても企業の姿勢だって基本的には変わっていなかろう。
映画は、告発から1975年に土呂久の住民たちが宮崎県や鉱山会社を相手どって公害訴訟を起こすまでが記録されている。フィルムは裁判資料として買い上げられた関係もあって、この映画が一般に上映されるのは、数十年ぶりらしいが、その後、訴訟は1990年に和解が成立したものの、鉱山会社の責任は問わないことが条件となった。土呂久公害の認定患者は今年の調査で177人、存命者は50人。だが、公害認定に至る以前に、多くの住民、鉱山労働者(この中には朝鮮人強制労働者が含まれる)が鉱毒被害で亡くなっているのである。
さて、映画の中でも少し触れられていたが、土呂久で製造された亜ヒ酸は、戦時中、毒ガス製造に使われ、中国大陸で国際法違反の毒ガス兵器として使用されていた。土呂久の住民たちも深刻な被害に悩まされながらも、非国民と罵られることを恐れ、環境の改善を訴えることもできず国策に従っていたのだという。この毒ガスを製造していたのが、広島県にある瀬戸内海の大久野島。ここでも当然ながら毒ガス製造工場で働いた労働者が健康を害し死亡しているが、さらに陸軍は、終戦時に、これらの違法な毒ガス兵器、材料を地中に放棄するなどの隠ぺい工作をしたのだが、これが戦後になって、たとえば広島市の出島東公園における環境汚染などとなって露呈したのだった(1973年に広島県が出島に毒ガス原料を埋設していたものが露出)。
土呂久鉱山の公害問題は、公害だけでなく、毒ガス兵器、朝鮮人強制労働、環境汚染まで、実に多くの問題を含んでいる。映画「土呂久」は、公害というテーマと同時に、実はこの毒ガス兵器、戦争の問題を扱うつもりだったらしい。しかし、あまりの問題の大きさに断念したそうだが、その志は忘れているわけではなく、伊藤さんは「土呂久」から改めて再出発したいと語っていた。
小川紳介、土本典昭、佐藤真といった公害を扱った優れた日本のドクメンタリー作家が亡くなっている今日、そして安直な日本映画が跋扈している志なき時代に、一撃をくらわす映画をつくってほしいと思うのだった。