新宿歌舞伎町のジョイシネマで「ダークナイト」を観る。バルト9に続き、靖国通りにピカデリーがオープンし、両館でこの映画はかかっているのだが、そして、きっと設備・音響とも新しいシネコンのほうがいいだろうことは想像できるのだが、環境の悪いジョイシネマのほうが空いているに違いないと思い、歌舞伎町で観ることにしたのだった。ねらいどおり、1割程度の入り。全米興行成績ナンバー1としては、ちょっと寂しかろうが、大画面を独り占めしているような気分は、こんな映画館でなくては味わえない。
「バットマン・ビギンズ」の続編でありながら、そして、2人の男に愛されるというヒロインでありながら、なぜ、ブルースの恋人レイチェルは、ケイティ・ホームズからマギー・ギレンホールに変わってしまったのだろうか。ヒロインとしておよそ魅力を欠いていながら、ブルースの恋人にして美人で聡明な弁護士という役柄は、どうしても似合わない(ギレンホール本人はコロンビア大学卒の才媛らしいが)と思わざるを得ないのだが、よくよく考えてみれば、だからこそ、監督のクリストファー・ノーランは、やすやすとこのヒロインを爆死させてしまうことができたのではないか。いくらマスクの下に顔が隠れているとはいえ、恋人レイチェルを失ったにもかかわらず、バットマンがあまり取り乱さない素振りなのは、それがギレンホールだからなのであって、そこに「ダークナイト」がリアル・バットマンたる所以があるのではないかと思ってしまう。
そもそもタイトルにさえバットマンの文字は登場しない。だから、「ダークナイト」の中でバットマンは、常に居場所がなく、まるで画面の中で居心地悪そうに佇んでいたり、ビルの屋上でしゃがみこんでいたりして、決して感動的な登場の仕方もしないばかりか、最後には飛ぶこともできず落下してしまうのである。おまけにジョーカーの言葉を疑うこともなく信じてレイチェルの救出に向かったはいいが、そこにいたのはトゥーフェイスという間抜けぶり。まさに意表をつく登場の仕方と軽快な身振りで画面を蹂躙するジョーカーとは対照的だ。たとえば、起爆装置である携帯電話のキーを押しても爆破しない病院に一瞬イラつくジョーカーの背後で、絶妙の間で爆破が始まる病院の建物を、青空の見える奥行きのあるショットでとらえた画面ひとつで、ジョーカーの狂気はみごとに描かれてしまう。バットマンが唯一画面で存在感を発揮できるのは、飛翔するときではなくバットポッドで地を這うように疾駆するときであり、ビルの壁を使ってUターンするスリリングなショットさえ生み出すのだが、これさえリアル・バットマンの普通さの証明にしかならない。
この徹底した解体ぶりはなんなのだろう。アメリカのとある大都市を思わせる白昼のゴッサムシティを俯瞰でとらえたショットで始まるこの映画は、このファーストショットでアメコミのヒーローものではなく、犯罪アクション映画であることを宣言する。続く銀行襲撃のシークエンスのカメラワークがすばらしい。しかし、極悪非道の異常な犯罪者と警察・検察が対決する犯罪アクション映画でありながら、はたして今回の悪の主役であるジョーカーの結末が、どうなったのかは不明という点で、悪を退治するカタルシスさへ味わえず、ラストシーンは正義のヒーローであることをやめたバットマンが、警察犬に追いかけられながらバットポッドと呼ばれる奇妙なバイクで闇の中に消えていく始末。「ダークナイト」の称号は与えられたが、その後姿に悲哀がただようリアル・バットマン、この姿は子どもには見せられない。
「バットマン・ビギンズ」の続編でありながら、そして、2人の男に愛されるというヒロインでありながら、なぜ、ブルースの恋人レイチェルは、ケイティ・ホームズからマギー・ギレンホールに変わってしまったのだろうか。ヒロインとしておよそ魅力を欠いていながら、ブルースの恋人にして美人で聡明な弁護士という役柄は、どうしても似合わない(ギレンホール本人はコロンビア大学卒の才媛らしいが)と思わざるを得ないのだが、よくよく考えてみれば、だからこそ、監督のクリストファー・ノーランは、やすやすとこのヒロインを爆死させてしまうことができたのではないか。いくらマスクの下に顔が隠れているとはいえ、恋人レイチェルを失ったにもかかわらず、バットマンがあまり取り乱さない素振りなのは、それがギレンホールだからなのであって、そこに「ダークナイト」がリアル・バットマンたる所以があるのではないかと思ってしまう。
そもそもタイトルにさえバットマンの文字は登場しない。だから、「ダークナイト」の中でバットマンは、常に居場所がなく、まるで画面の中で居心地悪そうに佇んでいたり、ビルの屋上でしゃがみこんでいたりして、決して感動的な登場の仕方もしないばかりか、最後には飛ぶこともできず落下してしまうのである。おまけにジョーカーの言葉を疑うこともなく信じてレイチェルの救出に向かったはいいが、そこにいたのはトゥーフェイスという間抜けぶり。まさに意表をつく登場の仕方と軽快な身振りで画面を蹂躙するジョーカーとは対照的だ。たとえば、起爆装置である携帯電話のキーを押しても爆破しない病院に一瞬イラつくジョーカーの背後で、絶妙の間で爆破が始まる病院の建物を、青空の見える奥行きのあるショットでとらえた画面ひとつで、ジョーカーの狂気はみごとに描かれてしまう。バットマンが唯一画面で存在感を発揮できるのは、飛翔するときではなくバットポッドで地を這うように疾駆するときであり、ビルの壁を使ってUターンするスリリングなショットさえ生み出すのだが、これさえリアル・バットマンの普通さの証明にしかならない。
この徹底した解体ぶりはなんなのだろう。アメリカのとある大都市を思わせる白昼のゴッサムシティを俯瞰でとらえたショットで始まるこの映画は、このファーストショットでアメコミのヒーローものではなく、犯罪アクション映画であることを宣言する。続く銀行襲撃のシークエンスのカメラワークがすばらしい。しかし、極悪非道の異常な犯罪者と警察・検察が対決する犯罪アクション映画でありながら、はたして今回の悪の主役であるジョーカーの結末が、どうなったのかは不明という点で、悪を退治するカタルシスさへ味わえず、ラストシーンは正義のヒーローであることをやめたバットマンが、警察犬に追いかけられながらバットポッドと呼ばれる奇妙なバイクで闇の中に消えていく始末。「ダークナイト」の称号は与えられたが、その後姿に悲哀がただようリアル・バットマン、この姿は子どもには見せられない。