ちゅう年マンデーフライデー

ライク・ア・ローリングストーンなブログマガジン「マンフラ」

竹橋に鳥女に会いに行く

2022年04月13日 | 絵画

小山田二郎の鳥女(1982)。竹橋の近代美術館で公開中。

岸田劉生の麗子像。

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常設展の撮影可な近代美術館

2022年04月13日 | 絵画
土曜日に竹橋の近代美術館で鏑木清方展を鑑賞。女性の所作とか身のこなしの微妙な身体的差異を描き分けるのは、西洋絵画の美術解剖学では表現できない。日常的に鍛錬された写生眼とか天賦に備わった動体視力のようなものなのだろう。会場で1953年にNHKラジオのインタビューに答えた清方の音声が流されているが、「〜の場合」を「〜のばあい」ではなく「〜のばやい」と言っていて、寄席や歌舞伎に幼少の頃から親しんだ人らしい噺家の話し方そのものだった。
近代美術館は常設展示も定期的に展示替えするので、こちらも見逃せない。今なら「麗子像」などが鑑賞できる。一部を除き撮影可なのがうれしい。
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超混雑「オルセー美術館展」よりきっと楽しい「マン・レイ展」

2010年08月09日 | 絵画
 六本木の新国立美術館で開催されている「マン・レイ展 知られざる創作の秘密」を観てきた。夏休みの日曜日、同じ場所で「オルセー美術館展」も開催されていて、こちらは入場するのに45分~1時間待ちという状況。印象派好き日本人の長蛇の列を横目に見ながら、「マン・レイ展」の方は楽々入場、余裕で鑑賞できることの幸福感を味わったのだった。

 アンディ・ウォーホルがシルクスクリーンで著名人のポートレートを制作したとき、マン・レイのポートレート写真のことが頭にあったのではないだろうか。二人のアーチストの成功のきっかけはポートレートであったが、マン・レイは当時の先端技術である写真、しかもわれわれが、ついこの間まで写真プリントとして使っていたゼラチン・シルバー・プリント、いわゆる銀塩写真で制作していたという点で、先端技術とアートを融合させたモダンアートの先駆者なのだ。そもそも、絵画作品の記録のため写真を撮っていたのだから、写真で売れるようになっても本人は、あくまでも絵画がアートで、写真は生活の糧と思っていたらしい。1920年代のパリ、当時、カフェにたむろしていた数多の芸術家と接し、そのポートレートを撮るうちに、不本意かどうか分からないが、あれよあれよと第一線のカメラマンとして賞揚されてしまった。だが、生活の糧としての写真ではなく、偶然できたレイヨグラフなど新たな技術で絵画としての写真を追求し始める。マン・レイの加工写真は、写真のリアリズムを追求する人たちからは批判も受けただろうが、むしろ、今日の画像処理につながる写真の新たな可能性を開いた。結局、そして実際、マン・レイの作品は絵画より写真の方がはるかに魅力的だし、自身その技術の開発にも貪欲だった。

 今回の「マン・レイ展」では、代表作といわれる著名人のポートレートやヌード写真はあまり含まれていない。「恋人たち」の空中の唇は、写真として、さらに金のオブジェとなって再生産されている。これまでとは違った「マン・レイ」を紹介するのがねらいのようだ。実に多作の人だったことに驚く。マン・レイは、自ら作品をカード形式で記録しており、これらをもとに写真という複製技術を使って、かつての作品を再構築している。レイヨグラフ、ソラリゼーションなどの技法を駆使した前衛的な作品、晩年の伴侶となったジュリエット・ブラウナーをモデルとしたプライベートな写真、立体のオブジェ、自らデザインしたチェス盤と駒、スケッチ、下絵、油絵、さらに実験的な映画などなど、実に400点に及ぶ作品が展示されている。

 展示は、ニューヨーク、パリ、ロサンゼルス、パリと居住していた場所で4期に分けてその創作活動を紹介している。やはり、シュールレアリストたちとコラボしたパリ時代の作品は圧巻だ。1920年代のパリで活躍していたアーチストのほとんどをカメラに収めたといわれるが、その一瞬の表情をとらえる知性と技術はやはりしばらしい。ピカソ、マックス・エルンストらとのコラボ。なかでも、詩人ポール・エリュアールの詩と、その妻ヌッシュのヌードをマン・レイが撮影した写真とで構成された詩集が美しい。晩年に取り組んだポラロイド写真や独自の色彩定着技法によるカラーポジフィルムによる作品もあり、これらは本邦初公開だ。ジュリエット・グレコのポートレートは、マイルス・デイヴィスが惚れたというその魅力を十分伝えている。写真に関しては実に多彩な技法を試みており、前衛の名に恥じないし、独自の色彩定着方もカラープリントの退色を防ぐための方法だったというから、フォトアーチストの先駆者としての面目躍如だ。

 図録3,000円、青いハートのストラップを購入。見ごたえもあり楽しい展覧会だった。

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GEISAI#14に行ってきた

2010年03月15日 | 絵画
 東京ビッグサイトで開催された「GEISAI#14」に行ってきた。友人ののりへいさんが、息子のリンタローネ、弟さんの匂山人3人のユニットで参加していたので、でかけて行ったのだ。行きはりんかい線で「国際展示場前」まで。これは地下に入ってしまうので、せっかくの湾岸の風景が見られない。帰りは、台場付近を散策してゆりかもめで豊洲に出て地下鉄で新宿にもどった。なんかぐるっと埋立地を回ったようだが、天気もよくて、ゆりかもめは遊園地の電車に乗ってる心持だった。実は、ぼくは、ビッグサイトも、りんかい線もゆりかもめも初めてだったのだ。そんなわけで、ちょっとしたおでかけになってしまったのだが、ビッグサイトでは、その日アニメ系のイベントも開催されていて、会場周辺はオタクくんたちであふれており、最初は「すわっ! GEISAIってこんな雰囲気なの」と一瞬不安になったほどだった。

 GEISAIは、アマチュアのアートの祭典で、子どもからお年寄りまで参加している。傑作も駄作もあるが、実際、8割方はアート好きな人たちの作品なのだが、そういう人たちが、とにかく作品を発表できる場があるということは楽しいことだ。

 のりへいさん一家のブースでは、息子のリンタローネが描いた妖怪の絵がメーンになっていて、感心なことに、かいがいしくお客さんに名刺を配り、絵の説明もするなどしっかり営業をしていたのだった。(写真:家もなく路上で物売りするこどもではありません)のりへいさんの作品は、インチキげな妖怪の合成写真で、6枚組みのポストカードセットが300円だったので、記念に購入したのだった。

 来年は、ぼくも参加してみようかなと思っている。作品は、「女林図屏風」。水墨を基調に、淡い肌色に描いた女体と銀箔の半月をあしらう。もしくは「熱帯雨林図」屏風。金銀、群青、緑青を基調に熱帯の密林と花鳥を描く。いずれも4曲一隻。これで決まりだ。
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すごい!長谷川等伯は元祖琳派か

2010年03月10日 | 絵画
 雨の土曜日なら空いていようと上野・国立博物館に「長谷川等伯」展を観にいった。ほどよい混み具合、けっこうじっくり鑑賞できた。帰りに、上野公園の陶器市で妻の茶碗を買った。

 等伯といえば「松林図」だが、僕の「松林図」体験は、15年ほど前、安土桃山絵画に興味をもち始めた頃、織部の陶器を観たくて国立博物館の平常展示に行ったとき、たまたま桃山絵画のコーナーに展示してある「松林図」に出会ったのだった。誰もいない展示室、その六曲一双の屏風の前で動けなくなった。霧だが靄だかから静かに立ち現れる荒々しい筆づかいの薄墨の松。僕ひとりが松林の中に佇んでいるような心持だった。その前に長椅子が置いてあって、たぶん30分ほどはそこで見入っていただろう。その間、ほかの鑑賞者はいなかったと記憶している。「松林図」の独り占めなど今では僥倖というものだろう。以来、等伯は狩野永徳、古田織部以上に僕の桃山アイドルになった。だが、残念ながら京都・智積院の楓図も息子久蔵作といわれる桜図(今回展示されていないのが残念)も実物を観ることはなかった。

 だから今回の没後400年記念展示には大いに期待していた。そして、これまで知らなかった等伯に出会うことができた。一体この人の画風はどれなのというほど、実に多彩なスタイルにチャレンジした絵師であった。

 画集では観ていた巨大な仏涅槃図、牧谿に学んだ枯木猿猴図、千利休像、秋草図などをはじめ、写真だけの展示だが大徳寺山門の壁画のダイナミックな色彩。再認識したのは狩野派とは異なった、むしろ琳派につながるであろうスタイリッシュな装飾性にあふれた金地の屏風群だ。柳橋水車図屏風、萩芒図屏風、柳に柴垣図屏風、波濤図には心底驚嘆した。これらの作品に特有の空白、過剰な反復は、元祖琳派は等伯ではなかったかと思わずにいられない。等伯は歌舞いていたのだ。様式から出られない狩野派をあざ笑うかのように歌舞くスピリットを発揮した。そして、死ぬまで旺盛な創作意欲にあふれていたのだ。だが、竹林七賢図など水墨画特有の題材を描いた晩年の水墨画群は?だ。熟慮した線ではないし、松林図を描いた絵師と同じ人物が描いたとは思えない。松林図は心象風景だ。そこがすごいところだと思う。そんなことを思いながらも、ただただ絵師としての圧倒的な迫力に感嘆した展覧会であった。
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速水御舟展を山種美術館まで観にいく

2009年10月19日 | 絵画
 先週、広尾に新たにオープンした山種美術館に行った。オープンを記念した「速水御舟展」を見るためだ。

 恵比寿から駒沢通りを歩いて12,13分だろうか。PAPAS本社のファサードに立つ巨大なダビデ像の巨大なポコチンに見下ろされながらしばし坂を登ると、角の八百屋に「山種美術館はこの先」と段ボールの紙片にマジックで書いた案内看板がぶら下がっている。よっぽど、聞かれるのだ。日本画を中心とした美術館だから客層の中心は中高年。坂を登って、まだなのかという思いで、この八百屋に聞くのだろう。実際、この八百屋のほぼ隣に新しいモダンな佇まいの山種美術館はあった。

 まだ第1作さえ完成していない身で日本画を描いているなどとはいえないのだが、それでも西洋画を見る視点とは異なった日本画の技法に対する興味から、できるだけ巨匠たちの作品に触れたいと思う。だから御舟の絵は新鮮だった。天才と言われ、40歳で亡くなった御舟は、変化しながらもその年代年代で完璧な技法と表現力を発揮しているが、まだ発展途上だった。「一度登った山をおりる勇気」といったそうだが、それだけにもっと生きていれば、日本画の新しい可能性をどのような開拓しただろうかと思わないわけにはいかない。

 琳派風の初期作品、未完の婦女群像もすばらしいが、1920年代のヨーロッパを旅した折に描かれたイタリアの路地裏のカフェだかトラットリアだかの椅子に腰掛けた女性がいる午後(と思われる)の風景を坂道の上から縦の構図で描いたスケッチの、速筆のタッチと着彩された色のすばらしさに驚嘆したのだった。ものすごい速さでその風景を切り取ったのだろう。だが、まるで見るものをイタリアの小都市の路地裏に連れて行ってしまい、そこに吹く風やら漂う匂いまで感じさせてしまうのだった。「京の舞妓」の絵が酷評されて以来、敬遠していた人物画に挑戦するために描いたヌードデッサンの力強さ。炎の中を舞う蛾を描いた「炎舞」の黒、桃の花の蕾の繊細な描き方。墨と白緑で描いた桔梗など、大作から小品まですべてがすばらしい。速水御舟おそるべし。
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忍者のように皇居の石垣を除草している職人が見えた「ゴーギャン展」

2009年08月27日 | 絵画
 竹橋の国立近代美術館に「ゴーギャン展」を観にいった。平日なのでそう混んではいなかったが、大作「我々は何処から来たのか。我々は何者か。我々は何処へ行くのか」が初公開とはいえ、約50点の展示ではいささか寂しい。貧困と病気と失意のなかで死を意識しながら描いたというこの大作がメーンになっているせいか、ゴーギャンの暗い一面が表れた作品が多かった。タヒチ時代の作品も「タヒチの女」のような明るい野生の表現よりも、「かぐわしき大地」「何処へ行くの」「タヒチの田園」など、人間の原罪を問うような宗教色の濃い作品が選ばれていたのには何か意図があったのだろうか。母性を感じさせるタヒチの大らかさと鮮やかな色彩は影を潜め、とりわけ晩年の作品を特徴づけるのは赤の喪失であるように思われた。

 会場を出たグッズコーナーには、タヒチ産の黒真珠やら琥珀の装飾品を売るコーナーがあった。見ていると、観光地の土産物屋のおばはんがするセールストークのような売込みをしながら店員の女性(おばはん)が近づいてきたので、「ここは何処?」「我々は何処にいるの?」と自問したくなってしまったのだった。

 常設展示も見ることができる。常設展示の4階には皇居側に向かってガラスばりの休憩室がある。一休みしてボーッとしていると、皇居の石垣を這っている人影が見える。石垣の除草をしている職人さんらしいが、命綱もつけずスイスイと石垣を登り、草を抜き取っている。なるほど、すでに除草が済んだらしい左側の石垣はすっかりきれいになっていて、こんな仕事もあるのかと妙に感心したのだった。

 さて、「我々は何処へ行くのか」、我々は、パレスビル地下のニュートーキョーで、生ビールとフィッシュ&チップスをつまんだのだった。
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「奇想の王国・だまし絵」展を観に行ってきた

2009年08月04日 | 絵画
 「奇想の王国・だまし絵展」を渋谷のBunkamuraミュージアムまで観にいく。アルチンボルドの「ルドルフ2世」の肖像をはじめとした古典から、20世紀のマグリット、ダリ、エッシャー、さらに日本の河鍋暁斎、国芳、広重、そして福田繁雄、本城直季などのコンテンポラリー・アートまで、古今東西のだまし絵、トロンプルイユというジャンルの絵画、写真、造形を一堂に集め、なかなか楽しめる展覧会だった。

 夏休みの土曜日の午後とあって入場券を買うのに10分ほど並んだが、館内はそれほどの混雑ではなかった。若いカップルやグループが多いせいか、立ち止まっておしゃべりに夢中になっている輩が多く、そのせいで進路に渋滞が起きる。こちらは、律儀に付き合っている暇はないので、割り込み、逆周りなど、人を押しのけて鑑賞したのだった。絵の中心に円柱形の鏡を置くと、奇怪な文様がキリストの受難を描いた聖画になるとおもいきや、その反対側に男女のまぐわいの図がたち現れるアナモルフォーズ、16世紀のエアハルト・シェーンの横長の判じ絵は、絵に対して斜め30度くらいの横から覗くと、野原で脱糞している男の姿が見えるというものだった。図録(2,200円)の表紙は、「ルドルフ2世」の果物や花の一部が型抜きになっていて、一見フェミニンな装いだが、表紙を開くとグロテスクな「ルドルフ2世」が現れる趣向。アナモルフォーズ用の銀紙もついていて楽しい。

 アルチンボルドの「ルドルフ2世」は、高校の時、澁澤龍彦の本で知ったと思う。澁澤龍彦や種村季弘らが、こうした「奇想の系譜」を熱心に世に紹介していて、いわゆる幻想文学などとともに、夢想する10代後半の私の知的関心の半分を占拠しており、それらは社会に対して強烈な毒を発していた。その毒を浴びることで、精神の開放感を味わっていたのだった。だから、こうしたテーマで展覧会が開かれ、実物にはお目にかかれないだろうと思っていた絵画に、40年も後に出会えたというのは僥倖といってもよいかもしれないが、これらの絵画も、今日においては「奇想」や「毒」というより「ギャグ」として受容されているのだと、はしゃぐ若者の多い会場で感じた。むしろ、やなぎみわや、超美人の日本画家松井冬子の作品こそ奇想の系譜につらなるにふさわしい作家なのではないかと思ったのだった。
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「大琳派展」愁人濡らす秋雨かな

2008年11月10日 | 絵画
 上野の国立博物館平成館で開催の「大琳派展」を観にいく。午前中は秋雨が降るお出かけ向きではない天気だったが、開期の終わりも近づいていたので、今年初めてコートなど着ていそいそと出かけたのだった。琳派ってこんなに人気があったんだと思うくらいのけっこうな人の入り。「風神雷神図屏風」の宗達、光琳、抱一の3点展示は2年前の出光美術館以来。さらに鈴木其一のも加わり4作揃い踏みと豪華である。

 何よりも、現地で観たいと思っていた京都・養源院の宗達「杉戸図」4枚を初めて観ることができたことは僥倖だった。あの白象の、なんとアヴァンギャルドなフォルムよ。今回見直したのは、其一の色彩と空間だろうか。とどまることのない水の流れをいかに表現するかは、琳派の特徴の一つだが、デザイン化されながらももっとも水のきらめきを表しているのが其一だと感じた。宗達の繊細な中にも豪胆さをもつ作風に比べ、光琳、抱一、其一と進むほど、絵は洗練と緻密さを増すように見えるが、とりわけ其一の俳諧とのかかわりからか、俳句を読むように自然を切り取り、絶妙な空間や間を演出していることに、面白みを感じた。これだけの展示なのだから、光琳の国宝「紅白梅図屏風」の不在が惜しまれる。MOA美術館は門外不出にしているのだろうか。

 さて、上野の帰りといえば、当然ながら「宝丹」である。「琳派」も「宝丹」も秋が似合う、かな。
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シブヤで風流な土左衛門「オフィーリア」に会う

2008年10月17日 | 絵画
 渋谷のBUNKAMURAミュージアムで開催の「ジョン・エヴァレット・ミレイ展」に、3連休の中日に行ったところ結構な混み具合。お目当ては、風流な土左衛門こと「オフィーリア」を観ることだったので、改めてその美しさに接し、ひとまず満足して帰ってきたのだった。

 収穫は、これもかの漱石がテートギャラリーで鑑賞したという「遍歴の騎士」。ミレイ唯一の裸婦像だが、大木に縛り付けられた裸婦の縄を解く遍歴の騎士、すなわちドン・キホーテか。諸国を放浪する彷徨える浪人者なわけだが、この裸婦像がなかなかエロい。豊満な体についた縄の跡、からだの左側を曝け出すように傾いた体の右側に流れる、波打つ長い髪。その無防備な姿はゾクッとさせられる。

 ミレイのモデルたちは、清楚にたたずんでいてもどこかMな雰囲気を漂わせている。無防備な少女たちはロリ男を刺激してやまないだろう。20世紀初頭のロンドンで明治人の漱石は、この官能的な裸婦像に何をみたのだろうか。漱石は帰国後日本の画壇で起きた裸婦像論争で、裸婦像擁護派だったわけだし、「草枕」では、宿の未亡人那美さんが、風呂場の湯煙の中に現れるその裸像を描こうと試みた。もちろん僕も裸婦擁護派だが、ところで、「草枕」を映画化するとしたら那美さんは誰が演じるべきだろうか。
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