映画監督・小津安二郎と俳句
~『全日記 小津安二郎』より~
文人俳句に親しむ
昨年(2018年)は映画監督・小津安二郎(1903三~1963)の生誕115年ということで、戦後の主な作品が4K修復で上映され、ご覧になった方も少なくないだろう。
小津監督は、そのスタイリッシュな作風で世界的に評価されているが、生涯独身だったことや、家族という同じテーマを描き続けたこと、ローポジションのカメラアングルへのこだわりなど、ストイックでどこか謎めいた伝説をもつ監督でもある。
私生活を知る手掛かりとして、私たちは小津監督が残した日記を『全日記 小津安二郎』(田中眞澄編纂/フィルムアート社刊)として読むことができる。昭和8(1933)年から同38年まで、途中欠落はあるものの30年あまりの日常が記録されている。内容はほぼ交遊と食べ物のメモ程度の記録で、日々の心境は余り綴られていない。実に素っ気なく、いわゆる文学者の読ませるための日記ではない。しかし、その中にあって、謎めいた監督の日々の心情がうかがえる貴重な記録が、百数十句残された俳句なのである。
日記の俳句は、小津監督が応召する昭和12年までに、ほぼ集中している。20代から俳句を詠み始めたようだだが、久保田万太郎(1889~1963)の俳句を好んでいたことは、日記からうかがえる。
また、昭和10年3月の日記に――
十九日(火)
山中貞雄より京のすぐきをもらいければ
春の夜に(を)さらさら茶漬たうべけり
「に」を「を」に改めるは久米三汀の教なり
との記述がある。
久米三汀は夏目漱石門下の小説家、劇作家の久米正雄(1891~1952)の俳号で、若くして「俳句日本」の巻頭作家になるなど、大正俳壇、新傾向俳句の旗手といわれた(久米の生涯は破天荒で面白過ぎるが)。小説に専念し、一時俳句から遠ざかるが、昭和9年頃から久保田万太郎らを宗匠格とした文人俳句のグループ「いとう句会」に参加。戦後は万太郎と『互選句集』を刊行するほどであった。文人との交流が活発だった小津監督も、こうした作家たちとの交流の中で俳句に親しみ、三汀の手ほどきを受けるに至ったのだろう。
梅咲くや銭湯がへりの月あかり
この句などは、万太郎の句を模したとあり、遠くおよばないとも記している。
俳句に綴られた恋
心情をあまり綴らない日記の中にあって、小津監督の心の内が最も鮮やかに浮かび上がるのが、実は恋の句である。小津監督は昭和10年頃、小田原の芸妓千丸こと森栄と逢瀬を重ねていた。日記には昭和十年から「小田原に行く」「夕方から小田原の清風楼に酒を呑む」(2月12日)などの記述が目につくようになり、そのあとには、決まって一句が添えられている。
小田原は灯りそめをり夕ごゝろ(十五日)
三月五日(火)
~十時十分東京駅から小田原清風へ行く
明そめし鐘かぞへつゝ二人かな
これも久保万の明けやすき灯をに遠くおよばず
小津の万太郎好みはこんなところにも。それはそれとして、この句は後朝の一句であろう。そしてさらに、
ひとり居は君が忘れし舞扇
ひらきてはみつ閉ざしてはみつ(十三日)
雪の日のあした淋しき舞扇(二十二日)
21日の夜小田原へ行き、23日午後帰京しての一句。女が帰った後、忘れ残した扇を開いたり閉じたり、その反復行為が切ない。雪の日ならなおさらだ。
さらに3月23日(土)には、「またしても小田原清風に一同行く」とあり、その後に次の2句である。
口づけをうつつに知るや春の雨
口づけも夢のなかなり春の雨
春の雪は雨へと降り変っていた。女は明け方先に帰ったのだろう。帰り際にそっと口づけしたのか、それとも夢の出来事なのか。これまた後朝の句だが、どこか覚めた目で自分を見ている。この時、小津安二郎32歳。
「夢のなかなり」の句は、小津俳句としてしばしば取り上げられるが、ストイックな小津監督の映画からは想像しがたい艶めかしさだ。戦後の小津映画では『早春』(1956年)など男女の情欲を描くものは数少ない。それだけに、これらの恋句には驚かされてしまう。しかし、俳句という言葉の無駄を省く定型詩によって自らをクールに見つめているところが、スタイリストの小津監督らしいといえるかもしれない。
「篠」187号掲載(2019年1月)
【追記】
小津安二郎の俳句については、2020年に松岡ひでたか著『小津安二郎と俳句』が出版されて、巻末に小津監督の全223句が掲載されている。同著は2012年の小津監督の50回忌を記念して私家版で出版され、私も長く探していたものだが、20年に復刻され日の目を見ることになった。この「篠」掲載のエッセイは、復刻前に『全日記』より句を拾って書いたものであることをお断りしておく。
写真はネットより