ちゅう年マンデーフライデー

ライク・ア・ローリングストーンなブログマガジン「マンフラ」

民主党が政権を握ると日本人のセックス頻度が上がるだろうか?

2009年07月22日 | 
 友あり遠方より来るではないが、ひょんなことで中学や大学時代の友人と続けて会った。大学時代の友人J君は、最近アルゼンチンタンゴを始めたといい、すっかりスマートになっていた。僕も日本画を始めたので自慢したかったが、アルゼンチンタンゴには負けた。そんな話で明け方近くまで痛飲。中学時代のS君、20年ぶりくらいのO君、Kさん、こういうメンバーで飲むなんて考えられなかった。中学時代の思い出、同級生のその後の消息などで盛り上がり、Kさん(亀淵友香似。歌がうまい)の地元のスナックでカラオケなんかして、終電ぎりぎりまで痛飲。そんなわけで連休は身体に滞留していた酒の毒を吐き出すべく、最近復活したウォーキング+ジョギングで汗をかく。爽快。

 日本画はなかなか完成しないが先は見えてきた。日本画の元になるデッサンを少し描きためたいと思い、アスパラを描き、近くの公園の風景をスケッチ。よく観察してモノの形の法則というか構造が分かってくると筆が進む。花、野菜、樹木、よく見ているととてもエロチックだ。大地に根を張る樹木の二股の根っこの襞のような部分など、鉛筆で陰影をつけているとミョーな気分になるなー。

 ところで、英国のコンドームメーカーの調査によると、日本人は調査対象国41カ国でもっとも年間のセックス回数が少ない国民らしい。平均的なカップルというから、20~30代だろうか、45回。週イチより少ない。フランスは120回。3日に1回か。日本人のセックスレス化はどんどん進んでいて、年間ゼロの割合は30代でも30%くらいあるらしい。そんなデータを駆使しつつ、少子化の原因は格差社会にありと説くのは『セックス格差社会』(門倉貴史・著)。タイトルからほぼ内容を想像はできるのだが、年収と月間のセックス頻度の相関から、年収が下がるほどセックス頻度も低下することを導き出す。格差社会の下のほうは、ビンボーなので女性とつきあえない、だからセックスもできない、子供がつくれない。ゆえに少子化が促進。格差社会の上のほうは、相手はいても忙しくてセックスレス。ゆえに少子化が促進、というわけだ。少子化をくいとめるには、出会い→結婚→セックス→出産→子育ての流れを支援する政策が必要だが、そういえば民主党が子育て支援政策を表明していることから、総選挙が決まるや赤ちゃん本舗などの株価が上昇しているという話はおもしろい。民主党が政権を握ると、日本人のセックス頻度が上昇するかどうか注目したいところだ。

 映画に関する傑作本を2冊、『何が映画を走らせるのか』(山田宏一・著)、『偽りの民主主義~GHQ・映画・歌舞伎の戦後秘史』(浜野保樹・著)を読む。いずれも、映画とは何かを考えさせられながら、扱われている映画にまつわるエピソードが面白すぎる。とりわけ『偽りの民主主義』のほぼ主役でもある永田雅一の「FOCUS ON THE MONEY」(この言葉については『何が映画を走らせるのか』にくわしい)とでもいうべき映画的人生がすごい。その品性たるや褒められたものではないが、永田の大映映画はみんな面白かった。
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余は如何にしてヨシモト信徒になりし乎

2009年06月10日 | 
 鹿島茂・著『吉本隆明1968』(平凡社新書)を読む。吉本がなぜすごいのか、団塊世代の著者が若い人の疑問に答えるため、自らの吉本体験を語りながら、初期の吉本の著作を読み直し、吉本思想の根幹を成す「大衆の原像」とは何かを解き明かしつつ、吉本思想の再評価を試みる。この本の魅力は、何ゆえに吉本が著者の規範になったかを述べてゆく私小説的批評である点で、いわば鹿島版「余は如何にして吉本主義者になりし乎」なのだが、さらにこの本について語ろうとすると、自ずと自らの吉本体験を語らねばならぬこと、そしてそれは自らの出自を踏まえて語らねばならない、という気にさせてしまうことだろう。

 僕が吉本を最初に読んだのは現代思潮社刊『異端と正系』である。埼玉の田舎のサラリーマン家庭に育ち、旧制中学だった県内の進学校に通っていた高校1年の冬、同じ高校の2年上の兄から借りて読んだのだ(ちなみに僕の知的な開明にはこの兄の影響が大である)。所収の「社会主義リアリズム論批判」「転向ファシストの詭弁」「日本ファシストの原像」などの論文に衝撃を受けた。読書歴として評論を読むという経験がほとんどなかった僕にとって、理解はできなかったけれど、そこに登場するこれまで名前さえ知らない作家や批評家、とりわけプロレタリア文学や戦後左翼の批評家たちをばっさばっさ切り倒す歯切れのいい語り口には度肝を抜かれた。批評とはかくも他人を斬りまくっていいものなのだと。

 その一方で、詩人としての吉本の現代詩は、中原中也などの詩に親しんでいた僕には、言葉のつぶてのように感じられた。思潮社の現代詩文庫『吉本隆明詩集』で読んだ「転位のための十篇」の「廃人の歌」の「ぼくが真実を口にするとほとんど全世界を凍らせるだろうという妄想によってぼくは廃人であるそうだ」などに表現された孤立無援の闘争宣言のような啖呵のきり方とそこに同居する哀愁のようなものに魅せられたのだった。

 こういうとき吉本隆明ならどう考えるだろうと、ある時期吉本は出来事や物事を判断する規範になっていた。吉本がスターリニズムと呼ぶシステムは、一つの組織が目標に向かって対立を克服しながら上昇的な志向をしていくときに作動する抑圧的な排除のシステムであり、それが誰もが否定しがたいスローガンを纏っていればいるほど、巧妙に組織と個人を抑圧していく、ということを自分の体験と合わせて知った。誰もが否定しがたい目標を掲げる組織や運動に違和感をもつのは、それがスターリニズムやファシズムというシステムを内包しているからに他ならないのだが、吉本の著作に触れなかったら、そうした違和感を解きほぐすことができないまま、すなわち批評精神をもたぬまま青春時代をすごしていたかもしれないのだった。

 昨年、糸井重里プロデュースによる講演会の映像がNHKで放映されていた。途中でチャンネルを切り替えてしまった。20世紀の亡霊のように感じられてしまったからだ。あるいは、失礼ながらルバング島から生還した横井さんを思い出してしまったからだが、できれば、「時事放談」のように囲炉裏でも囲みながら糸井と対談するような趣向のほうがよかったのではないかとも思った。

 この本のあとがきで著者は、乱暴にいえば吉本は「自分の得にならないことはしたくないだって? 当たり前だよ、その欲望を肯定するところに民主主義が生まれ、否定するところにスターリニズムやファシズムが生まれる」と言ったのだと述べているが、これは至言だ。しかし、プチスターリニズムは社会の至るところに蔓延している。これに加担しないためには、とりあえず「ずれる」しかないのかもしれない。
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アール・ヌーヴォな女の腰つきにとんかつ屋をネズミは走るOZUの戦争は彼岸花

2009年01月16日 | 
 新年初めての美術鑑賞は、日本橋高島屋で開催の「ガレ・ドーム・ラリック展」。アール・ヌーヴォからアール・デコに至るフランス工芸作家のポーラ財団コレクションの展示。アール・ヌーヴォからアール・デコへの変化がとてもよく分かる美術展ではありました。美術展会場とは別室で、同じ年代のガレやラリックの工房で製作された工芸品が展示販売されていた。いとも簡単に600万とか1000万というプライスカードが付いていて、こちらのほうが数字で価値が見えるので面白かった。

 新宿サブナードの地下街、よくあるとんかつ屋で夕飯を食っていたら、テーブルの下を丸々太ったネズミが通った。新宿の地下だからネズミが出ても驚かないが、気分はよくない。場末のいっぱい飲み屋じゃないないのだから。レジで店員に話すと「出ちゃいましたー」だと。「別に新宿だから驚かないけど」とふると、「そーですよねー」。さらに「営業中に出たのは初めて」とか「ここは地下だからしかたがない」とかヘラヘラしながらの受け答え。やっちまったねー。まあ、怒る気にもならなかったけれど、もう行かない。

 小津安二郎監督「彼岸花」を昔の録画ビデオで観る。小津監督に関する本を何冊か読んだので、カラー第1作を観たくなったのだ。監督自らが小津映画の4番打者という杉村春子が出ていないが、その役割を浪花千栄子がみごとにこなしている。山本富士子も明るいキャラクターを発揮しているが、やはり田中絹代は小津映画のテンポに合わないのではないかという気がした。娘の結婚がテーマなのに花嫁姿も結婚式も映らない映画。赤いホーローの薬缶と黄色の湯飲みの色彩がすばらしい。

 小津監督が1937年から応召し中国戦線で従軍した時の記録「従軍日記」が面白い。それとともに「禁公開」になっている「陣中日記」もあるのだが、こちらは中身がわからない。「従軍日記」は暢気な軍隊暮らしといった趣だが、1937年から1939年という時代の上海、南京を考えれば、恐らく小津監督の戦争体験はかなり凄惨なものがあったはずだ。小津監督は戦争を描かなかった人といわれるが、戦争未亡人は出てくる。「東京暮色」のような映画には、小津監督の心の奥の暗さのようなものが不意に出てきてしまうことがある。
 
 小津安二郎は中国戦線で何を経験してきたのだろうか。
 
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溝口健二「浪華悲歌」で山田五十鈴は「セントルイス・ブルース」をハミングする。

2009年01月08日 | 
 1936年(昭和11年)といえば、2.26事件、阿部定事件、ヒトラーのベルリンオリンピックで「前畑がんばれ」が有名になった年。昭和史のターニングポイントなどともいわれる。この年のヒット曲には藤山一郎の「東京ラプソディ」などがあるが、年末にBSの録画で観た溝口健二の「浪華悲歌」(1936年の作品。なにわエレジーと読むのでしょうね)を観ていたら、山田五十鈴扮するヒロイン・アヤ子が、「セントルイス・ブルース」を鼻歌で歌うシーンがあるのにはちょっと驚いた。社長の愛人宅のマンションのモダンなたたずまいやラストシーンの山田五十鈴のモガぶりなど舞台装置もモダンだが、タイトルバックの音楽も洗練されたオーケストレーションのスイングジャズなのだった。

 溝口とジャズ、戦後の作品からは想像できないが、愛人や美人局をしても家族のために献身し、女一人で生きていくという孤独だが自立した女を描く現代劇ならば、溝口の中でも先端的な文化としての映画とジャズは当然のごとく融合したのだろう。そして、昭和11年あたりは、都会ではまだまだアメリカの音楽や映画に大衆が熱狂できた時代だったのだ。

 実は、昭和10年前後というこの時代こそ日本のジャズが大きく発展した時期であったことが、最近読んだ「日本ジャズの誕生」(瀬川昌久・大谷能生 著)でも書かれてあった。瀬川さんは草創期の日本のジャズを語らせたら右に出るものはいない。そしていまこの人の話を収録しておかなかったら日本におけるジャズ誕生の真実が分からなくなる、そんな使命感から大谷氏もこのインタビューに臨んだのだろう。しかも「赤アイラー」「青アイラー」同様、音源を聴きながら、というところがこの本の肝で、このスタイルで日本ジャズ史が掘り下げられることを期待しないわけにはいかない。

 この本でも日本最初の黒い歌手として紹介されるディック・ミネ。34年に「ダイナ」を、「浪華悲歌」の年1936年には「セントルイス・ブルース」(アレンジも歌い方もかっこいい。菊翁が下品に「あなたいやーん、そこはオシリなの」と歌う歌をイメージしてはならない)をヒットさせている。だから、ヒロインの鼻歌にもこの曲が出てきたのだろう。ダンス音楽としてのジャズがダンスホールを中心に最もモダンな音楽、文化として都会の若者の心をとらえていた時代なのだった。ミネさんは母校の先輩(卒業後逓信省に勤めたというのも驚きだった)、瀬川さんは私が所属していた母校のビッグバンドをいつも評価してくれた一人で、コンサートの打ち上げにも顔をだしていただいたことがあったはず。そんなわけで、この本は内容もさることながら個人的にもうれしい1冊なのだった。
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たぶん、ティファニーでは売っていない聖クリストフォロスのメダル

2008年11月04日 | 
 トルーマン・カポーティ作「ティファニーで朝食を」を新潮社の村上春樹翻訳版で読んだ。ティファニーブルーのカバーに金の箔押しで名無しの猫があしらってある装丁が気に入って思わず買ってしまったのだが、中身もとても面白い。

 タイトルにティファニーが出てくるほど、小説の中でこの店が頻繁に出てくるわけではないのだが、物語の主役であるホリー・ゴライトリーが説明しようのない心の不安感のようなもの(ブルーではなく「アカ」になると表現している)を癒すものとしてあげるのがティファニーという空間なのだ。酒でもなく、マリファナでもなくティファニーなのである。ホリーは自らの名前をホリデー・ゴライトリー・トラヴェラーと名乗るほど、自由気ままな根無し草である。そのホリーに、主人公の「僕」がクリスマス・プレゼントとしてあげるのがティファニーで買った「聖クリストフォロス」のメダル。ここではじめて、ティファニーの商品が登場するのだが、聖クリストフォロスとは、旅人を守る聖人なのだそうで、だからホリーには、とてもふさわしい贈り物なのだった。

 でも、ホリーと僕は一時けんか別れし、このメダルも部屋のどこかに捨てられてしまうのだが、いざホリーがブラジルにエスケイプしようというときになると、ホリーはあのメダルを探しきてと「僕」に頼み、旅のお守りとして携えてブラジルに渡るという顛末なのである。そういう意味で、ティファニーはさりげなく登場しながら、実に重要な役割を担っているのである。舞台は第二次世界大戦中のニューヨークである。日本とくらべものにならないほどアメリカ人は贅沢に過ごしているのだが、小説の至るところに、戦争の不安の影が落ちていて、だからこそティファニーの凛とした空間は、その不安の意味と静かに対峙できる場所なのだろう。その対極が、いわくありげなセレブの喧騒とパーティに明け暮れるホリーのアパートの部屋なのである。

 ところで、この聖クリストフォロスのメダルというものをティファニーでは売っていたのだろうか。たぶん、おそらくいまは売っていないのだろうが、旅のお守りとして売り出したらきっと売れるのにな、と思うのだった。

 さて、この原作を読めば、ブレイク・エドワーズ監督、オードリー・ヘップバーン主演の映画「ティファニーで朝食を」が気になる。村上版「ティファニー」のあとがきで、ヘップバーンをイメージしないで読んでほしい旨のことが書いてあった。この映画は、大分以前にたぶん日曜洋画劇場あたりで観たと思う。でも、小説のホリーは20歳くらいで、髪を赤や黄色に染めていたり、読み進めていくうちにヘップバーンのイメージはすっかり消えていたのだった。

 改めて1,500円のDVDを買って観ると、舞台は1960年代の繁栄のニューヨーク、しかもケネディ大統領が誕生した1961年公開。冷戦の危機が高まりつつあった時代とはいえ、じゃじゃ馬娘と新進作家という知的な男とのラブストーリーに組みなおされた映画では、時代を覆う不安のようなものは一掃されている。それゆえなぜティファニーなのかという小説が持っている意味合いは失われ、お菓子のおまけのリングにも名入れしてくれる顧客を差別しないサービスを提供する高級宝石店としてのみ機能しているという具合なのだった。村上春樹は原作の持ち味を生かしてリメイクしてほしいと「あとがき」に綴っていたが、では、ホリーは誰が演じたらいいのか、ホリーが窓辺でギターを弾きながら歌う歌は、「ムーンリバー」ではなく、どんな曲がいいのだろうか。ヘンリー・マンシーニの「ムーンリバー」は名曲だけれど、ワルツではないだろう。ホリーはファドも歌うと書いてある。あるいは牧場を営む獣医のドクに拾われ、ギターも教えられたというからフォーキーな曲がいいのか。そんなことに思いをめぐらした秋の休日だった。
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視界を横切るエトランジエ、小沼丹の短編小説が面白い

2008年02月26日 | 
 小沼丹の小説がお面白い。島村利正の全集を出すというアクロバチックな出版社「未知谷」が、全4巻+補巻の「小沼丹全集」も出すという離れ業をやっていて、いま、小沼丹を読むには講談社文芸文庫「懐中時計」「椋鳥日記」、創元推理文庫「黒いハンカチ」くらいしか簡単には手に入らないので、初期の傑作「村のエトランジエ」などを読もうと思えば、この未知谷の全集にあたるしかない。とりあえず、ほとんど読まれていない第1巻を図書館で借りたのだが、一巻12,600円、それでもこれはほしい一冊だ。

 「村のエトランジエ」は昭和29年、その翌年「白孔雀のゐるホテル」で芥川賞候補になり、その後も多くの作品を発表しているにもかかわらず、「政治と文学」「性と文学」が論議され、政治性や過激な性を身にまとった文学が支持された時代のぼくの文学体験の中には、不幸にも小沼丹の名前が登場することはなかった。小沼丹の小説はどちらにも無縁に見えるからだが、実は、男女の性と戦争は作品の通奏低音ではある。10代の頃、小沼丹を読んで面白いと思ったかどうかは分からないが、こうして齢を重ね、偶然書店で手にしたことで出会ったことに感謝だ。

 「村のエトランジエ」などの初期作品は、後期の「大寺さんもの」に倣うなら、「エトランジエもの」と呼べるのではないか。それは、静かな避暑地や郊外の町に、不意に視界に現れるエトランジエ(赤いダリアの花を胸に飾った女、美人姉妹、サングラスの女など、少年や思春期の男が関心をもつ女であることが多いが、語り手の「僕」は相手にされない)が、その出現によって村や町の日常に揺らぎを起こし、「僕」やその周辺の人たちは、遠巻きにその小さな出来事に好奇な目を注いでいくのだが、たいがい急な展開(それは、縊死や落下という垂直運動であることが多い)で、ひと夏の事件は幕を閉じる。実は、エトランジエを気にかける語り手である「僕」も、よそ者のエトランジエで、不意の訪問者への共感は、事件の収束とともに、僕の中の「虚無」を露出させることになるのだった。それは、事件後も何もなかったように横たわる風景であり、あるいは数年後に、戦後の開発で変わった風景と、それを眺める「僕」として表されるのだが、その情景がすばらしい。

 とりあえず、講談社文芸文庫「懐中時計」を読まれよ。
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ノロと牧野信一と小沼丹

2008年01月31日 | 
 風邪がようやく治りかけたら、今度はノロにやられた。金曜の夜中、急に来た。吐き気とピーヒャラ、熱少々。翌日めったに行かない医者に行くと、ノロの疑いが強いとのことで、3日間寝込む。幸い軽症だったが、そんなわけで、正月明けから合わせると4キロ痩せた。ようやく市販のお弁当類が食べられるようになったが、あまり量は食べられない。酒もあまり飲みたくない。食べられないと元気も出ない。仕事は忙しいのにやる気が湧かない。それにしても、どこで感染したか。

 元気がないなかで、牧野信一と小沼丹の短編を読んで、短編小説の面白さを再認識した。牧野の作品は、いわゆる幻想文学に入るのかもしれないが、『繰舟で往く家』は大変美しい恋愛小説の傑作。川をわたっての逢瀬という距離感、川の流れという横の運動と、繰舟で川をわたる縦の運動に二人の思いの深さが表されている。海棠の花の家も美しい。

 小沼丹は、堀江敏幸とか現代の作家に通じる雰囲気をもった作家で、家に迷い込んだ図々しい猫と妻の死を重ねてゆるい日常世界を小津映画のようなリズムで描く『黒と白の猫』(講談社文芸文庫「懐中時計」)など、主人公を「大寺さん」と表現する小沼ワールドのぬくとさがここちいい。

 こんな世界にばかり浸っていてはいけないのだけれど。
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アキラとキヨシでズンドコ!

2008年01月25日 | 
 今年は黒沢明没後10年、2010年は生誕100年になる。「椿三十郎」がリメイクされたりするのも、そんな背景があるのだろうか。「プレイボーイ」も特集を組んでいる。ぼくは、「別に!」黒沢明のファンではない。同じ黒沢なら、黒沢清だろう。まるで、アキラとキヨシのズンドコ対決みたいだけれど。

 晩年の「影武者」や「乱」は退屈だったが、そうはいっても、『七人の侍』や『蜘蛛巣城』などは面白く観た。「トラ・トラ・トラ」を黒沢が撮るというのも中学のとき話題になったので記憶しているが、いつの間にか監督が変わっていたくらいの認識しかなかった。その降板劇のことが再び話題になったのは、「影武者」で勝新太郎とトラブルがあったときではなかったか。あのときも僕は当然ながら勝新びいきだった。

 「トラ・トラ・トラ」の監督をなぜ黒沢は解任されたのか。その真相をまとめた『黒沢明vsハリウッド「トラ・トラ・トラ!」その謎のすべて』(田草川弘著)は出色のドキュメンタリーだ。その面白さは伝え聞いていたものの、買ったまま書棚の飾りになっていたのを気が向いて読んでみたのだが、評判どおりの面白さだった。現場での黒沢の奇行の数々、はては癲癇もちであったとか、黒沢がアメリカ側監督のリチャード・フライシャーを格下に見ていたといったエピソードやら、撮影日誌による撮影現場のドラマはもちろん、スタジオ外の日米の駆け引きも含め、当時の日本映画界の現場の雰囲気がよく分かるドキュメントではないかと思う。なんといっても仁侠映画全盛の東映京都撮影所で撮影されたというのが面白い。撮影所内をやくざ姿の俳優たちが往来していることに、黒沢は嫌悪感をもっていたらしい。喧嘩別れした加藤泰もいたらしいし。

 アメリカに保管されていた資料を丹念に集め、さあ、皆さんはこの解任劇をどう思いますかと読者に提示する作者のストイックな姿勢には、本音をいったら、といいたくもなるのだが、それはそれで好感がもてる。おそらく、もっと日本側のプロデューサーがフォックス側との契約内容をしっかり伝えていたら、黒沢監督そのものがこの仕事を請けていなかったのではないかと思う。何も知らないバカ殿のご乱心ぶりをこれでもかと提示されると、このテーマはそれほどまでに黒沢にとって魅力的だったのだろうかと思ってしまうのだった。
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天草四郎は天正少年使節の怨霊なのか

2008年01月18日 | 
そうこうするうちに新年を迎え、仕事が始まって早2週間。遅ればせながら謹賀新年。先週は久々に風邪で熱を出し、ダウンした。週半ばで発熱。仕事の締め切りがあったので、悪寒を抑えながら2日間仕事。その後3日間寝込んだ。熱にうなされながら、子どもと別れる寂しい夢を見たり、寝ながら2段組500ページの「クアトロ・ラガッツィ 天正少年使節と世界帝国」(若桑みどり)をとうとう読破して、首を痛めたり、1週間お酒を口にしなかったこともあって3キロ体重が減った。ようやく正常に戻りつつあり、本格的な始動は来週かなー。すっかり遠赤外線効果のある股引が離せなくなってしまった。

そんなわけで新年になって読んだのは、なぜかキリシタンもの。以前読んだ定番「天正遣欧使節」(松田毅一)を読み直しているうち、暮れに若桑みどりさんが亡くなっていたことを知り、追悼の意をこめて買ったままになっていた「クアトロ・ラガッツィ 天正少年使節と世界帝国」に手を出した。とまらない。圧倒的におもしろい。たとえば、使節の随員の一人だったコンスタンチン・ドラードについて、松田氏は日本人で、ドラードという名前から金細工職人に関係あるのではとするのに対し、若桑さんは、日本人とポルトガル人の混血で髪が金髪だったので、金を意味するドラードと呼ばれたのではと推理する。「活版印刷人ドラードの生涯」(青山敦夫)は、ドラードを主人公にした小説仕立ての伝記だが、ここでも混血説がとられている。金髪の混血のほうが絶対におもしろい。そのほか、少年使節の一人で、帰国後キリシタン迫害の嵐が吹き荒れる中で、唯一棄教した千々石ミゲルの子どもが天草四郎という珍説を紹介したり、宣教師たちの記録を読み解きながら秀吉は6本指だったのではないかといったエピソードも披露するのだが、信長・秀吉の時代をポルトガル・スペインの世界制覇、イエズス会の世界戦略のなかでとらえながら、例えば本能寺の変を、天皇を超えようとする信長の存在、キリシタンをめぐる公家と信長の対立の中で起きた公家の陰謀とするところは圧巻である。

かの南蛮屏風ではないが、あらためてこの時代の都市の風景を想像して見ると、信長時代の日本、とりわけ九州、関西地区は、国際都市の様相を呈していたということだ。宣教師のほか、ポルトガルの商人や船員、奴隷などが跋扈していたことだろう。当然、混血も生まれただろう。ブラジルでは、そうした混血のことをムラートといったはずだが、この国ではなんと呼んでいたのか。歴史にもしはないけれど、もっとも世界に開かれていた16世紀の日本が、そのまま発展していたら、この国の姿は大きく変わっていたのではないか。

それにしても千々石ミゲルの子どもが天草四郎との説は魅力的だ。4人のなかで結婚し子どもを作れるのは棄教者であるミゲルしかいないのだから。ところで、これに関連して読んだ「信長と十字架」(立花京子)では、信長暗殺の黒幕はイエズス会でその糸を引いたのが細川藤孝との説を唱えているのだが、これははたしてどうだろうか。イエズス会に信長暗殺の理由があるとは思えないのだが。

この天正少年使節の話は、その結末を思うと神話的な悲劇といってもいいだろう。後の隠れキリシタン、天草四郎の乱から遡り、6本指の秀吉や、背徳的な宣教師などを絡めながら少年使節の物語を組みなおすと、結構面白いお話になるのではないかと思う。さらに映画にできたらなお面白いのだが、などと思いをめぐらす今日この頃なのであった。
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風狂の人一休を誰か映画化しないのかなー

2007年11月14日 | 
『一休伝』を読んだついでに、坂口尚『あっかんべぇ一休』全2巻も読み直す。一休の生涯という凡そのストーリーは、どちらもあまり変わらないが、『あっかんべぇ~』は、単にその生涯を編年体で追っていくのではなく、足利幕府の権力闘争と戦乱の時代にスポットをあて、その中で芸能者としての世阿弥の苦悩などを描きつつ、一休の風狂と対比させているところにオリジナリティがある。一休の思想を知るには、『狂雲集』が最適だと思うが、『あっかんべぇ~』は『狂雲集』などをモチーフに一休の眼がとらえた風景と時代、その内面に迫っていく。何よりも、漫画家坂口尚の画力、漫画的表現力に圧倒されてしまうのだった。コマわりの簡潔さ、フレームワークやアングルの的確さは、冗長なテレビドラマや映画を駆逐するがごときだ。

そんなわけで、いまは『狂雲集』(中公クラシックス・柳田聖山訳)を読んでいる。好きなページをめくっては、漢詩の書き下し文と翻訳からなる一休の言葉を味わうのだが、これが面白い。一読して思うのは、一休宗純はすぐれた時代の観察者であり、『狂雲集』は、その記録でもあるということだった。一休の風狂の思想は、次にやってくる千利休の茶の湯、あるいは織部のひょうげもの、さらには琳派の空間処理、芭蕉の俳諧を準備したともいえるのではないか。

とんち坊主の一休さんではなく、風狂の人一休宗純を誰か映画化しないものだろうか。坂口尚の絶筆『あっかんべぇ』というすばらしい手本があるのだから。
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