ちゅう年マンデーフライデー

ライク・ア・ローリングストーンなブログマガジン「マンフラ」

野良猫ロックはホンマのグラインドハウスもんや

2007年09月21日 | 映画
 1970年、1971年に5作製作された、日活ニューアクション「野良猫ロック」シリーズを、昨日からWOWWOWが放映している。千葉真一特集に続く、WOWWOWの快挙だ。

 昨日は、第1作「女番長・野良猫ロック」(長谷部安春監督・和田アキコ主演)、第2作「野良猫ロック・ワイルドジャンボ」(藤田敏八監督・梶芽衣子主演)の2本立て。4時まで観てしまったので、今日はやはり眠い。今夜は残りの3本立て、オールナイト気分で観るしかあるまい。まあ、これぞグラインドハウスものといってもいいだろうよ。それにしても、もう36、37年も前の映画なのだが、舞台となる街、ファッション、言葉、音楽などなど、当時の風俗や文化を記録した実に貴重な映画ではある。女性ファッションや音楽は、70年代リバイバルの今日では、かっこよく見えるが、男はいけません。長谷部、藤田両監督のスタイルの違いも際立っておもしろい。梶芽衣子さん、クールな美しさ、タランティーノが惚れるのも分かる。このシリーズのあと、東映へ移籍して、「さそり」「修羅雪姫」で大ブレイクするが、「ワイルドジャンボ」では貴重な水着姿が拝めるのだった。

「ワイルドジャンボ」は和田アキコの主演を想定してのタイトルなのだろうが、冒頭と歌うシーンに少し出てくるだけで、以来、和田はこのシリーズから姿を消し、梶芽衣子、氾文雀、藤竜也がシリーズの顔になる。おかげで、タイトルはなんだか意味の分からないものになった。でも、そんなのカンケーネーのが当時のプログラムピクチャーのいいところだ。

「女番長」は、高層ビルが建ちつつある新宿西口の空き地が舞台。随所に長谷部監督の実験的なカメラワークが見られるが、たとえば西口地下街を舞台にしたバギーとオートバイのカーチェイスは、のろのろとして全くスピード感がない。和田アキコのアクションも馬場さん的な感じで、ジャンボぶりだけが目立つ。ただ、「女番長」には、和田が一人女の寂しさを歌うシーンなど、往年の日活アクションおとくいの劇中歌シーンが残っているのがおもしろい。モップス、オックス、アンドレ・カンドレ(井上陽水)などが登場して歌を歌っている。長谷部監督の傑作は大和屋竺と組んだ第3作「セックス・ハンター」だろう。

「ワイルドジャンボ」の藤田監督の演出は、突然挿入されるアメコミのひとコマや噴出し、早回しなど、ポップな雰囲気で楽しませる一方、アクションはツボを押さえながらしっかり見せる。埋立地の野原に突然白馬で現れる乗馬姿のセレブ女氾文雀の奇想、学校の校庭から旧日本軍が埋めた南部式拳銃や機関銃が掘り出されるエピソード、尻を出しながらジープで海水浴場を走り回る無意味な行為、アナーキーなアウトローの青春を描く藤田監督の演出が冴えている。藤田監督は、このシリーズの後、傑作「八月の濡れた砂」を撮り、さらに、「八月はエロスの匂い」(72年)、桃井かおりがデビューする「赤い鳥逃げた?」(73年)、秋吉久美子の「妹」(74年)など、日活の青春映画路線の看板監督になっていくのだった。

 このシリーズは、DVD5作パックに加え、主題歌、劇中歌を集めたCDなども発売されていて、熱狂的なファンがいるらしい。僕は、封切では観ていないが、大学時代に文芸座でまとめて観た。日活は71年からロマンポルノ路線へ転換するわけだが、野良猫シリーズは、それまでの伝統的なアクション映画や60年代にブームとなった任侠映画の衰退期とロマンポルノをつなぐ、短い期間に徒花的に咲いた作品群だといえる。学生の叛乱を主体とした政治の季節からドラッグ&セックスのフラワームーブメントの季節へ、70年には三島由紀夫が割腹自殺し、ゼロックスのテレビCF「モーレツからビューティフルへ」が話題になった、そんな時代だった。
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沖縄の海と太陽に感謝

2007年09月20日 | アフター・アワーズ
 今年は回りに沖縄に行く人が多い。僕も8月の終わりに西表島へ行った。川口探検隊よろしくマングローブの林を探検したり、さんご礁の海をのぞいたり、仕事だったけれど実に楽しかった。このブログで紹介した石垣島の闘牛もその一環。のりへいHGも家族で7月に行って、先日沖縄土産交換会を沖縄食堂で執り行ったばかりだし、同席した島とうがらしカンチョー女も9月末に那覇に行くらしい。元土建屋編集者Hも明日から西表島に行く。娘夫婦が招待してくれるのだそうだ。

 西表島、大分開発されたとはいえ、まだ手付かずの自然がいっぱいだ。何もないことのありがたさがしみじみ伝わる島。もう開発はしなくていいと思う。島の人たちも望んではいない。珊瑚の白化が進んでいたのが心配だ。

 今回沖縄へ行って再認識したのは泡盛の種類の豊富さだった。石垣島では高嶺酒造所「於茂登」と「於茂登炎」を飲んだ。キリッとして旨かった。カットしたシークワーサーを入れると実に夏向きな飲み物になる。

 那覇の国際通りにある「古酒屋」は、泡盛マイスターがいて、どんな相談にも乗ってくれる、なかなかよい店だった。店の地下には限定品から5万円の高級品まで店内ところ狭しと展示してあり、頼めばどれでも試飲できる。この店限定の請福酒造5年古酒「石垣島白ラベル」(30度)は、2500本限定シリアルナンバー入りで、スッキリしてそれでいて深みのある味。昼前だったが、散々飲み比べてこれを自宅用と土産に買った。家で飲んでも旨かった。そんなわけで、土産用のうちの一本も飲んでしまった。

 西表島から石垣島に戻ると、石垣島がなんて大都会に思えることか。石垣の足はタクシー。初乗りはなんと390円だ。ちょっと観光しても3000円あると結構回れる。石垣島の飲み屋さんでは、客は日が変わる12時過ぎから本格的に飲むし、みんな歌がうまい。カラオケで歌う歌も島唱やビギンなどの曲なのだが、とにかくみんなうまいのにはまいった。石垣の市場で買った朝獲れたての「もずく」、ジュースがほとばしるみずみずしいシークワーサー、有名なペンギン食堂の石垣島ラー油(2個限定だった)、沖縄版ジャスミン茶の「さんぴん茶」など、素朴な食材が極上の土産になった。太陽と海に感謝なのだった。

 でも、具志堅のチョッチュネー手ぬぐいが品切れだったのが残念だった。
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ミッドタウンの喧騒とBIOMBO

2007年09月19日 | 絵画
 暑い夏の締めくくりが、大学時代の先輩が亡くなり、甲府までお通夜に行くことになろうとは。自分自身、もういつ何があってもおかしくない年齢だが、まだ死なないぞ、という思いを強くした次第。私は、まだ死にたくない。

 先週、六本木のサントリー美術館に「BIOMBO 屏風-日本の美」に行った。東京ミッドタウンは、どれだけショッピングしているのか分からないが、新名所見物のおばはんたちで大した賑わいだったが、美術館のほうは比較的落ち着いて観られた。

 屏風は、近世の画家、画工たちにとって自らの腕を振るう格好の空間であり、襖絵と並んで日本画の最高の技術が結集されている。できるなら、盗みたい。それくらい好きな表現形態なのだ。折りたためて持ち運べ、どこにでも広げられる。こんな美術品、欧米人が見逃すはずないよね。

 だいたいが、六曲一双の左右の画面に、春夏秋冬が描かれることが多いけれど、これだけ屏風が並ぶと、屏風絵の多様性に触れることができたのは収穫だった。とりわけ、室町時代に描かれた重要文化財「日月山水図屏風」(六曲一双)は、まるで俵屋宗達ではあるまいかと思うフォルムにすっかり魅せられた。重要文化財「レパント戦闘図・世界地図屏風」(六曲一双)、 同じく「泰西王侯騎馬図屏風」(四曲一双)などの西洋絵画との奇妙な融合は、安土桃山の時代の独特の国際性が表出されていて、琳派に代表される、閉ざされながら開花する江戸の洗練とは異なった美を堪能することができた。

 屏風の展示に絞って無駄がないのは好感がもてたが、残念なのは、屏風絵は展示スペースを必要とし、一度に数を展示できないので、展示替えが必要となり、予定されている全ての作品を観るには、3~4回足を運ばなくてはならないことだった。
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漫☆画太郎を読んで貸本マンガを思うこと

2007年09月10日 | 
 山田芳裕『へうげもの』第5巻(5服)、漫☆画太郎『世にも奇妙な漫☆画太郎1』、さいとう・たかを画『鬼平犯科帳』1、2巻を買って、シルヴァーナ・マンガーな休日。ついでに、唐突ながらペンネームを思いつき、雅島春日和(がとう・はるびより)とした。かのアルゼンチンの咆哮テナーマン、ガトー・バルビエリにちなんだ。

 マンガついでに、図書館で貸本マンガ史研究会編・著『貸本マンガRETURNS』(ポプラ社)を借りたので、自分の貸本屋体験を思い出しながら、ついでのついでに、大分前に買った文春文庫『幻の貸本マンガ大全集』を引っ張り出してきて読んだ。収録されているのは白土三平、さいとう・たかを、永島慎二、佐藤まさあき、楳図かずお、佐藤まさあき、滝田ゆう、平田弘史、小島剛夕など後の大看板から、無名作家の作品まで多彩。いずれも1960年前後の短編だが、改めて読んでみて驚いたのは、こま割や画面展開は、後の劇画に比べれば単調だが、プロットがしっかりしていることだった。現在のように作画と原作が分業化されていない時代、小説の模倣もあっただろうが、プロットに知恵を絞っていること、それをいかにマンガ(劇画)として表現するか、さまざまに挑戦していて、それぞれの作家の意気込みが感じられるのだ。ことに墨ベタの使い方など、画面構成にも映画の影響などが現れており、全体的にこの時代のマンガのレベルの高さがあって、いまのマンガがあると思うのだった。

 さて、貸本マンガ史研究会は、『季刊・貸本マンガ史研究』という研究誌も出していて、最新号には「追悼:佐藤まさあき」『追悼:永島慎二』などのタイトルが表紙を飾っていた。永島慎二が亡くなったのは新聞でも知ったし、映画化などがあって一時再評価もされたけれど、佐藤まさあきをしっかり追悼している雑誌などこの雑誌くらいではないか。そういう意味でとても貴重な活動ではないかと思うのだ。

 佐藤まさあきは、当時(昭和30年代後半)貸本マンガ界ではすでに大御所だったはず。『影』とか『街』などだったと思うが、そうしたか資本マンガ雑誌の看板を張っていたのではなかったか。体のバランスが悪く、決して絵がうまいとはいえない画風なので、僕は好きではなかったのだが、その強烈な暗い作風は一度見ると忘れられなかった。新東宝映画の天知茂的な暗さなのだ。

 僕の漫画体験として貸本屋の存在は大きなウエイトを占めている。『少年画報』『少年』『冒険王』などの月刊誌から『少年マガジン』『少年サンデー』『少年キング』などの漫画週刊誌へ移行する時代、ちょうど小学生のときだが、少年誌だけでは読めない多様な漫画を体験できたのは貸本屋のおかげだった。貸本マンガはかなり悪書としてバッシングされたようだが、マンガに寛大だった両親のおかげで、さすがにエロマンガは小学生に貸してくれなかったが、ずいぶんいろいろな作品を読んだ。

 僕が好きだったのは、さいとう・たかを「台風五郎シリーズ」、滝田ゆう「カックンおやじ」だ。台風五郎は、よくノートに模写したが、2シーターのスポーツカーを乗り回す日活アクション風の明るいキャラクターと絵のうまさに魅かれた。「カックン」は、笑いに由利徹的なちょっとお下劣なところがあって大好きだった。そのほか強烈だったのは平田弘史の残酷武士道マンガか。戦記マンガもたくさんあって、特攻隊マンガの残酷シーン(敵の攻撃でゼロ戦が炎上し、主人公の顔が燃えながら、肉が落ち、骸骨になりながら敵艦に突っ込む。その変化が現在のホラー映画のCG画像のように克明に変わっていくシーンがあった)が夢に出てきたことがあって、戦争には行きたくないという意志が芽生えたきっかけになった。

 僕がよく通っていたのは『だるま書房』という間口一間半、四畳半ほどの小さな本やで、人一人が通れるくらいの通路というか隙間以外は、壁面と真ん中の書架と平台にびっしり本が並んでいた。小学2年、自転車が乗れるようになったばかりだったので、家から自転車で5、6分の『だるま書房』へ毎日のように通った。たぶん3冊くらいしか借りられなかったはずだ。さらに理髪店にいくと、必ず旬を過ぎた『影』など、貸本屋でお払い箱になった貸本マンガが再利用されて散髪を待つ男性客に読まれていたものだ。人間の暗い面ばかり描いた貸本マンガのどこにそんなに魅了されたのか分からないが、素顔を見せられない月光仮面、親がいない赤胴鈴之助、人間になれない鉄腕アトム、あの頃のヒーローはみんな悲しさを背負っていたのだった。
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