ちゅう年マンデーフライデー

ライク・ア・ローリングストーンなブログマガジン「マンフラ」

「ロンググッドバイ」あるいはギムレットで泥酔した渋谷の夜

2010年09月22日 | 
 村上春樹訳・レイモンド・チャンドラー「ロンググッドバイ」を読む。このチャンドラーの名作は、長いこと清水俊二訳「長いお別れ」が定番だったが、清水版は細かいところはすっとばして訳されていたらしく、村上版は、完全翻訳版ということになるそうだ。確かに活字は大きくなったとはいえ、ボリュームも大分アップしている。

 たぶん20代の後半に清水版を読んで、ペリカンブックの原書も購入し、折をみてチャンドラーで英語の勉強でもしようかと思っていたが、どちらも本棚にしまわれたままになっており、僕の英語も上達しなかった。そんなわけで、様々なシーンは断片的にしか覚えていなくて、マーロウとアイリーン・ウェイドがベッドをともにしそうになったことや、殺されたシルヴィアの姉リンダ・ローリングとマーロウが終盤で寝てしまうことなど、まったく記憶になかった。「ロンググッドバイ」のマーロウは42歳。アイリーンやリンダは30歳前半。男も女も充実したSEXが楽しめる年代だ。マーロウは聖人のように禁欲的ではないのだった。

 清水版を読んで、まっさきに実行したのは渋谷のバーに行ってギムレットを飲んだことだ。当時は日活映画に出てくるようなたたずまいの店「門」で、ひたすらギムレットを頼み、泥酔してしまったことが記憶にある。それでも、この小説は、ずっと心の中に切なさを残していて、中身は相当忘れているのに図々しいが、最も好きな小説のひとつだった。村上版は、訳者がハードボイルドといわず準古典小説と述べるように、戦後アメリカの都市文学の一つとして提示してみせたといえる。翻訳小説は、かつては往々にして訳者が大学教授であったりすると、風俗関係にくわしくなくて頓珍漢な翻訳をすることがあるが、そうした面では村上版は、信頼できるだろう。まあ、チャンドラーに関しても、「ロンググッドバイ」に関しても、熱狂的なファンがいるので、いいかげんなことは言わずにおこう。だが、今回読んで、テリー・レノックスの戦争体験が物語の根底にあるように、この小説が戦争と無関係ではなかったという意味で「ロンググッドバイ」は戦後文学なのだと思った。それにしても、僕が生まれた1953年とは、「ロンググッドバイ」が書かれ、小津の「東京物語」が発表された年だった。
 
 さて、「ロンググッドバイ」といえば、ロバート・アルトマンの傑作映画がある。これは、原作プロットをつまみ食いした、原作とは別物の快作なのだが、小説発表から20年後の1973年の作品であり、これまたベトナム戦争末期のアメリカの退廃の影を感じさせる出来栄えになっている。個人的には、僕の同時代的アメリカ映画のベスト10に入る映画ではある。

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ビールと読書好きだった原節子の引退の理由はやっぱり分からない

2010年08月18日 | 
 貴田庄・著「原節子 あるがままに生きて」(朝日文庫)を読む。原節子は、本名会田昌江、1920年(大正9年)生まれ、今年90歳ということになる。その消息は不明だが、死亡したとの記事も見られないから、まだ、元気だと思いたい。亡くなった僕の父は大正8年生まれなので、一つ違い。だから、生きる世界は違ってもほぼ同じような時代を生きてきた人としてその歩みは何となくイメージしやすい。この本は、42歳で銀幕を去り引退した伝説の女優の人生を、関わった人たちの証言や本人の言葉を紡いで再構成しようという試み。何しろ引退して半世紀近く、一切人を避けて暮らしているのだから、最近の証言を集めるわけにもいかないのだろう。週刊誌の「あの人はいま」的な盆暮の企画にときどき噂が散見されるが、その後の消息がさっぱり分からないのが伝説の女優たる所以といえば所以だが。

 さて、この伝説の女優の引退作品が「忠臣蔵」(1962年・稲垣浩監督)の大石の妻役というのはいささか寂しいものがある。とりわけ1950年代(1949年の「晩春」から始まるが)の、すなわち30代の原節子は、小津映画のヒロインとして出色だっただけに、もっといろいろな役を見たかった。個人的には「東京暮色」の暗さと、喪服姿が好きだけれど、今回この本を読むと、「晩春」「麦秋」「東京物語」の紀子3部作の紀子役が本人に最も近いのではないかと想像してみたのだった。映画は見ていても女優本人の人となりについては、あまり知らなかった。実際、その日本人離れした顔立ちから北欧系の血が入ったハーフだか、クウォーターらしいと言った母の言葉をずっと信じていたくらいなので、そういう事実はないということも含め、ビールと読書が好きだという原節子の入門として面白く読めたのだった。
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誤読も楽し。三島由紀夫「午後の曳航」は反米愛国小説?。

2010年08月17日 | 
 三島由紀夫「午後の曳航」を読む。中学生の子供をもつ未亡人が、偶然知り合った2等航海士の船員と恋に陥りやがて再婚する、という物語はよくあるラブストーリーだ。だが、その関係が中学生の一人息子が目をこらすのぞき穴の向こうの寝室で繰り広げられ、その少年の瞳に映じた物語として語られるとき、にわかにそれはスキャンダラスで背徳的な匂いを漂わせる。

 三島由紀夫の小説は、しばしば未亡人とマドロスの恋といったきわめて通俗的な物語の枠組みを借りながら、聖と俗、生と死について語る。「午後の曳航」では、予め堕落することを決定づけられた、大人になりたくない少年たちの生に対する復讐の営みと、母と船乗りの、とりわけ船乗りの堕落という大人の世界が対比的に描かれ、母親の再婚と船乗りの処刑という終末に向かって物語は加速していく。「午後の曳航」は、未亡人と船乗りの恋という通俗性と、13歳にして人生に絶望した少年たちの虚無と狂気を描く哲学が融合した実に完璧な物語だと思う。しかし、それは少年たちの性を隠ぺいすることで、歌謡ドラマの意匠の上に形而上学的な物語を構築することに成功したのだ。この物語は、少年たちの性を巧妙に回避することで、成り立っているのではないか。

 竜二と情交した翌朝店に出た母房子の官能と動揺を、倒れるパラソルできわめて映像的に描いてみせているのに、例えば少年登が、初めてのぞき穴から母の裸体を見たときの性的な興奮の証しは語られない。房子と船乗り竜二との情交についても、窓際に裸で佇む竜二の裸体が天に向かって屹立する一物をもったシルエットとして描かれることはあっても、それを覗き見る登の変化や性的興奮は素通りされる。母親と船乗りとの肉の交わりの音や喘ぎや咆哮を少年はどう感じたのだろうか。あるいは、登たち少年グループが猫を殺して、その腹を裂き、小さな心臓を引きずり出して手で握りつぶすときの官能や性的興奮。果たしてこの13歳の少年たちは、勃起したり射精することはなかったのだろうか。

 こうした殺生が性的な代替え行為であることは、酒鬼薔薇事件などの少年犯罪や連続少女殺しなどの犯罪でも語られている。「午後の曳航」の少年たちの処刑という行為が、その後起きる数多の少年による猟奇的犯罪や連続殺人などを予見していると述べるのは早計だろう。なぜなら、登たちの少年グループの行為は、性的な衝動とは無関係な形而上的な行為であって、大人になることを拒否するための、あるいは、大人になることを拒絶できない自らへの生に対する絶望と復讐という極めて観念的な営みとして描かれているからだ。

 だから、少年たちにとって本来、肉体の中身は空虚であるべきなのだが、処刑した猫の腹からは赤い臓物が飛び出す。そのことを少年たちがどうとらえたかが描かれていない。登が所属する優等生のグループは、堕落した海の男である竜二を処刑するためおびき出し、睡眠薬入りの紅茶を飲ませて、それぞれが持ち寄った刃物で、猫のように切り刻んで処刑することを暗示して物語は終わる。だが、猫がそうであったように、竜二の肉体も、腹を裂けば臓物が飛び出す生き物であり、決して肉の皮だけに包まれた空虚な伽藍堂ではないということを、どう理解するのだろうか。人間はただの糞袋だとでもいうのだろうか。

 それにしても、なぜ少年は13歳だったのか。小説では刑事罰を免れるからと暗示されるが、むしろ8月に読むと、マッカーサーが日本人は12歳並みだといった言葉を思い出す。外国航路の2等航海士竜二は進駐軍。輸入洋品店の母は外国人に国を売った日本人。堕落を憎む少年たちは、さながら12歳と揶揄された聖なるものを貴ぶ日本人と読めないか。すなわち、これは、反米愛国小説であると。誤読もまた楽しい。





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『マルガリータ』を読み、やはり天草四郎は千々石ミゲルの子と思いたい。

2010年08月09日 | 
 以前、若桑みどりさんの「クアトロ・ラガッツィ」を読んだとき、天正少年使節のうち唯一棄教した千々石ミゲルについて、天草の乱があったとき、天草四郎はミゲルの隠し子ではないかという噂が、天草や周辺のキリシタンが多くいた地域でまことしやかにささやかれたというエピソードが紹介されていて、もしそれが本当だったらおもしろいのにと思っていた。まるで、山田風太郎の世界ではないかと。

 新人の村木嵐・著『マルガリータ』は、そんな伝承を巧みに入れながら、千々石ミゲルの帰国後の人生を描いた小説だ。棄教したミゲルに関しては、他の3人の消息がイエズス会の記録に残っているのに対し、清左衛門となって結婚し、2人の子供をもうけ、大村や有馬に仕官していたというくらいしか分かっていない。ミゲルはなぜ棄教したのか。これは最大の謎だ。「クアトロ・ラガッツイ」でも、よく分からないとされている。この謎に挑みながら、「マルガリータ」は見事な愛の物語を紡ぎ、幼くしてローマを見た、キリシタン少年4人の心の絆の深さを描いている。

 問題は、ミゲルの棄教が、神への絶望や憎しみによるものだったのか。別の理由があるとすればそれは何が推測されるかということだ。

『マルガリータ』では、帰国後4人が秀吉と謁見したことでその後の運命が決まる。一般的には、秀吉との謁見で4人は、リュート、チェンバロなどの楽器を演奏して聞かせ、秀吉から仕官の勧めを受けるが断ったとされている。小説では、そこで何があったかは次第に明かにされるのだが、果たして天下人の勧誘をことわれたのかということは素朴な疑問として残ろう。この小説では次のような仮説を展開する。少年使節4人の目的は日本人の司祭になるということだ。出発前と違い、秀吉による禁教令と迫害の中で、いかにすればその目的を達成できるか。全員仕官の誘いを断れば、相手は天下人だ、何をするか分からない。ならば、ミゲル一人が棄教することで、他の3人が司祭になる道を残そうとしたというわけだ。一方の秀吉は、棄教者ミゲルほど反キリシタンの最良の広告塔はないと思ったはずだ。これはあり得る。だが、ミゲルは本当に信仰も棄てたのか。なぜミゲルだったかは、『マルガリータ』を読まれよ。

 天草の乱は1637年、中浦ジュリアンが長崎で逆さ吊りの刑にあって死んだのが1633年。ミゲルの死は不明だが、ジュリアンと同じ頃という説があり、この小説もそれを踏まえている。ミゲルは棄教者としてキリシタンからは悪魔扱いされたという。さながらルシファーのごとくである。天草四郎=ミゲルの隠し子説は、島原一体のキリシタンたちの3大天使を見るがごとき天正少年使節の少年たちへの強い憧れと表裏ではないだろうか。少年天草四郎のなかに、ローマを見た少年たちの伝説が蘇り、4人の少年のなかで唯一子供をもうけることができたミゲルへの屈折した期待(それは棄教者として迫害した己の所業への懺悔の念も含めて)が立ち上っても不思議ではないだろう。

 マカオへ追放になり、彼の地で司祭として生涯を終えた原マルチノの望郷、キリシタン拷問の中でも最も残酷といわれる逆さ吊りの刑で死んだ中浦ジュリアンの殉教、司祭として布教の途上で倒れた使節の正使・伊東マンショの無念、いずれも悲劇だが、千々石ミゲルの棄教ほど、想像力をかきたてられるものはない。「マルガリータ」を知った時、あっ、やられたと思った。すばらしい仮説が美しい物語として紡がれた。冒頭、清左衛門の妻珠の独白によってミゲルの子=天草四朗説は、年齢を理由に否定されるが、それでもミゲルの隠し子こそ天草四朗であると思いたい。
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映画にはない将軍たちの戦後が描かれているH.H.キルスト「将軍たちの夜」

2010年08月09日 | 
 ハンス・ヘルムート・キルスト著『将軍たちの夜』(角川文庫)を読む。この原作がなぜ今新訳なのか不明だが、そしてもちろん、これを原作としたアナトール・リトヴァク監督、ピーター・オトゥール主演の「将軍たちの夜」がよく知られており、原作を読めば読むほどタンツ将軍役はピーター・オトゥール以外にないと思ってしまうのだが、こちらも、つい「新訳」の惹句に釣られて読んでしまった。

 映画と小説との違い、小説では戦後の物語があるということが大きな違い。小説自体が戦後になって当時の事件を回想するという構成で、裁判記録だとか、当事者の回想録の抜粋やコメント、日記などがたびたび引用されるのだが、果たしてこういう手の込んだ手法が煩わしい。そうした意味で、映画は原作の無駄な部分を排除して実にうまくまとめている。さらにいえば、ここに登場するタンツを除く将軍たちがヒトラー暗殺計画、件の「ワルキューレ」にかかわっているというサブストーリーも邪魔といえば邪魔で、映画くらいあっさり扱った方がよかった。

 では、原作の面白さはどこにあるのか。あたかも、映画にはない、戦後のお話が本当はあったのですよということを喧伝するために、この新訳を出したのではないかと思われる終章の部分だ。将軍たちは、皆戦後も生き延びていたのだ。タンツに至っては東ドイツで軍事顧問をし、権勢をふるっている。この小説はここがポイントだ。うまく立ち回ったものは戦犯にもならず戦後も生きていたという点だ。そして、東ドイツの都市ドレスデンで、ワルシャワやパリと同じような娼婦殺人事件が起きる。ここからいかに犯人を追いつめるかが面白さだが、ひとまず、面白さは映画に軍配をあげよう。
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W杯パラグアイ戦の前にのんきにジャズ本の話など書いている場合か!

2010年06月29日 | 
 ここんところジャズに関する本をよく読んでいた。油井正一『ジャズの歴史物語』、中山康樹の『マイルスVSコルトレーン』『マイルスの夏、1969』などのマイルスシリーズと『リヴァーサイドジャズの名盤50』。菊地成孔・大谷能生「憂鬱と官能を教えた学校」、「アフロ・ディズニー」、相倉久人『新書で入門 ジャズの歴史』、長門竜也『シャープス&フラッツ物語』など。これらに加えて最近読んだのが中川ヨウ『ジャズに生きた女たち』だ。

 中川さんの本では、リル・ハーディン・アームストロング、ベッシー・スミス、メアリー・ルー・ウィリアムス、ビリー・ホリディ、エラ・フィッツジェラルド、パノニカ・ド・ケーニグスウォーター(ニカ夫人)、アリス・コルトレーン、穐吉敏子の8人のジャズ・ウーマンが取り上げられ、それぞれの個人史を通じてジャズ史を概観できる。ニカ夫人を除いては、いずれも女性ジャズプレイヤーの先駆けとなった人たちだが、女性であるという性的差別とアフリカン・アメリカンや日本人であるといった人種的差別の2重苦のなかでジャズの歴史を切り開いたというのがコアになっている。興味深かったのはアリス・コルトレーンで、トレーンの死後、その遺志を継いでスピリチュアルなジャズを追求するが、コルトレーンの七光りに寄りかかるだけのミュージシャンといった評価のされ方に人知れず悩んでいたということだ。かつて僕もコルトレーンの名を語る厚顔な女(顔の印象かな)と思ったこともあるが、アリス自身がコルトレーンの名前の呪縛からなかなか開放されなかったと知って、この本でも推薦している最後のアルバムとなった「トランスリニア・ライト」を聴いてみたくなった。こういう連鎖によってまた、ジャズの世界が広がっていくのが楽しい。

 さて、個人史からジャズ史を見る点で、中山康樹のマイルスシリーズは、ジャズの革新者・マイルスのアルバムづくりを細かく検証しながら、ジャズの歴史的な転換期の現場を記述したドキュメントだ。『シャープス&フラッツ物語』は日本の歌謡・ポップス・ジャズの歴史を作ってきた原信夫の人物伝だからおもしろいし日本の大衆音楽の歩みがよくわかる。『憂鬱と官能を~』は単行本の文庫化で、上下2巻。単行本刊行時の誤りを豊富な註で訂正したり、新たな論文を加えて補足するなど、これから読む人はこの文庫本を読むべし。とくにバークリー理論の基礎を築いたといわれるヨゼフ・シリンガーについては、より正確な記述がなされているし、その物語は実におもしろい。油井大先生の集大成ともいえる『ジャズの歴史物語』は、ジャズ史を知る必読書で、2,940円という価格が高いと思う場合は相倉の『新書で入門』を読もう。これに、いずれも文庫になっている菊地・大谷の『東京大学のアルバート・アイラー』『憂鬱と官能』を加えると、社会・文化史的側面と音楽史、音楽理論的側面から立体的にジャズの歴史にアプローチできるのだった。

 ところで今夜はW杯パラグアイ戦だというのに、ジャズ本の話でもないか
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「花と龍」、そしてなぜか若松のエル・エヴァンスという店

2010年06月16日 | 
 火野葦平「花と龍」(岩波文庫・上下巻)を読む。石炭の荷役に従事するゴンゾといわれる仲仕から一家を築いた玉井金五郎と妻マンの一代記。若松地区を牛耳る吉田磯吉一派との因縁の対決、暗闘を軸に金五郎とマンとの夫婦愛、一家の絆、壷振りお京との秘められた恋など、多彩なサブストーリをからめての展開は、一気読みのおもしろさだ。火野が両親を描いた実録小説で、登場人物のほとんどが実名というから、いまなら果たして可能であったかどうか。

 映画化、テレビドラマ化は幾度となくされており、加藤泰監督が渡哲也主演で撮ったものがよく知られているかもしれないが、僕は最近マキノ雅弘監督「日本侠客伝・花と龍」のDVDが期間限定の廉価版で出たのでこれで観た。玉井金五郎・高倉健、マン・星由里子、お京・藤純子、吉田磯吉・若山富三郎、悪役は伊崎仙吉(小説の友田喜造と思われる)・天津敏という布陣。つまり、題名どおり配役どおりのマキノ節の任侠映画で、よくまあ、原作をここまで換骨奪胎したものだと感心してしまうし、「花と龍」をよく使わせてくれたものだと思う。DVDを先に観たので、小説を読みながら主人公のイメージは完全に高倉健、お京は藤純子だったが、この二役は、この二人以外にないだろう。

 では、今この映画をつくるとしたらキャストはどうなるだろうと考えると、玉井金五郎役ができる20代若手の男っぽい役者がいない。顎がはった役者がいないのだ。女性陣は、マンを真木よう子、お京・北川景子あたりでいけそうだけれど、20代の男がいないなあ。

 火野葦平といえば、軍部おかかえの記者として従軍し「麦と兵隊」などの軍隊小説を書いたが、中国戦線に一兵卒として召集され、その従軍記を封印してしまった小津安二郎は、日記の中で火野の小説について本当の戦争はこんなものではないと珍しく批判している。そこに小津の決して表に出さない故に陰惨な戦争体験があるのだと想像しないわけにはいかないが、二人の戦争と戦後はあまりに対照的だ。

 DVDが先になってしまったが、そもそも「花と龍」を読もうと思ったのは、2月に若松に行ったからだった。めひかり神社から仰ぎ見る関門橋の風景に感激し、門司港のレトロ街の散策のあと若松に立ち寄った。若戸大橋の赤い鉄柱の風景は、青山真治の「サッドヴァケイション」などでおなじみだったが、風の強い日だったので、「花と龍」のイメージとも相まって何か西部劇に登場する街を思わせた。そして、知る人ぞ知るジャズ喫茶・レストラン「エル・エヴァンス」を訪れた。ビル・エヴァンス本人に名前の使用許可をとったという「エル・エヴァンス」、なぜ、ビルではなくエルなのかは聞きそびれてしまった。アヴァンギャルドのスピーカーが心地よくピアノトリオを奏でていたっけ。
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青くたっていいじゃないか。ひさびさのシミタツ節「青に候」

2009年10月16日 | 
 「青に候」(志水辰夫・著/新潮文庫)、志水辰夫初の時代小説が文庫になったので、早速読んだ。時代小説ならもしやあの「裂けて海峡」「背いて故郷」の頃の興奮が蘇る、ハードボイルドな時代小説が読めるのではないかと。一読、志水ファンなら誰もが帰ってきた「シミタツ節」と賛辞を送りたくなる。そんな小説だ。そして、おそらく時代小説の先達としての藤沢周平、とりわけ「蝉しぐれ」を意識したのではないかと思った。あえてシミタツ版「蝉しぐれ」といってしまいたい。

 お家騒動、藩主の側室となった密かに恋心を抱いた幼馴染との脱出劇、藩の中堅として主人公を助ける無二の親友、一目置かれる剣の腕前など、物語のポイントとなるモチーフはよく似ている。だが、武家のしがらみやお家の事情の中で正義を貫きながら格闘する武士の物語にしてしまわないところがミソ。まず、現代小説の視点で「蝉しぐれ」を解体し、それを幕末に置き換えて再生させた、志水辰夫のハードボイルドなのだ。スタンダードをモーダルに解体して新しいクールな叙情を表現したマイルス・デイヴィスに近いといえばいいか。主人公、神山佐平の青さは、どこか自分の居場所はここではないと自分探しをしている若者を思わせるが、組織の事情に従わねばならぬ心情を理解しながらも、孤立を覚悟でそれに背を向ける清さ、潔さがある。しかも、それが最後に一人の女性によって救われるのが、この小説の心地よさだ。そこで一句。(花の時期はすぎたけれど、本を読んだのが9月なので)

 蒼茫の海屹立す曼珠沙華
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『グラーグ57』を読み世界の中心で「反帝反スタ」を叫ぶ

2009年09月17日 | 
 トム・ロブ・スミス著『グラーグ57』(新潮文庫・上下2巻)が面白い。一気読みの快作だ。

 前作『チャイルド44』の続編で、1953年のスターリン死後のソ連、フルシチョフのスターリン批判を背景に、スターリン時代に秘密警察に弾圧された人々の復讐が始まるところからスタートする。モスクワから酷寒の強制収容所へ、そして1956年のハンガリー動乱に揺れるブダペストへと舞台は移る。この時代と舞台設定で物語が面白くならないわけがないのだが、主人公のレオは、『チャイルド44』以上に、またしてもこれでもかという過酷な体験に遭遇していく。その困難を一つひとつ克服していくサスペンスもさることながら、その伏線にしっかりと家族とは何かというテーマを置いて、読むものを物語に引き込んでいく。秘密警察時代のレオによって司祭の夫を収容所送りにされた妻が、犯罪者集団を統括するフラエラというモンスターに変身してしまう過程が今ひとつ分からないのだが、スターリン批判とその反動という政治的力学の振幅の強さは、この小説にダイナミックなおもしろさをもたらしている。『44』と『57』を読んでつくづく思うのは、実に月並みだがこんな時代のソ連に生まれなくてよかったということだろうか。でも、地球上には、似たような国が現存していることも確かだ。そしてスターリンの亡霊は、半世紀を超えてもまだ世界の、そして僕たちの意識の底を跳梁跋扈しているのだ。叫べ反帝反スタ!
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ポーリン・ケイルの歯切れのいい映画批評が質のいい古本で1500円に満足

2009年09月09日 | 
 「チェーザレ7巻」を読んだせいか、タイトルが気になって買ってしまったのが「メディチ家の暗号」(マイケル・ホワイト著)。ハヤカワ文庫400ページ余りのミステリー。読んでいないが、たぶん「ダ・ヴィンチ・コード」などと同じプロットを用いているのではないかと推測される。

 メディチ家礼拝堂のコジモ・ディ・メディチと思われるミイラから発見された金属板に書かれた暗号を発端に、マケドニアの修道院に封印されたメディチ家の秘密をめぐって古病理学者やら歴史学者らと「死の商人」と思しき組織が奮闘するミステリー活劇。舞台はフィレンツェ、ヴェネツィア、マケドニアをめぐり、コジモをはじめ秘密の鍵を握る人物としてジョルダーノ・ブルーノやらアントニオ・ヴィヴァルディなども登場するが、にぎやかしの域を出ない。謎の暗号が隠されたヴェネツィアは観光名所をちりばめ読者の興味を喚起させるが、いずれにしろ全体にかなり雑なつくり。読み始めたので読み終えたが、40%くらいは読み飛ばしてもよい小説だ。おまけに、暗号を解いて探し当てた「秘密」が、現存しない架空の物質というのは興ざめだ。映画化もされるらしいが出来映えは想像がつく。原作には登場しないが悪女を出せば、少しはおもしろくなるかも。

 アマゾンでポーリン・ケイル著「明かりが消えて映画が始まる」を購入。定価は2900円(税別)だったが、質のいい古本で1500円。これはあたりだ。注文して4日目に届いた。ケイルは「ニューヨーカー」の辛口映画批評家で2001年に亡くなった人。この評論集でとりあげられている映画は、「ディア・ハンター」など70年代末の映画が中心でほとんど当時見ている作品ばかり。とても得した気分になる、読むのが楽しみな1冊なのだった。読みたいと思う本でも3000円近くすると購入は躊躇する。そんなとき質がよく安い古本があればありがたい。

 古本といえば、10年くらい前の「芸術新潮」を古書店のワゴンセールで購入。1冊420円。贋作特集と大正日本画特集の2冊。この頃の「芸術新潮」の特集は実に面白いテーマばかりで、しかも雑誌の状態もきれいなので、よい買い物をしたと満足したのだった。
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