仕事で東京都美術館に「プラド美術館展」を観にいく。平日の午後3時、それでもかなり混雑していた。17、18世紀の西洋絵画にこれほど多くの老人たちが興味を持っていたかどうかは定かでないが、新宿コマ劇場と似た風景だった。1時間ほどで素通りしただけだったが、展示点数もそう多くないわりに総花的で、最後に申し訳程度にゴヤが3、4枚。ポスターになっていたティツィアーノ、ルーベンスなど見るべきものもないではないが、「プラド美術館展」というには寂しい内容だった。
竹橋の国立近代美術館は、金土曜なら夜の8時まで開館している。上階の常設展示場には窓側に休憩室が設けられていてお堀が見渡せるのでなかなかよろしい。
土曜の夜に「藤田嗣治展」を観にいった。こちらは意外に空いていたので観やすかった。国内に所蔵されている作品が中心で100点くらいだったろうか。カンバスに石膏を溶いて塗った乳白色の下地に淡い陰影と面相筆の細い輪郭で描かれた人物画、とりわけ数々の裸婦像は美しい。日本画的手法との融合がよく言われるが、キュビズムなど20世紀初頭の先進的な芸術運動を消化しながら、日本人であることをみつめた結果であり、通俗的な言い方になるけれど日本人にはない白磁のような西洋女の白い肌に魅せられて、これをどうしたら表現できるかと考えての技法なのだと思う。
金箔や日本画的なスーパーフラットな背景が乳白色の肉感的な白い肌を際立たせている。渡仏後初期の暗くとんがって険しい表情をした女性像に比べ、20年代になってからの乳白色の技法による裸婦像は官能的で、当時のヨーロッパ人たちに絶賛されたというのもよく分かる。誰も女の肌をこんなふうには描いたことがなかったからだ。
戦争画の大作は絵画としての迫力に圧倒される。よくこれらの絵画を当時の軍部が認めたなと思った。戦争賛歌でも大日本帝国賛美でも鬼畜米英のプロパガンダでもなく、ただそこには人間同士の殺し合い、虐殺としての戦争がむしろ地獄絵のように描かれているだけなのだった。ドラクロワの「民衆を率いる自由の女神」の構図を髣髴させるサイパン島の玉砕を描いた作品も当時の軍国日本はこれをもって一体何をプロパガンダしたかったのだろうか。これを観たら誰もが戦争には行きたくないと思うはずだ。
晩年の子供をモチーフにした絵や生活具のデザインなどは、居場所を見つけた安堵感のようなものがありながらどこか孤独の影がつきまとっているのだった。
竹橋の国立近代美術館は、金土曜なら夜の8時まで開館している。上階の常設展示場には窓側に休憩室が設けられていてお堀が見渡せるのでなかなかよろしい。
土曜の夜に「藤田嗣治展」を観にいった。こちらは意外に空いていたので観やすかった。国内に所蔵されている作品が中心で100点くらいだったろうか。カンバスに石膏を溶いて塗った乳白色の下地に淡い陰影と面相筆の細い輪郭で描かれた人物画、とりわけ数々の裸婦像は美しい。日本画的手法との融合がよく言われるが、キュビズムなど20世紀初頭の先進的な芸術運動を消化しながら、日本人であることをみつめた結果であり、通俗的な言い方になるけれど日本人にはない白磁のような西洋女の白い肌に魅せられて、これをどうしたら表現できるかと考えての技法なのだと思う。
金箔や日本画的なスーパーフラットな背景が乳白色の肉感的な白い肌を際立たせている。渡仏後初期の暗くとんがって険しい表情をした女性像に比べ、20年代になってからの乳白色の技法による裸婦像は官能的で、当時のヨーロッパ人たちに絶賛されたというのもよく分かる。誰も女の肌をこんなふうには描いたことがなかったからだ。
戦争画の大作は絵画としての迫力に圧倒される。よくこれらの絵画を当時の軍部が認めたなと思った。戦争賛歌でも大日本帝国賛美でも鬼畜米英のプロパガンダでもなく、ただそこには人間同士の殺し合い、虐殺としての戦争がむしろ地獄絵のように描かれているだけなのだった。ドラクロワの「民衆を率いる自由の女神」の構図を髣髴させるサイパン島の玉砕を描いた作品も当時の軍国日本はこれをもって一体何をプロパガンダしたかったのだろうか。これを観たら誰もが戦争には行きたくないと思うはずだ。
晩年の子供をモチーフにした絵や生活具のデザインなどは、居場所を見つけた安堵感のようなものがありながらどこか孤独の影がつきまとっているのだった。