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ちゅう年マンデーフライデー

予め観ることの不自由さを強いられる映画「関心領域」


ナチスのアウシュビッツ強制収容所に塀一枚隔てた隣接地に、百花咲き乱れる庭園をもつ邸宅。収容所長のルドルフ・ヘスの一家が住むいわば豪華な官舎だ。カメラは庭全体或いは邸宅全体が見渡せる視線よりやや高い位置に固定され、ヘス一家の日常生活を平坦に映し出す。塀のすぐそこに収容所施設の屋根が見え、さらに奥には焼却炉の煙突が見え灰色の煙を上げ、時には赤々とした炎を伴った煙が立ち昇る。さらに、部屋の中にいても昼夜問わず銃声や人間の悲鳴が聞こえ、ボイラーを炊く低いうなりのような音が通奏低音のように聞こえてくる。



「アウシュビッツ収容所の隣で幸せに暮らす家族がいた」
ジョナサン・グレーザー監督「関心領域」のプロモーションの惹句である。興味深い設定だけれど、これでは観る前にネタバレしていることになる。この映画は、予め流通する情報によって私たちに強制収容所隣で暮らす家族の物語として観ることを強いる。映像には映らない(映さない)が観客は強制収容所内で行われている行為を知っている、ということが前提だ。だから、草花に溢れた平和な庭に違和感を覚え、あんな残酷なことが行われている隣でよく平気で暮らせているなと思うはずだ。

映画を観ることの不自由さは、例えば画面の細部やショットのすべてを観客は観ることができないというだけでも不自由だが、この映画ではスクリーンに映る物が、それはアウシュビッツ強制収容所の屋根や煙突ですと予め知らされてしまうことの不自由さを味わうことになる。

私たち観客は、庭や家の全景をとらえる固定カメラのこちら側にいることで否応なく傍観者の位置に置かれることになる。しかし、徹底して傍観者の位置にいることができるかというと、そうではない。ヘス所長は効率よく囚人を焼却する新しい焼却炉を構想し、やがてハンガリーのユダヤ人70万人を収容する計画へつながる場面に立ち会い、ヘスの妻は収容されたユダヤ人から没収した毛皮やアクセサリーを身に付け、子供は人の入れ歯をおもちゃにして遊び、庭師は花壇の土に収容所の焼却炉灰を撒いて花を育てていることを知る。ヘスは所長室にユダヤ人の女を呼びまぐわい、その後、収容所と直結する地下通路で自宅に戻り、地下の作業場の流しで下腹部を洗って寝室に戻ることさえ覗き見てしまう。こうしたエピソードが、家族の日常として次々と挿入されることで、観客は傍観者から共犯者としてこの家族に加担してしまうのである。つまり塀の外を見せない手法を使いながら塀のこちら側で起きていることが塀の外=収容所で起きていることを全て説明しているのである。



塀の向こうの屋根や煙突は本当に収容所なのだろうか、庭に巻かれる灰は焼却炉の灰なのだろうか、ヘスがテーブルに広げて見ているのはユダヤ人を焼却する炉釜の設計図なのだろうか、妻が羽織る毛皮コートは没収したユダヤ人のものなのだろうか。あるいは川遊びをするヘスと子供が人骨のようなものを拾い、慌てて子供たちを川から引き揚げる場面。あれは人骨と灰なのだろうか。いずれのエピソードも「そうだ」とは説明されないが、実は「見せない」ことの説明になっている。「そうだ」と観客に思わせるのは、予めこれがアウシュビッツ強制収容所の隣に住む家族の映画だということを前提にしているからに他ならない。そういう意味でこの映画は観客の視線を予め奪ってしまう極めて不自由な映画なのである。あの煙突は風呂屋の煙突ではなく人間を焼く焼却炉の煙突とほぼ強制的に帰着させられるのである。だから驚きも意外性もサスペンスもない。冒頭の暗闇の画面から一転、明るい川べりのピクニックのシーンにチェンジした時のまぶしさが唯一の驚きだった。



この映画の後味の悪さは、全て観ることの不自由さの強要に起因しているだろう。100分ちょっとの映画の中で、ずっと鳴り続けているように感じるブオーンというボイラーが燃えているような音響に気持ち悪さを感じるのは私だけではないだろう。
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