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ちゅう年マンデーフライデー

ライク・ア・ローリングストーンなブログマガジン「マンフラ」

うさん臭いぞ!「美しい国」

2006年09月27日 | アフター・アワーズ
 人はしばしばある数式を「美しい」などと表現するし、数学とは美しい学問だなどと言う話は「博士の愛した数式」などにも登場するので、文系人間でも限りなく並んだ円周率の数字の列を見ていると、その美しさも納得できるし、美しい女性だとか、美しい文字だとか形のあるものを美しいと愛でる習性も、審美眼の差こそあれ人は誰でももっているのだが、これが「美しい国、日本」、さらには「美しい国づくり内閣」などと政治家の口から発せられると、途端にそれは何か胡散臭いいかがわしさを身に纏うことになる。夜9時のニュースを見ようとつけていたテレビ画面に現れ、まるでどこかの生徒会長がしゃべるような、丸暗記したごとき面白みのない演説の中で、新しくこの国の首相になった粘土細工のような顔をした男が「美しい国」などと語るのを聞いてしまうと、「美しい」という平易な言葉も、これが「国」などという言葉と結びつくと、抽象的なわけのわからないものになってしまい、むしろ危険な悪臭さえ発散させているではないか。そうなると、優生思想、ダーウィニズムと結びついた人種差別政策によってアーリア人よる美しき健康帝国を築かんとしたナチズムだとか、彼の北の国の統制されたマスゲームに見る均一な笑顔だとかが想起されてしまうのは、そう的外れなこととは思えない。おそらく拠るところの思想の傾向が同じなのだろうが、政治家が口にするなら中身はどうあれ「所得倍増」とか「日本列島改造」とか「NOといえる日本」などのほうが健全で分かりやすいし、「汗して働いた人が報われる社会」などといわれると、オイオイそりゃー、ちょっと前の経営者が成果主義の名のもとにリストラの旗印に掲げたお題目じゃないかと、サラリーマンならこんなキャッチフレーズのインチキ臭さにしらけるばかりだろう。こうなると「人生いろいろ」と居直ったライオン丸のチャランポランさのほうがまだましというものだ。世の中朝もあれば夜もあり、おいしい食物も糞に変わり、若者もやがては老い、葉は落ちてもまた若葉をつけるのだ。とりあえず「美しい日本の文化」などと口にする政治家を信用してはなるまいよ。

 だからというわけではないが、日曜日に読了した村上春樹「アフターダーク」の世界は、まぎれもない「反・美しい国」だと思うのだった。読んだ後は大して共感したわけでもないのだが、日が落ちてからの一夜の物語に登場するラブホテルを職場とする女たちも、中国に留学するマリも、地下室でバンド練習をする高橋も、中国人娼婦も、決して「美しい国」の住人ではないし、国のお世話になる再チャレンジなどに関心もない連中だ。世界にぽっかり開いた何もない夜。それこそ私たちの棲家だととりあえず言っておこう。
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怖くて美しい溝口健二の『山椒大夫』

2006年09月22日 | 映画
 今年は溝口健二没後50年ということで、BSでの特集や恵比寿での連続上映があった。BS録画で久しぶりに「山椒大夫」を観た。久しぶりというのは、おそらく小学校のとき東映動画の「安寿と厨子王」と併映で溝口の「山椒大夫」を観た記憶があるからだ。もちろんその頃は溝口の名前など知らなかったが。当時は人口5万人程度の田舎町にも会社別で上映館があり、東映専門館、大映専門館、東宝・松竹専門館、外国映画専門館と4館もあった。東映専門館で観たので、大映作品がなぜ併映されたかは定かではないが、今思えばかなりしびれる2本立てであった。

 鮮やかな色彩のアニメ「安寿と厨子王」に比べ、溝口の「山椒大夫」はとにかく怖かった。山椒大夫役の進藤英太郎は当時最高のヒール役者だから、その憎々しさは出色だし、母と兄妹が別れ別れになる船のシーン、脱走者を捕らえて額に焼き鏝をあてるシーン、安寿の入水シーン、みんな怖かった。その記憶がずっとあって、改めて観てみると、やはり怖い。それは、リアリストとしての溝口が、森鴎外の原作「山椒大夫」がもつ幻想性を廃し、徹底的にこの兄妹と母を不幸に陥れる悲劇的ストーリーに組み立てなおしているからであり、それを独特の長まわしが画面に緊張感と官能をもたらし、サスペンスを生み出しているからだった。

 森鴎外の『山椒大夫』(ちくま日本文学全集)も改めて読んでみた。映画の印象が強かったので、「えっ、こんなお話だったっけ」というのが率直な感想だ。小説では安寿は姉、厨子王は弟という設定。西国へ左遷され帰らない父を探しに母と姉弟と召使が旅を続ける場面から始まるのだが、悪い人買いに母と離れ離れにさせられた姉弟の悲劇というより、仏による救済、人としての善や徳を貫くとき仏法の力や仏の加護が運命を開くという道徳的なテーマが扱われている。安寿が母から授かった小さな仏像の力が、常に苦難から厨子王を救うという民話的な設定になっていて、国守となった厨子王が人身売買を廃止すると、やがて山椒大夫の管理する荘園も繁栄するなど、厨子王の徳が強調されている展開なのだった。

 映画では、山椒大夫のもとでとして苦役を強いられる厨子王が、父から授かったこの仏像を「神も仏も役に立たないと」と投げつけるシーンがあるように、小説の民話的な幻想性や仏の力などは排除されている。後半では成人して国守となった厨子王が、山椒大夫一族を捕獲し、解放されたによって屋敷は焼き払われるという、まるで積年の私怨をはらすような展開で、ラストの母との再会で観る者のカタルシスは最高潮となる。

 記憶に残っていた舟の別れのシーンの長いカメラの横移動はやはりすばらしい。安寿の入水はオフィーリアを想起させもして美しい。抱き合う母子のアップからひいて背景の湾と海を捉えて終わるラストショットの美しさに瞳がうるむ。改めてもっと溝口を観なければいけないと思うのだった。
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目玉、玉子、キャン玉イメージの奔流「目玉の話」

2006年09月20日 | 
 ジョルジュ・バタイユ著(中条省平訳)「マダム・エドワルダ/目玉の話」(光文社文庫)を読む。

 光文社文庫が外国文学の名作を新訳で出版するという近頃珍しい快挙(暴挙?)に出た。その中の1冊だ。ドストエフスキー、トゥルゲーネフ、ケストナー、カント、サン・テグジュペリなどの名前が並ぶラインナップにバタイユが初回から入ってくるあたり、光文社の意気込みが感じられる。

「マダム・エドワルダ」や「眼球譚」として知っている「目玉の話」は、生田耕作の名訳が定番のように流通しているだけに、翻訳者自身も大きな挑戦であったはずだ。とりわけ「目玉の話」は、古くは二見書房の「バタイユ著作集」の黒い箱の白い背に「眼球譚」と黒文字で記された悪魔的な装丁のイメージが強かったので、「目玉の話」というタイトルの軽さに、むしろ翻訳者の強いメッセージがうかがえるのだった。

 この小説の主題的イメージであるフランス語の目玉と玉子と睾丸の音は似ており、これを日本語に訳すとき「眼球」ではその相似性が表現できないので、「目玉」として「玉子」と「キャン玉」との文字と音の関連性を表現したのだという。それゆえ「目玉の話」とタイトルすることで原書の持つ佇まいに近づけたという翻訳者の解説に、「なーるほど」と思わず膝を叩いたのだった。

「目玉」と「玉子」と「キャン玉」の、その形状の相似から来るイメージの連鎖は、小説の中で洪水のように繰り返されるが、最後に司祭の刳り貫かれた目玉がシモーヌの股の間に収まることでこの「目玉の話」はひとまず終わる。目玉は世界を見る理性の、玉子は生と死の、キャン玉は性(と死)のそれぞれの象徴であるとすれば、バタイユが少年時代に体験した、梅毒がもとで盲目になった父親が椅子に座ったまま放尿するときに見せる玉子のような「白目」、そのイメージが、エロチシズムを発動させることによって、この醜悪にして美しい虚無の小説を生み出すことになったのだろう。改めて新訳で読んで、この美と表裏一体の醜悪さ、アナーキズムは三島由紀夫の「豊饒の海」とりわけ「天人五衰」に連なると思うのだった。
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バカが出てこない優等生たちの「夜ピク」

2006年09月14日 | 
 話題の恩田陸『夜のピクニック』(新潮文庫)を読んでみた。ロードムービーならぬロードノベルというものがあるとすれば、これはまさに一昼夜の80キロ歩行祭の間に主人公たちが成長するというロードノベルである。ただ一昼夜歩くというだけの高校生の行事を骨格として、大会の始まりから終わりの24時間に起きるさまざまなエピソード、登場人物たちの恋愛や家族や友人関係という高校生らしい話題と会話の展開で読ませていき、飽きさせない、その手腕はたいしたものだと思う。

 読後感も爽やかで、ここに出てくる高校生たちはきっと卒業後もまっとうな道を歩いていくんだろうなと思わせる。まあ、おやじとしては、人生そんなうまくはいかないぜといいたいけれど、そういう声は当然ながら予測して書かれているところが憎たらしい。ジム・トンプスン愛読者としては、「あれれ、悪いやつや馬鹿が一人も出てこないや!」そんな世界も小説も珍しいわけだった。

 高校最後の学年で同じクラスになってしまった融と貴子という反目しあっていた異母兄弟の二人が、最後の歩行祭を通じて兄弟として和解できるかどうかというのがメーンストーリーで、アメリカに移住した友人からの手紙に書かれた「おまじない」とか、昨年の大会で写真に写っていた、いるはずもない野球帽の少年とか、ある生徒の妊娠の噂とか、そうした仕掛けを織り込みながら、高校生たちの微妙な心理の揺れを明快に描いている。おそらく「わかる、わかる」とか「そう、そう」とか「そんなことあった、あった」とか頷きながら、あるいは懐かしみながら読んでいる読者は少なくなかろう。

 悪いやつは出てこない。打算的といわれる女子生徒だってかわいいもんだ。みんな青春特有の悩みや不安はあるものの、それらとちゃんと向き合っていて、友だち思いで、理知的だ。こんな友人たちに囲まれて高校生活を送った人たちには共感できるだろうが、あるサイトの若者が「選民意識」にあふれているとコメントしていたように、この世界に嫌悪感を覚える読者がいても不思議はない。誰もが共感できる部分と、私立文系が脱落組といわれる県立の進学名門校が舞台だけに、その世界になじめない人もいるだろう。そういう人は「珍説夜のピクニック」とか「桃色夜のピクニック」なんてーのを書いてくれると楽しいと思う。

 ちなみに私は私立文系が脱落組みといわれる県立の男子進学校の出身ですが、みんないつもムスコが「夜ぴく」状態でした。(「トリビアの泉」の高橋さんの言い方で読んでね)
 すいません下品で。
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清の「LOFT」でズンドコッ!

2006年09月13日 | 映画
 黒沢清監督「LOFT」をテアトル新宿で観る。若い観客ばかりで四分の入りというところか。

 亡霊役の安達祐実がすばらしい。その声は、ころころと鈴がなるようで、まるで肉体から発せられている声とは思えない。実に幽霊向きの声なのだ。埋められた土の中から復活し(特撮やCGではない)、豊川に「一緒に地獄へ行きましょう」と誘うシーンなどは、他の出演者がクールに演技するなかで、演技が前に出て違和感はあるものの見事なお化け役者ぶりだった。湖の桟橋に仕掛けられたボートを吊り上げるものと思われるジャッキとか中谷美紀の殺害を企てる西島秀俊が使う殺人と自殺共用のロープなど、不可思議な装置を使ったシーンが秀逸だ。女のミイラや亡霊、家は森の中の古い木造の洋館で、隣にコンクリート作りの廃墟のような建物。森を抜けると湖があり、桟橋にボートを吊り上げるジャッキがある。風に揺れるカーテンや過剰な風に波打つ草むらなど、ホラーとしての舞台装置は十分だがホラーであろうとしない。

「LOFT」は、一軒の家にまつわる殺人と男女の愛憎をサイドストーリーとして、千年前の女性ミイラにひかれた男をめぐる女とミイラの愛の物語だ。さらにいうなら、大学教授豊川悦司をめぐる女流作家中谷美紀という現実の女と女性ミイラ、作家志望の女子学生の亡霊安達祐実との愛と死の物語である。実に盛りだくさんな映画だ。物語は、豊川と中谷が大げさすぎるほど激しく抱擁しあい愛を誓い合うことで、ミイラの呪いからも亡霊の怨念からも解放され収束しようとするのだが、亡霊の安達祐実がただの土佐衛門になって吊り上げられる代わりに、豊川はミイラの沈んでいた湖の底に沈んで消え、ミイラは焼却されて煙となる。残った中谷はおそらく愛の亡霊と化すだろう。ラストでそれぞれのキャラクターが本来の意味を解体され、映画そのものも内にしかけられた自爆装置によって消滅してしまうような映画なのだった。
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あの戦争は阿片戦争?

2006年09月08日 | 
 陸軍中野学校というと、まず市川雷蔵主演の大映映画「陸軍中野学校」が思い出される。あるいは、ルバング島の小野田さんかも。ぼくにとっては高校時代の数学の教師が中野学校出身だったことが一番身近だろうか。本人が語ったことはないが生徒は周知のことで、雷蔵映画のイメージと相まって、教壇でのクールな振る舞いが元スパイのイメージをさらに膨らませていたかもしれない。

 さて、『陸軍中野学校-情報戦士たちの肖像』斎藤充功著(平凡社新書)は、阿片の密売で戦争資金を捻出していた国策会社昭和通商に陸軍中野学校の卒業生が社員として派遣されていたという秘話から始まり、次第に少なくなっていく陸軍中野学校出身の生存者にスポットを当てる。その取材を通じて中野学校の実態に迫り、さらには、戦後のマッカーサー暗殺計画、内閣情報調査室や自衛隊の諜報部門設立への卒業生たちの関与、陸軍登戸研究所(明治大学の生田校舎に跡地がある)における中国紙幣の偽札製造による中国経済の攪乱作戦への中野学校出身者の関与などにも触れて、中野学校と戦中戦後の裏面史を概観するには面白い本ではある。

 日中戦争が一面で阿片戦争であったことは、さまざまな本で紹介されてもいる。あれだけの戦争経費を捻出するには阿片が手っ取り早かったのだろうが、日本の特務機関だけでも複数が売買にかかわっており、戦前の三井、三菱の商社、いまや首相候補一番手の安倍晋三の母方の祖父岸信介、ロッキード事件の児玉誉士夫などなど出てくる名前もご立派な名前ばかりだ。この辺の事情については上海を拠点に阿片王といわれた里見甫の生涯を描いた佐野真一著「阿片王 満州の夜と霧」や西木 正明著「其の逝く処を知らず―阿片王里見甫の生涯 」などに詳しくいずれも大変面白い。

 さて、阿片(麻薬)と偽札というとこれは今やあの北の国の国策ではないか。日本軍の遺産は立派に反日を掲げる彼の国に継承されているんですね。
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タミヤの星と東京五輪ポスター

2006年09月06日 | アフター・アワーズ
 日本デザインコミッティのデザイナーたちが、自分がほれたデザインの一品を持ち寄って展示した「心から尊敬するデザイン展」を銀座の松屋で観た。

 60点あまりと点数は少ないが、いずれも名品ぞろいで楽しい展示だ。プロダクトデザイナー深沢直人が選んだのはズッカの腕時計、建築家黒川雅之はハーレーダビットソンのバイク、デザイナー川上元美は柳宋悦の掛け軸、永井一正は亀倉雄策の東京五輪のポスターとか、その他イームズの椅子、ヤコブ・イエンセンのB&Oレコード・プレーヤーなどなど。ヨーロッパ系の機能美が多い中で、ハーレーはやはり金属の官能で圧倒する。

 ところで、僕にとって忘れられないデザインというと、ひとつは東京五輪のポスターで、これは僕も持っているが、タミヤの星のマークやこのポスターはグラフィック・デザインを意識して感動した最初のものの一つだと思う。プロダクトでは、カメラのフジペット、オリンパスハーフの一眼レフ、トヨペットクラウンとプリンスグロリアが揃って四つ目にモデルチェンジしたときのデザイン、ジャガーEタイプ、トランペットの日管インペリアル、明治マーブルチョコレートのパッケージなどなど、デザインが少年の心を揺さぶり、尊敬かどうかは分からないけれど、心からほしい!と思わせインパクトのあるデザインだった。そんなわけで、デザインの力を改めて思い直した展示会でした。
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ソクーロフ&イッセイ「太陽」の光を浴びよ

2006年09月06日 | 映画
 アレクサンドル・ソクーロフ監督「太陽」は銀座から次第にその光を広げている。シネパトス単館上映から拡大し、ぼくは新宿ジョイシネマで朝9時30分から観た。午前だけの上映で館内はかなり空いていたが、早起きの中年ばかりだった。

 モノクロだと勝手に思っていた映画に、冒頭から色がついていたことに驚きつつ、ゆっくりと移動カメラで始まる地下壕で洋風の朝食をとる昭和天皇と侍従とのシーンはすばらしい。この緊張感あふれる冒頭シーンで、映画のテーマ、主人公の立場、舞台設定が簡潔に提示されるからだ。現人神に朝食を供する手が震える老侍従、戦局を伝えるラジオ放送、日本人が私一人になったらと問い、神だからと奉る侍従に対して体はお前たちと変わらないと困らせる昭和天皇。唐突な言葉や身振りで周囲が固まってしまい、一瞬部屋の緊張感が高まったタイミングで「冗談だよ」と下げるイッセイ尾形の絶妙な間の取り方。この下げでこの映画が歴史的な存在としての天皇ではなく、神の衣を脱いだ素の天皇を描こうとしていることが分かるのだ。その最も秀逸なシーンがマッカーサーの面会のあとに送られてきたハーシーのチョコレートを広げてはしまう「はいチョコレートおしまい」の下りだろう。

 ぼくたちは、侍従が通訳がマッカーサーが扉の隙間から盗み見るその共犯者となって、神であった男の無邪気な振る舞いを見る。「まるで子供だ」とつぶやくマッカーサー。「日本の一番長い日」に描かれた終戦の混乱も軍人たちの咆哮もこの映画にはない。歴史的な玉音放送もなければ、マッカーサーとの記念写真のシーンもない。およそ敗戦の歴史的な場面として記憶されている映像はこの映画にはない。戦争を思わせるのは、空襲の火の海の中を魚の姿をした爆撃機が悪魔のごとく舞うシーンだ。それは、海洋生物学者であることが提示された後のある夜天皇が見るヒエロニムス・ボスの絵のような悪夢のシーンだ。

 時間の区切りさえなく、地下壕からある日外に出るとそこには米兵がおり、「あの男は誰だ」という言葉が天皇に向けられる。艶やかな黒に染まった夜や地下壕の場面に対し、この屋外のシーンはまぶしすぎる陽にあふれている。米軍の撮影隊からはチャップリンに似ているといわれ、「チャーリー」のコールに帽子を取って応えてみせる。「あの俳優に似ていますか」とたずねられた日系人通訳は「私は映画を観ません」と応える下げもやはり絶妙だ。

 映画の中の天皇はしばしば悩む。極地研究所の老研究者と極光について語るシーン。昭和天皇は、明治天皇や大正天皇が見たという極光を、自分がまだ見たことがないのはなぜかと問う。極光とはオーロラのことで太陽風ともいわれる。老科学者は科学的に東京でオーロラは見ることができないことを説くのだが、科学者でもある天皇はそれを分かっていながら、極光を見ることが太陽として輝き照らす資格でもあるかのように、あるいはあたかも自分は神ではなかったとことを確認するように極光についてたずねるのだった。

 天皇が一人デューラーの銅版画をみつめるシーンがある。「四人の騎士・ヨハネ黙示録」を描いたもので、四人の騎士は死や戦争や飢餓を象徴しており、この世の終末が描かれている。一番下にいるのが青ざめた馬に乗った老騎士、死を象徴するペイルライダーだ。この絵を見つめる天皇を背後からとらえた画面では、A3サイズほどの版画絵は天皇がこの絵の中に収まってしまうかのように画面いっぱいに広がっている。私もまた黙示録の騎士の一人なのかと自問しているようなシーンだ。神道の司祭である天皇がなぜ北方ルネサンスの絵画を見ながら終末に思いをめぐらすのか。洋食をとる、英語を話す、デューラーの絵を見る、子を思いながらバッハの無伴奏チェロソナタを聴く。この映画では、天皇は西洋的な文化やマナーに造詣深い知的な人物として表される。それも観るものを困惑させるだろう。

 海洋生物研究所の庭に突然舞い降りて周囲をかき乱す鶴の象徴的シーン。それは、現人神の衣を脱いでどのように他者と交わっていいのか戸惑う天皇と周囲の人間たちの混乱振りそのままだ。最後の皇后との場面までそのぎこちなさは続く。あたかも纏っている歴史の衣を脱ぐように天皇はたびたび衣装を着替える。この映画では、天皇が神としての衣、歴史的存在としての衣を脱ぎ振舞うことで起きる周囲との齟齬、混乱、困惑が執拗に描かれる。巻き起こる混乱や困惑は、いつも軽妙な下げで曖昧な方向に軟着陸するのだが、しかし、最後に皇后や皇太子など家族の帰還によって、あたかもすべてが幸福に収束しようとするときに語られる一言、若き録音技士の自決を告げる言葉は、唯一天皇が外部からの情報によって凍りつく場面で、ソクーロフはこれによって「その後」の、あるいは戦後の天皇の苦悩を簡潔に描いてしまったのだった。

 イッセイ尾形の快演、すごい。その演技が映画「太陽」にリズムを与えている。神経質に口を動かしたり、指を動かすしぐさ、やや背中を丸めて首を突き出すペンギンのような歩き方、無邪気で屈託のない笑顔、そしてあの有名な「あっ、そう」という口癖。イッセイ尾形は、虚実も含めてぼくたちが記憶している昭和天皇と思われる人をみごとにスクリーンに蘇らす。アラカンの明治天皇、イッセイの昭和天皇は映画史に燦然と輝く。

 終戦のとき1901年生まれの昭和天皇は44歳だ。第二次世界大戦を闘った主要国のトップでは最も若かったはずだ。今の皇太子とそう年齢は変わらない。44歳にして神の衣を脱いだ男が見た世界は、どのように見えたのだろうか。たぶん「あっ、そう」と一言つぶやいたのかもしれない。

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