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平和記念資料館その2(2021広島no3)

2022-03-18 | 広島

 

 東館では「原子爆弾の開発と投下」から「平和な世界をつくる」まで六つのテーマに分かれて展示されていました。

 

 1945年(昭和20)春からアメリカでは投下目標都市の検討を始め、当初広島、小倉、新潟そして長崎の4都市が目標都市とされたそうです。

 原爆投下用の広島の航空写真。はっきりしませんが赤線の交わっているところが照準点。後ほど紹介しますがほぼこの位置に投下されているのです。気象観測用機、原爆の威力を記録する科学観測機、写真撮影機、そして核弾頭リトルボーイを搭載した「エノラ・ゲイ」 B294機がテニアン島から約7時間、ここ広島上空に現れたといいます。

 この1月NHKが放映した「映像の世紀」戦時の映像、学徒動員から神風特攻隊など悲しい映像ばかりでした。あまりにも印象的だったのでデッキに残した記録を消去せずに残してあります。そこにテニアン島の記録があるのです。戦前から日本人の移民が始まっておりサトウキビの大きな産地を形成していたといいます。東洋一という製糖工場があり、映画館もある豊かな日々があったという。そこに戦争、サイパン島が陥落し、戦火はテニアン島に。3500人の方が亡くなり、9500人の捕虜、その中に子供2000人。有刺鉄線の中の子供たちが可哀そうだと通訳のアメリカ兵が声をあげ学校をつくったというのです。そこでは日本語の授業。規律よく隊列を組み体操をする姿に多くの米兵が見学に、ふれあいの姿が多々描かれていました。B29は、この島から全国へ飛び各都市を無差別爆撃。任務を終えて帰ってきた搭乗員は、日本の子供たちと遊ぶ。テニアン島編の最後には「爆弾を落としている自分と子供たちをかわいがっている自分とに引き裂かれているのです」と語る米兵の言葉で結ばれていました。長々書き過ぎましたが、このところ毎日のテレビでロシアに攻撃されているウクライナの悲惨な姿に接していて、書き置きたくなってしまったのです。

 廃墟となった広島と長崎の写真がありました。

 

 再び平和公園の中を歩きます。

 「平和祈念像」の前で修学旅行生がメモ取ってた。

 若い母親に抱かれた子供が、平和のラッパを吹いている。そこに大きな三日月。

 土盛りの頂点に相輪の塔がある「原爆供養塔」内部には納骨堂があり、身内の分からない遺骨や氏名の分からない遺骨約7万柱が納められているそうです。

 「平和の鐘」原爆被災者悲願結晶の会が1964年(昭和39)につくったそうです。周りの池には8月6日平和記念日の頃には美しいハスの花が咲くそうです。この鐘、この公園の中にあるほかの鐘と合わせて環境省が「日本の音風景百選」に1996年(平成8)選定されたといいます。

 公園からの帰り道です。小学生らしきが集合写真を撮っていた。

 ここにも「慰霊」の碑。次の写真のとおりこうした碑とか像などが公園内にはいっぱい。とてもすべてを見て回り切れません。

 この地図は広島観光ガイドマップの中にあります。三角印の中の赤ポツが爆心地。前に紹介した原爆投下用の写真では、その照準点をすぐ左上の「相生橋」としていたのです。

コメント
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