4月、鳴動が始まり、大地は鳴り響く。その後、何度となく爆発、震動がおこる。7月に入り噴火活動は最高潮に達した。7日の夕方から激しい噴火となる。 7月8日、前夜の鳴動もますます激しくなり、夜が明けても空一面黒煙に包まれ、夜のように暗かった。そして午前10時頃…浅間山が光ったと思った瞬間、真紅の火炎が数百メートルも天に吹き上がると共に大量の火砕流が山腹を猛スピードで下った。山腹の土石は溶岩流により削りとられ土石なだれとして北へ流れ下った。
鎌原村を直撃した土石なだれはその時間なんとたったの十数分の出来事だった。家屋・人々・家畜などをのみこみながら土石なだれは吾妻川に落ちた。鎌原村の被害は死者477人、生存者は鎌原観音堂に逃げ延びた93人のみだった。この噴火の際、最後に流出したのが鬼押溶岩流である。
〈嬬恋村誌上巻 自然界 浅間山のおいたち・浅間山噴火史より抜粋〉
1783年(天明3年)の浅間山の噴火と鎌原村での出来事が「鬼押出し園」のホームページ(?)にこんな形で乗っかっていました。その鎌倉観音堂が上の写真です。そこには下記の掲示がありました。
噴火によって埋没した鎌原村にかかわる資料の展示をしている「嬬恋郷土資料館」
この鎌原村は「東洋のポンペイ」と呼ばれているとかでイタリアのポンペイに関わる写真なども展示されていました。 この資料館には、さすがキャベツの村キャベツにまつわる諸々の展示にワンコーナーを割いているのには驚いてしまった。
帰路。「信州佐久の鯉太郎 とてもうぬ等の長脇差じゃ・・・」と若かりし頃の橋幸夫が歌った「佐久の鯉太郎」 ここ佐久市はかってから鯉飼育の本場。そこで「鯉料理」の昼食としました。
千曲川と長野新幹線の橋梁そして雲に隠れた浅間山。佐久平からの遠望です。