本日は
フェリペ2世の命日です。
というわけで
『プラド美術館展』へ行ってまいりました。
ちなみに ↑ この人はフェリペ2世の妹さんです。
プラド美術館展
絵画のみ81点の展示と申しますと、企画展の規模としてはまあ、中ぐらいでございましょうか。
とはいえ
エル・グレコのキリスト像を見ては ガラにもなく経験な気持ちになり
深く大胆な黒使いのリベーラに ハッとさせられ
卓越した筆致と人物描写のベラスケスに ウ~~ムと唸り
ムキムキ&ムチムチの裸体が画面に躍るルーベンスに オエッとなり
(失敬、しかしルーベンス作品の、ぼっ かーん とこちらに飛び出して来そうな迫力と量感が、のろはどうにも苦手なのですよ)
リアリズムを通り越してシュールレアルな感さえあるメレンデスに「ようやる」と感嘆し
かわいらしい少年なんぞ描いているゴヤには「アンタはやっぱりダークな世界の方が似合ってるよ」とつぶやいてみたり
とまあ、近代スペイン絵画の巨匠さんたちとけっこうまんべんなくお目にかかれます。
(ルーベンスはスペインじゃございませんが)
ちらしではムリリョがわりと大きくフィーチャーされておりますね。
ポストカードもムリリョの『無原罪の御宿り』の売り上げNo.1ということですが
のろが最も印象深く拝見したのは
エル・グレコとベラスケスでございました。
エル・グレコ 『十字架を抱くキリスト』
自身が磔されることになる大きな十字架を背負って、ゴルゴタの丘まで歩かされるキリスト
の、はずなのですが
この場面を説明し、かつ悲劇性を高めるために通例描かれるものもの----キリストを追い立てる刑吏や、
沿道で揶揄する人々、嘆くマリア(×2)と弟子たちなどなど----は、全く描かれていません。
いばらの冠を戴いたキリストの顔にも、苦しみの表情は見えません。
そして唯一の登場人物であるキリストは、タイトルに示されているように
十字架を 負わされている のではなく、 抱いているのです。
嘆くでもなく、苦しむでもなく、いたって穏やかな表情です。
うるんだ目は天を向き、頭上にわずかに描かれた青い部分から
視線の向こうに、暗雲の切れ目にのぞく青空があることが暗示されています。
上空の一点をみつめるその眼差しは、十字架を抱くポーズとあいまって
天上の「父」に向かってこう語りかけているようです。
「この運命を受け入れましょう。それがあなたの意志なら」
その運命たるや、全人類の引き受けて贖罪の山羊として死ぬ、という
なんともはやオソロシイものなのですが。
ここでキリストがいともやさしく腕に抱えている十字架とは即ち、
彼自身の 死 であり、 全人類の罪業 でもあるのです。
エル・グレコは画面から物語的な要素を排して、ポーズと眼差しによって
全ての罪を引き受けるキリストの慈愛を表現しております。
「かのギリシャ人(=エル・グレコ)」が描く宗教画の特色として
このキリストも細長い身体にデフォルメされ、ぎらぎらとした非現実的な光彩の中に置かれています。
(十字架にまわした二の腕の異様な長さをご覧下さい、アングルもびっくりです。)
こうした、客観的・数学的なリアリティよりも主観的・心的リアリティを重視した表現ゆえでしょうか
のろは別にキリストさんのファンでもなければキリスト教のファンでもございませんが
絵の中のひとは不思議に親密な感じを発しているように見え
何か悪いことを考えていると、うるんだキリストの瞳から
涙がこぼれるような気がいたしましたよ。
もう ちょろっと
他の展示作品についても触れたいのですが
長くなりましたので次回に。
フェリペ2世の命日です。
というわけで
『プラド美術館展』へ行ってまいりました。
ちなみに ↑ この人はフェリペ2世の妹さんです。
プラド美術館展
絵画のみ81点の展示と申しますと、企画展の規模としてはまあ、中ぐらいでございましょうか。
とはいえ
エル・グレコのキリスト像を見ては ガラにもなく経験な気持ちになり
深く大胆な黒使いのリベーラに ハッとさせられ
卓越した筆致と人物描写のベラスケスに ウ~~ムと唸り
ムキムキ&ムチムチの裸体が画面に躍るルーベンスに オエッとなり
(失敬、しかしルーベンス作品の、ぼっ かーん とこちらに飛び出して来そうな迫力と量感が、のろはどうにも苦手なのですよ)
リアリズムを通り越してシュールレアルな感さえあるメレンデスに「ようやる」と感嘆し
かわいらしい少年なんぞ描いているゴヤには「アンタはやっぱりダークな世界の方が似合ってるよ」とつぶやいてみたり
とまあ、近代スペイン絵画の巨匠さんたちとけっこうまんべんなくお目にかかれます。
(ルーベンスはスペインじゃございませんが)
ちらしではムリリョがわりと大きくフィーチャーされておりますね。
ポストカードもムリリョの『無原罪の御宿り』の売り上げNo.1ということですが
のろが最も印象深く拝見したのは
エル・グレコとベラスケスでございました。
エル・グレコ 『十字架を抱くキリスト』
自身が磔されることになる大きな十字架を背負って、ゴルゴタの丘まで歩かされるキリスト
の、はずなのですが
この場面を説明し、かつ悲劇性を高めるために通例描かれるものもの----キリストを追い立てる刑吏や、
沿道で揶揄する人々、嘆くマリア(×2)と弟子たちなどなど----は、全く描かれていません。
いばらの冠を戴いたキリストの顔にも、苦しみの表情は見えません。
そして唯一の登場人物であるキリストは、タイトルに示されているように
十字架を 負わされている のではなく、 抱いているのです。
嘆くでもなく、苦しむでもなく、いたって穏やかな表情です。
うるんだ目は天を向き、頭上にわずかに描かれた青い部分から
視線の向こうに、暗雲の切れ目にのぞく青空があることが暗示されています。
上空の一点をみつめるその眼差しは、十字架を抱くポーズとあいまって
天上の「父」に向かってこう語りかけているようです。
「この運命を受け入れましょう。それがあなたの意志なら」
その運命たるや、全人類の引き受けて贖罪の山羊として死ぬ、という
なんともはやオソロシイものなのですが。
ここでキリストがいともやさしく腕に抱えている十字架とは即ち、
彼自身の 死 であり、 全人類の罪業 でもあるのです。
エル・グレコは画面から物語的な要素を排して、ポーズと眼差しによって
全ての罪を引き受けるキリストの慈愛を表現しております。
「かのギリシャ人(=エル・グレコ)」が描く宗教画の特色として
このキリストも細長い身体にデフォルメされ、ぎらぎらとした非現実的な光彩の中に置かれています。
(十字架にまわした二の腕の異様な長さをご覧下さい、アングルもびっくりです。)
こうした、客観的・数学的なリアリティよりも主観的・心的リアリティを重視した表現ゆえでしょうか
のろは別にキリストさんのファンでもなければキリスト教のファンでもございませんが
絵の中のひとは不思議に親密な感じを発しているように見え
何か悪いことを考えていると、うるんだキリストの瞳から
涙がこぼれるような気がいたしましたよ。
もう ちょろっと
他の展示作品についても触れたいのですが
長くなりましたので次回に。