のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

『ジャコメッティ展』2

2006-09-19 | 展覧会
ドイツ人美術学生、西安の兵馬俑に扮するも御用 ロイター - goo ニュース

いいぞ、 いいぞ、 若者。
アーティストとしての君の将来を、のろは多いに嘱望しているぞ。
いや、本当に。


さておき。9/18の続きでございます。

「君の顔は確かにそこに存在し、充実している。
しかも空虚の中に漂い、物であることを拒否している。
存在と空虚、これを同時に捉えなければならない、ここに困難があるのだ」

『芸術と芸術家』 矢内原伊作 1987 みすず書房 より、ジャコメッティの言葉

前回、矢内原を描いた作品群について「苦闘の痕」と申しましたが
ことジャコメッティの彫刻作品においては、戦いは痕跡にとどまるものではなく
今もって進行中でございます。
それはもはやジャコメッティの手を離れ、
見る・見られる というフィールドから 
在るもの と、それを取り囲む空間 という、私達を直接巻き込んだフィールドへと移行しています。
彫像たちは、彼らを 取り囲み 押し包む 空間との
せめぎ合いのただ中に、立っております。

極限まで細く削られた身体を持つ彫像たち。
あるいは、モデルの面貌を留めながらも、左右からぐっと圧迫されているかのようなフォルムを保ち
緊張感に満ちた表面をさらす彫像たち。



その肌は、今しも周囲の空虚から浸食を受けているが如く、荒々しく波立っています。
細い身体は、ゆるぎない存在感を持つと同時に
他のものから完全に孤立したよるべなさ、いやむしろ孤絶感を発しています。

世界の中に、確かに存在している----むしろ、生み出されたものとして、否応なく存在してしまっている
けれども同時に
世界の中で、ある個別な存在として孤立し、その存在を誰も保証してはくれない。
自分の身体さえ、自分自身を守ってはくれなさげです。

それでも、いる からには、 いなければ ならない。
彼らの姿はまさに、世界の中にわけも分からず生み出され、存在している
私たちそのものではございませんか。

何のために存在しているのかさっぱり分からなくても
すでに存在してしまっているからには
消滅の時が来るまで、存在し続けねばならない私たち。

存在していていいのか、いけないのか?
答えなど無いことはわかっていても、
その問いを抱かずにはいられない私たち。

空虚にとりかこまれ、拮抗しながらも
確かに存在している私たち。

ジャコメッティの作品がかくも強烈に人の心を惹き付けるのは、
あの異様なフォルムの中に
「存在していていいのか、いけないのか?何故、私は存在しているのか?」
という、答えの無い問いを抱えたままなお存在し続ける
人間の宿業が凝縮されているからではないかと
のろは思うのでございますよ。