のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

『ジャコメッティ展』1

2006-09-18 | 展覧会
-----「見えるがままに表す」ことに取り組みつづけた-----

この言葉が、例えばクールベについてのものだったら
のろは何の疑問も持たなかったことでしょうけれども
ジャコメッティについての言葉となると、正直、とまどいました。

あの痛ましいほどに細く引き延ばされ
極限まで削られた人物像が
「見えるがまま」とは?

しかし、振り返ってみるとのろは
針金のような身体の彼らに、何故こんなにも心惹かれるのか ということも
彼らがいかなる意図のもとに制作されたのか ということも
恥ずかしながら、考えたことがございませんでした。

さて、「見えるままに表す」とは
どういうことなのか?

と いうわけで
『アルベルト・ジャコメッティ展--矢内原伊作とともに』へ行ってまいりました。



兵庫県立美術館-「芸術の館」-【展覧会】

本展では、例の極細人間たちはもちろんのこと
油彩やスケッチ、初期の作品なども展示されており
ジャコメッティの生涯を通じた不断の取り組み(あるいは苦闘)と、多角的に接することができます。
その中で見えて来たことは、
ブロンズ像にしろ 油彩画やスケッチにしろ
また、描かれているのが芸術家自身の妻や弟といった身近な人物にしろ 全く無名の人間にしろ
彼ら、ジャコメッティによって造形された人物は、みな一様に
せめぎ合いのただ中に置かれている ということです。
それは、ひとつには 見るもの と 見られるもの のせめぎ合いであり、
他方には 存在しているもの と それを取り囲む空間/世界 とのせめぎ合いです。

見る・見られる。
そもそも「見る」って何なのでしょうか。

目をあける。目を向ける。
何も識別できない混沌の中から-----焦点の定まっていない、全てが芒洋とした状態から-----
何かが立ち現れて来る、
目を凝らし、焦点を合わせる。
ある時点で突然、その「何か」が何者であるのかが認識される。

この「見る」という 混沌→→認識 作業を、私達は日常、全く無意識に
ものすごいスピードでこなしています。
ジャコメッティの作品は、この作業を超スローモーション化して
認識の瞬間の像を、即ち
現実にある「もの」と、見る者の視線がぶつかってせめぎあい、
見る者が見られるものの首根っこをとらえて「これはかくかくのものである」と
認識した瞬間の像を、画布やブロンズの上に定着させようという試みではないでしょうか。




見る・見られる と言っても、実際の所
私達はそれほどよくものを「見て」はいません。
毎日会っている人の顔でも、毎日見ている風景でも
いざ記憶を頼りに正確な像を描こうとすると、困難を極めます。

なるほど私達は、身の回りのあらゆるものに視線を投げかけはしますが
おおざっぱな像を捉えるや、あとは「こうであるはず」「こうなっているべき」という既存の知識で
実際は「見て」いない細部をおぎなってしまいます。

しかし「見えるがままに表す」ことを自らに課したジャコメッティには
この近道は許されません。

「こうであるはず」という既存の知識やイメージの侵犯を許さず、
彼の眼差しが、そのあくまで主観的な尺度でもって把握した「もの」の姿を
そのままに再現しなければならないのです。

しかし一体、そんなことが可能なんでしょうか?
見る主体も、見られる客体も
刻々と変化し続け、一瞬として同じ状態にはないというのに。



哲学者 矢内原伊作をモデルにした連作は、ジャコメッティが
捉まえようとするたびに指の間からすり抜けて行く「見たまま」の像を、かたちに定着させようと
もがいて もがいて もがきたおす 凄絶な軌跡となっています。
もがき、つかまえ、消し、壊し、塗り込め、また もがく。
ピュンピュンと鞭打つような筆致が幾重にも重なる油彩画にも、また
新聞紙といわずレストランの紙ナプキンといわず、手当り次第に描いた無数のスケッチにも
ジャコメッティが、「見えるがままに表す」という不可能な課題と取っ組み合った
苦闘の痕が刻まれておりました。

次回に続きます。