ちょっと歴史のお勉強です。ご存知でした?
「ひろがり2」の1本北側の道が、江戸時代には
百曲街道といって人や荷物が行き来していたことを。
街道のこと詳しくは、下記HPでご覧ください。
http://homepage2.nifty.com/matira/topic07/070420hyakumagari_map_a.htm
江戸時代には、この道より南側は海岸で、ちょうど堤防
になっていたとのこと。熱田の一番町から埋め立ての
際、区切りとして六番とか十番と西に番ふりをして
「ひろがり2」の付近は十四~十六番だった様です。
現在は地名としては十一番までしか残っていませんが・・。
このことは、ひろがりの避難訓練で通った、近くの
天年寺の写真(下)が本ブログに出ていますが、その門の
「割観音霊場14,15,16番」という札からわかります。
1746年の創建とあったので,270年以上前には
ここは埋めたてられ、このお寺はあったようですね。
前を通ったら、一度ご覧ください。