東京の田舎から

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宗教と詐欺

2022-10-11 23:16:50 | 時事問題

 宗教について、日本国憲法、第20条「信教の自由、国の宗教活動の禁止」として、

①信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。

②何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。

③国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

と規定されている。

 ところで、安倍元総理大臣の暗殺事件を機に、「統一教会」・現「世界平和家庭連合」の高額献金が問題となっている。そして、急遽開催された、この団体の会見では「収入の3割を超える献金については受領証を発行する」などと「改革案」を示したとのことである。これは、言い換えれば、それまでは、もっと高額を受領書もなく献金させていたとのことであろう。ま、お布施に領収書はないのであり、そのように考えれば当然なのかも知れないが・・・ここで言う献金は、お布施とは桁が幾つも違う金額のようである。

 しかし、改革案として示された、「収入の3割」と言っても、年収333万円の人が99.9万円≒100万円を寄付するのと、3333万円の人が1000万円寄付するのとでは、その家庭に対する重みが全く異なっている筈である。

 年収333万円の人にとっては、そのうちの100万円は高額であり、生活の質に多大な影響を与える筈である。

 そもそも、そのような高額献金を、「あなたの先祖が苦しんでいる」などと心理的に脅し、その前には洗脳をして、生活苦にも拘わらず高額な金員を寄付させるのは、宗教ではない。これは詐欺である。心の隙間を巧妙に利用した詐欺である。

 このような詐欺的団体に日本国は「宗教団体」として「宗教法人」として認証しているが、これは正しいのであろうか?

 憲法では、確かに「信教の自由」を保障しているが、それは、「内心の自由として」、「どのような宗教を信じても良い」ということで、宗教法人として国が認証することとは別の話の筈である。

 すなわち、信仰は宗教法人でなくても出来るのである。税制上の優遇がなくても信仰はできるのである。

 そして、宗教を信じて、宗教活動をすることは自由である。しかし、宗教法人として、国家が認証することとは別の話ではないだろうか。宗教法人として認証されると、宗教活動に対する収益に対する課税は無税である。当然に税務調査も甘いであろう。しかし、これを利用して宗教を盾に詐欺的なカネ集めをしている「宗教法人」という詐欺的な団体にまで、非課税として保護することは、寧ろ憲法に抵触するのではないか? これは、考えようによっては、憲法で禁止している「国から特権」であるとも考えられるのであるが・・・。

そして、

 宗教団体への献金では、結果的には時間をずらして、多大な税金が投入されているのである。

 その例として、以前、あった話であるが、

 「ある宗教」に熱心な夫婦がいた。その夫婦は、個人営業の飲食店を営んでいた。景気の良い時代には、随分と儲かっていたとのことである。しかし、その儲けの全てを宗教団体に献金してしまっていた。したがって、景気の良いときでも蓄えは殆ど無かった。加えて、献金を精一杯していたため、本来は年金の掛け金として納入するカネまでも注ぎ込んでしまっていた。

 そして、飲食店を営業することが体力的に無理となり、店を畳んだ。当然に、そのとき、蓄えは殆どなかった。年金も殆どない。

 ところが、今までの献金の「褒美」であろうか?  夫婦が信仰していた「ある宗教団体」の票によって当選していた市議会議員が、その夫婦の生活保護の申請に協力してくれて、見事に生活保護を受給できたのである。

 結果的に、時間差を利用して、宗教団体は、税金を使って献金した夫婦の生活を保障したのである。まともに働き、税金を納め、老後のために年金を納めて、そして蓄えている人はどう感じるであろうか?

 このように、献金が出来る時代には目一杯の献金をさせておき、出来なくなったら生活保護という「税金」でその人の生活を保障するというのは、時間差を利用した宗教団体の不当利得ではないだろうか? こんな詐欺的行為をさせるために宗教法人という「お墨付き」を与えることは正義であろうか? 甚だ疑問である。

 ところで、宗教団体の集会に政治家が挨拶をすることが、「お墨付きを与えることになる」との批判がテレビのワイドショーで繰り返し放送されていた。

 筆者は、政治家の挨拶がお墨付きになるとは思わないが、有り難がる「純真な人」が多々いることも確かである。政治家は民主主義の仕組みから、ただただ1票が欲しいだけなのである。そのため、宗教団体だけでなく、人の集まるところに顔を出して挨拶をする。どこでも、何でも、票になれば良いのである。

 したがって、挨拶をしている政治家の本心は、「ただただ「一票」である。加えて、今や、政治家は「政治屋」と呼ぶのが相応しいような、怪しげな連中が混じり、蔓延っている。政治家(屋?)の全てとは言わないが、信用ならない輩がゴロゴロいるように思うのであるが?  政治家(屋)は玉石混交である。こんな怪しげな人物が多々いるところ、政治家の挨拶がお墨付きになるとは不思議である。

 そして、根本的なことは、信仰とは献金額の多寡で、神様なり仏様なり、信仰の対象であるご本尊が人に対して、あるいは先祖に対して加護をしてくれるものではないこと。信仰とは、その心の問題であろう。そして、そもそも、信仰とは「人を幸せにする」、「人の心の安寧」の助けをしてくれるべきものであろう。宗教団体への献金で、信者の生活が破壊され、子供たちに貧しい思いをさせ、不幸するなどは本末転倒である。なお、筆者は宗教団体への献金・寄付を全て否定するものではない。宗教団体もその事業のために経費が必要なことは判る。しかし、それは程度問題である。豪勢な施設を建設して、政治にまで影響力を与えるなどは宗教のすることではない。少なくとも日本は政教分離である。

 そして、統一教会では、「何百万円を献金しないと、先祖の霊が地獄に堕ちる」、「100代前の先祖が苦しんでいる」などと言い、献金を洗脳によってせざるを得ない心理状態にさせていたとの報道があった。しかし、そもそも、そんな前のご先祖は、他人と同じ、あるいは、そう言って悪いのであれば、そこまで遡れば、周囲の人は皆、親戚である。試しに100代前までの系図・・・名前は判らなくて良い、仮に「1代さん」、「2代さん」・・・と「100代さん」までの系図を作ってみれば、「100代前のご先祖さまの霊が」などと言うことの意味が無いこと、如何にも滑稽なことであり、それを「あなたが慰霊しなくてはならない」との言い掛かりの怪しさが判るであろう。

 それにしても、人を不幸にする宗教が日本だけでなく、世界にあまたあることは困ったものである。心の隙間に忍び込む宗教という詐欺的団体にはくれぐれも引っかからないようにと思うところである。

【了】