東京の田舎から

日々の雑感や思いを書いています。

自動車のブレーキが突然に効かなくなった

2019-12-14 00:25:12 | ぼやき

 最近、高齢者の運転による「事故が多発している」と報じられることが多い。そして、「ブレーキが効かなかつた」との主張がされることがあるとも報じられている。しかし、その言い分が通ったことは聞かない。鑑定の結果、「ブレーキに異常はなかった」と結論され、特に、高齢者であれば、勘違いによる「ペダルの踏み間違い」とされてしまう。

 そして、高齢者はボケているのでという前提であろう。運転免許の返納を推奨されている。

 統計によれば「~29歳までの若年層の事故率の方が大きい」のにである。高齢者の事故が多いのは、免許人口に占める高齢者の人数が多いために、事故も多いのである。事故率は、若年層の方が多いことは報道されない。報道は感覚的なことを報じていて、インチキである。

 しかし、車のブレーキは完璧なのであろうか?

 実は、数か月前、筆者の運転する車のブレーキが突然に効かなくなった。これは、同乗者も確認している。ブレーキペダルを踏むと、ペダルが「ストン」と下がってしまったのである。何回踏んでも「ストン」であった。しかし、それ以上に、何回も踏むと、僅かだけブレーキが効くことがあり、さらに、幸運なことに、

・速度が出ていなかったこと

・前車との間隔が広かったこと

・高速道路ではなく、一般道であったこと

で、一瞬は焦ったが、幸いにパニックにもならず、ギアをドライブから、一速に落とすことができ、同時にサイドブレーキを踏むことができた。(筆者の自動車は、骨董品ではあるが、オートマ車であり、また、サイドブレーキは足踏み式である。そして、走行距離は、たったの7.5万キロである)

そして、無事に停車させることができ、「冷汗はかいたが」事故にはならなかった。

 加えて幸運なことに、故障したのが自宅の近くであった。

 そして、後日、販売店に連絡して、自動車を持ちこんだところ、販売店の技術者もブレーキが効かないことを確認している。

 後日、「修理が終わった」とのことで、受け取りに行ったのである。ここで、肝心なのは、と、言うか、恐ろしいのは、そのときの話である。

 販売店の技術者が言うには、「いや~あれから、移動しようとしたら、確かにブレーキが効かなかった。これは、こちらでも確認しています。しかしその後、「自然に直っちゃったんですよ」とのこと。勿論、危ないので、当然に該当する部品は交換しておいた」とのこと。

 自然に直ったのである。事故でもしていれば、筆者のペダルの踏み間違えとされたであろう。

 ところで、筆者の乗っている自動車は相当な骨董品である。それを承知しているから、ちょっとした不具合でもすぐに修理を依頼している。そのため、骨董品の自動車の維持には随分な費用が掛かるのである。ところが、口の悪い人は「買えないのか?」などという人もいる。その一方、「いや~この車はイイですね~」などと褒めてくれる人もいる。そんな骨董品の自動車である。

 しかし、ブレーキについては、自動車を買ったときの記憶によれば、「ブレーキは2重構造で、ブレーキが全く効かなくなることはない」と説明が書いてあったような記憶がある。「まさか」「まさか」である。

 しかし、その二重構造は、ブレーキの油圧配管とブレーキシューの部分であり、大元の油圧を発生させる部分は二重ではないようである。いわば、ペダルを踏むと、水鉄砲のピストンのような部分を押して油圧を発生させている、その油圧発生の部分が、そのときだけ何かの拍子に異常になったのであろう。

 もし、古いからこのような現象が生じるのであれば、車検などの時に、この部品の交換が決められている筈である。勿論、交換されているか否かは、筆者はその販売店に任せているので判らないが・・・。

 そして、販売店の人が言うには、「ブレーキが効かなくなる故障が出た」ということは、「危ないですから買い替えた方が良いですよ」と、新車に買い替えることを勧められた。

 勿論、費用ばかりがかかる骨董品から、新車にしたいのは勿論である。しかし、最近の自動車は、その形が、昔のものとは大きく異なっていて、長年、乗り慣れた自動車の形と余りに異なるため、運転感覚が掴めないのである。「同じ形のものがあれば、すぐにでも買い替えたい」ところである。しかし、無いのである。今、骨董品となっている自動車を買ったときは、その前に乗っていたものと、ほぼ同じ形のものがあったので、簡単に買い替えることができたのであるが・・・困った。

 これから、なるべく同じ運転感覚を持てそうなものを真剣に探す積りではあるが・・・。

  さて、冒頭に書いたように、ブレーキが効かなくなったとき、もし、大事故にでもなっていれば、「また、高齢者の事故」、「ブレーキが効かなかったと言い訳」として、報道されていたであろう。ましてや、後に「自然に直っている」のである。恐らく、鑑定結果は、「ブレーキは正常であった」とされてしまうであろう。そう考えると、今回のことは、「単純に運が良かった」だけで、「ゾッ!」とする出来事であった。

  多くの事故があるなか、自動車の部品が全て常に正常に動作しているとは思えない。その結果の事故もある筈である。しかし、原因は「高齢者のボケ」がペダルを踏み間違えたとされてしまうのであろう。恐ろしいことである。

 機械は故障する。どんなに正しく作られていても、偶然の故障は生じるものである。ましてや、自動車の部品は、温度や湿度、振動といった、劣悪な環境で動作させているものでもあり、加えて、徹底したコストダウンを求められているものである。数多くの中には、故障するものもある筈である。そのような偶然はあって当然であり、皆無と考えてしまうことが、間違いなのである。

 そのようなことで、「高齢者の運転だから」と安易に運転のミスとして片付けるのは不当である。中には、自動車の故障に起因する事故もある筈である。

 「ブレーキが突然に効かなくなり」、「自然に直ってしまった」ということは、どんな安全装置・・・例えば、自動ブレーキのシステムを搭載していても止まれないであろう。

 このような出来事を経験した後、高速道路で速度を上げるのが怖くなった。尤も、筆者は、元々、高速道路では「最低制限速度違反」にならない程度の速度でしか走らないが・・・。しかし、骨董品の自動車のお蔭か? 「あおり」をされたことは殆どない。後続車には、さっさと先を譲っている。

 なお、筆者は、新しいか古いかではなく、機械は当然にこのような故障も発生するものであると考えている。多発していれば話は別であるが、この記事を書いたのは、「そのようなこともある」とのことを知ってもらいたいのである。「機械は故障する」との前提で、そのときでも対処が可能なように、速度は抑え目の運転が安全のためには必要であろう。

 なお、最近は、センサを多用した安全装置が流行っているが、センサが劣化したときの安全策は取られているのか、例えば、故障によって、意図しない急ブレーキなどが無いのかが少し心配である。

 それと、燃費にばかり目がいって、デザインがされたものが多いように感じる。また、運転のしやすさについて、運転支援システムが複雑化すれば、却って危険なようにも感じるところである。いかがであろうか?

 


ローマ教皇の来日を考える

2019-12-03 00:22:19 | 時事問題

本稿について、誤解を与えたくないので、最初に断っておく。

 すなわち、筆者はキリスト教を否定するものではなく、また、これを侮辱する意図はない。信仰は、誰にとっても大切にしたいものであり、また、何を信仰するかは自由であり、筆者ごときがとやかく言えるものではない。すなわち、信仰と、今回の教皇とは別物として論じている。

 

 過日、ローマ教皇(前は「法王」といっていた)が来日して、大歓迎されていた。しかし、「大歓迎」されるべき来日であったのであろうか? 筆者は、来日と、その発したメッセージに多大なる違和感を感じた。

 

 すなわち、ローマ教皇に言われるまでもなく、平和は大切である。しかし、日本のように、米国に守ってもらって、誤魔化しの平和にドップリと浸かって、それが「見かけだけの平和」であることさえ「忘れている」日本人が多いのである。ローマ教皇のメッセージは、これに付け込んで、世界の実情を無視して、平和の大切さを説いているように思えてしまう。教皇の言う通りに、米国の核の傘を捨てれば、日本はたちまちにして、チャイナに占領されてしまう可能性も高いのである。そのとき、教皇は何もしてくれないであろう。否、できないであろう。

 

 ローマ教皇は、来日して、長崎、広島を訪問して、平和を説き、核兵器の禁止を強調していた。そして、日本が米国の核の傘に守られていることまでを批判していた。しかし、日本の周辺は、チャイナ、北朝鮮が核兵器を保持している。北朝鮮は、花火大会の如く、何かというとミサイルを発射している。このミサイルに核爆弾を搭載して、日本に向けて来る可能性もゼロではない状況にある。日本は、今、核の脅威に曝されているのである。ところで、日本は、米国の核の傘を頼りにしていて安心している。しかし、米国は、自国が核によって被害を受ける可能性が生じれば、日本のために核兵器を使用することは躊躇するであろう。これは当然の論理である。そうなったとき、米国の核の傘は「案山子」である。それでも日本はこれを頼るしかないのが実情である。この状況から脱するには、日本として、独自に核武装するしかないのである。

 

 したがって、核兵器を禁止したいのであれば、ローマ教皇は、核兵器の保有国に行って、平和と核廃絶を説くべきである。日本で核利用や、核兵器の禁止を説くのはお門違いではなかろうか?

 

 今の日本の状況に当てはめて、判りやすく書くと、

日ノ本さんは、飛び道具を持った暴漢に襲われそうになっている。しかし、日ノ本さんは平和主義者であり、「無防備こそ、安全の要である」として、何も対処していない。しかし、暴漢は、論理ではない。「無防備なら攻撃してしまえ」と考えられても不思議ではない。暴漢側から見れば、無防備は「アホ」である。

 この「アホ」を「アホ」なまま存続させたいので、そのためにローマ教皇は来日したのではないかと勘繰ってしまう。

 しかも、長崎、広島は史上初めての原爆の被害を受けた。この原爆を落としたのは、米国であり、キリスト教徒が多数派の国である。まともに考えれば「アンタに言われたくない」と考えるべきなのではないだろうか? この原爆投下について、キリスト教徒が多数派の米国は、反省も謝罪していないどころか、「原爆の投下で戦争が早く終わった」とか、「戦争被害を少なくできた」などと核兵器の使用を肯定しているのである。

 そして、日本の隣にあるチャイナ、北朝鮮の核のこと、また、チャイナのチベット、ウイグルの人権侵害のこと、香港の混乱については言及さえしなかった。二本に対しては、これだけ理想論的なメッセージを発していることと対比すると、何か釈然としないのである。

 

 こうしたことを考えれば、ローマ教皇のいう、平和は、日本に核武装をさせないための戦略と疑ってしまうのである。

 加えて、教皇は、日本は「難民をもっと受け入れるべき」とも言っていたが、そもそも、難民は、キリスト教徒が多数派である欧米が、例えばアフリカ大陸を植民地化して、その国境線を勝手に変更して引いたところから、多くの民族紛争が起きているのである。アフリカの諸国の国境線が「直線」であるのは、この結果である。欧米がしたことが原因の全てとは言わないが、その傾向にあることは否定できない。そのために、今に至るも紛争が絶えず、難民が生まれているのである。その責任は、日本にはない。日本は難民を受け入れる責任はない。

嫌味として言えば、そんなに難民のことを心配しているのであれば、バチカンが受け入れてからであろう。

そのようなことで、ローマ教皇の言っていることは、きわめて勝手な言い分のように思えてしまうのである。

 さらに、帰国のときに、日本の原子力発電についても言及していたとのことである。まさに、世界での原発の稼働数を無視して、日本が原発を止めれば、日本は弱体化してしまう。ここでも教皇のいう事は釈然としないのである。 

 

 その昔、豊臣秀吉、徳川家康・徳川幕府はキリスト教を禁止していた。その理由は、日本の平和を維持している体制を脅かす脅威と受け取ったからである。

 例えば世界史の流れを見れば、その当時、キリスト教の布教を受け入れた国の多くが、植民地にされてしまった。その当時のキリスト教の宣教師は、当該国の民衆をキリスト教にして、白人の自由にできる国にして、その後に侵略軍が侵攻した。すなわち、キリスト教の宣教師は、侵略の先兵の役割も果たしていたという歴史もあったのである。

 このような歴史を考えると、今回の来日を素直に喜んで、拍手喝采して有り難がっていることに疑問と違和感を感じるのである。

  ローマ教皇は確かに大変な権威とされている。しかし、それは、時として、他国を弱体化させて侵略するために使われる権威でもあるように思われる。勿論、現在のキリスト教が、昔のように侵略の道具として使われているとは思いたくないし、また、教皇がそのようなことを意識して来日したかは覗いしれない。しかし、そのような見方もできることを忘れてはならないのではなかろうか?

 了

国会審議は、随分と呑気なようで・・・。

2019-12-02 16:56:28 | 時事問題

令和元年12月1日の産経新聞、電子版によれば、

「マイボトルコーヒー駄目? 小泉氏、国会の慣例に一石」と題して、

「小泉進次郎環境相が、慣例に縛られた国会のルールに一石を投じている。」との記事が掲載されていた。

 小泉氏は、国会の審議中に「コーヒーを飲ませろ」との主張である。これは、国会の慣例では冷水が用意されていて、健康管理を理由とする場合には、白湯の持ち込みが認められているとのこと。

 当然であろう、国会審議はそんなに呑気なのか。真剣に審議していれば、コーヒーなどと言いだせる筈はない。コーヒーは嗜好品である。そして、その臭いもする。中にはその臭いが迷惑と考える人もいるであろう。嗜好品を仕事中に摂りたいなどなどは、我がままである。これは、躾の問題である。

 更に、書類がある中、コーヒーをこぼせば染みがついてしまう。その点からも白湯が適当であろう。

 そもそも、国会議員が議場で審議中にコーヒーを飲むのは、ゆったりとしている証拠でもある。例えば、教員が授業中にコーヒーを飲んでいたら、これは、非難に値することであろう。国会議員も例外ではない。小泉氏は自分の置かれた立場を考えるべきである。

 

 小泉氏は、全くの私的な結婚報告を私人である滝川クリステル氏を同伴して、首相官邸で行い、挙句、滝川に発言までさせている。仕事の場と私人の場の区別もついていない、呆れた人物である。国会で「コーヒーを飲みたい」などもこの延長上にあるのであろう。

 

 図書館で本を読みながらコーヒーを飲ませてしまうという、呆れた図書館も確かに存在している。この図書館の本にはコーヒーの染みがあり、ベタベタと張り付いているものもある。結局は、本を読みながらのコーヒーを認めたからである。これは、躾である。今の日本は躾がなっていない。小泉氏の主張はその悪しき見本である。国会に今ある慣例は、変更すべきでない。

 

 国会議員は国民に規範を示す立場である。

 こんな“ゆるゆる”の人物に環境大臣をさせておくことが問題である。

 

なお、本稿は、首相官邸の意見募集に送信しておいたものである。

以上