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大学入学試験

2023-02-20 12:23:59 | 時事問題

 今、大学の入学試験シーズンである。受験生は必死であろう。そして、入学試験問題に誤りがあった場合、有名大学の場合には、それが報道される。しかし、無名の大学の場合には報じられない。

 しかし、大学の有名・無名、ランクはともかくとして、受験生にとっては、人生の岐路であるかも知れない重要なものである。従って、報道されるか否かは別として、すなわち、大学のランクによらず、入学試験問題に間違いがあってはダメなことは当然である。入学試験の問題作成者、関係者は、大学の信用と威信をかけて、全力を尽くして、間違いのないようにすることは当然であろう。

 しかし、どんなに努力しても間違いはあるであろう。昔の話であるが、筆者の経験からも、ほぼ「ある」と言える。

 入学試験問題に誤りがあることは、人間が試験問題を作成する以上、仕方がないことではある。そして、誤りがあったとき、どう対処するかが重要であろう。ところが、マスコミで報じられない大学では、入試問題の誤りについては、何らの対策も取られずに放置されているようなのである。

 因みに、採点をしているとき、「試験問題」と「正解とされている解答」に誤りがある場合、注意して採点していれば通常は気が付く筈である。

 すなわち、採点中に「不正解」とされている解答が解答欄に多く記入されているとき、採点者は、「正答」が誤っているのではないか? と考えて、試験問題を確認する。その結果、「正答」が間違っている場合がある。あるいは、解答が、ばらつく場合、試験問題が不適切な場合がある。これらのことは、注意して採点していれば気が付くのである。しかし、何も考えずに、機械的に漫然と採点していれば、気が付かないであろう。

 そして、そのような漫然と採点している教員が多々いることも確かなのである。しかし、これでは、受験生は堪らない。真面目に採点しろと言いたい。本来であれば「合格する筈の人が不合格」となり、本来は「不合格となる人が合格」するということも生じるであろう。その「1点」で受験生の人生が変わるかも知れないのである。

 昨年のことであるが、筆者の友人である某大学の教授から、「入試問題の誤りを指摘しても」、「受験生に対する説明も」、「入試結果の是正もされない」と、あげく、過去問題として公表している入学試験問題に、その誤った問題と解答がそのまま掲載されているとのこと。これは、「恥ずかしいことだ」、「困ったことだ」との嘆きを聞かされた。その大学は、確かに、有名ではない。しかし、長い歴史を有する学園である。

 この大学の多くの教員が、筆者の友人のように真面目に取り組んで入学試験に携わっていれば、それなりに「できる学生」の確保につながり、また、日々の教育・研究でもそれなりの実績を上げられて、ある程度は大学が発展した可能性もあったのであろうが・・・。

 以下に、その友人から提供された試験問題の一部を例として示す。

*****

◆次の各問い(問1、2)に答えなさい

問1

 1〜5と同じ意味のことわざをア〜カの中からそれぞれ1つ選び、記号で答えなさい。

1  念には念を入れよ

2  餓⻤も人数

3  麻の中の蓬

4  柳に雪折れなし

5  牛に引かれて善光寺参り

 

ア  医者の不養生

イ  枯れ木も山の賑わい

ウ 棚からぼた餅

エ  転ばぬ先の杖

オ  朱に交われば赤くなる

カ  柔能く剛を制す

*****

との設問である。そして、

「5  牛に引かれて善光寺参り」の模範解答として,

ウ  棚からぼた餅 

が正解とされている。

 しかし、この正解は間違っている。

 すなわち、明鏡国語辞典には,【牛に引かれて善光寺ぜんこうじ参り】とは、他人に誘われて知らぬうちによい方へ導かれることのたとえ。

 あるいは、広辞苑には,

 牛にひかれて善光寺参り

 ⻑野の善光寺の近くの不信強欲の老婆が、さらしておいた布を隣家の牛が角にかけて走ったのを追い、知らぬうちに善光寺に駆け込んで霊場であることを知り、後生を願うに至ったという伝説から、ほかのことに誘われて偶然よい方に導かれるのにいう。

 一方、正答とされている「棚からぼた餅」の意味は、同様に明鏡国語辞典には,

【棚から牡丹餅】

思いがけない幸運が舞い込むことのたとえ。

とある。また、広辞苑には,

○棚から牡丹餅

思いがけない好運がめぐってくることのたとえ。たなぼた。あいた口へ餅。

とある。

すなわち、棚から牡丹餅には「よい方へ導かれる」という意味が含まれていないので、

5 牛に引かれて善光寺参り

に最適なものはなく、正解は無いことになってしまう。

*****

 ここに示したものの他に多数の「入試問題と解答の誤り」の書かれたものを頂いた。余りの多量であり、筆者としては、ただただ、吃驚であった。

 これが某大学の入学試問題である。出題者は、試験問題の確認をしていないのであろうか? あるいは、内部でのチェックをしていないのであろうか?  因みに、筆者は、この大学の教員は玉石混交であると感じていた。中には、「何で」、「こんなのが教授になれた??」と言いたくなるような、疑問を持たざるを得ないような人物が多いように感じていた。しかし、中には、筆者などは到底、及ばない、優れている人物もいた。但し、こちらは、ごく少数派である。

 なお、大学教員の採用について、筆者の友人から「おもしろい話」も頂いた。その話を要約すると、

 例えば、ある分野で教員の欠員が生じる。そこで、欠員補充の採用を任された教員が人選をする。そのとき、自身の地位を脅かす可能性のある、優秀と見られる人物は採用しない。自身より学問的に程度が低い人物を採用する。このようにすれば、採用人選をした人の地位は脅かされることがなく安泰となる。これを何代か繰り返すと、その大学の教員は、ガラクタばかりになる。こうなると、向上心もなく、教育・研究も形骸化して、学園は、「ガラクタ教授ドノ」の「楽園」となる。但し、「明日は地獄」の寸前にある「楽園」の完成である。楽園に住む人達は、その程度の未来も見通せない人達ばかりとなる。

 友人は、こうした点について、学園の危機と改革を教授会で指摘し、あるいは、全教員に文書を配っても「何の反応もない」と嘆いていた。恐らく、近い将来に、楽園は崩壊するであろうと・・・。

 このように、この大学では、楽園に住む人達による悪影響が出ていて、入学試験の問題作成でも「楽園」ぶりを発揮しているのであろう。

 この例を見て思うのは、入学試験問題については、外部との相互検証の制度が必要なのではないか? と考える。文部科学省は、これを義務付けするべきであろう。

 例えば学術論文では、論文は所属する学術学会に提出する。その結果、論文誌に掲載されるためには、「査読」という制度により、当該学会の査読委員によって、検証がされている。この査読委員は、被査読者には、誰がしているのかは知らされない。そして、「査読済論文」と「査読ナシの論文」とは明確にその価値が区別される。勿論、学術学会も多々あり、そこには程度の差もある。従って、査読済みであっても絶対に信用できるものではないことも確かではあるが、それでも、査読は相当に真剣に行われているのである。

 入学試験は、人の人生を左右する可能性があるものであり、もっと真剣に取り組むべきであろう。そのためには、例えば学術学会における、査読のような制度が必要なのではなかろうか?

 入学試験問題の誤りで、泣く受験生を出してはならない。

【了】

 

 

 

 



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