大分発のブログ

由布・鶴見やくじゅうをメインにした野鳥や山野草、県内四季折々の風景などアウトドア写真のブログです。 

二項対立

2022-06-12 00:21:00 | 哲学
 動と静、生じることと滅すすること、有と無、これらは二項対立の関係にあるといわれていますが、それに関する記事や解説をいくつか選んでみました。 

二項対立 dichotomy

 二項対立(にこうたいりつとは論理学用語の一つ。二つの概念が存在しており、それらが互いに矛盾や対立をしているような様のことを言う。元々は一つの概念であったものを二分することにより、それを矛盾や対立をする関係へと持っていくことを二項対立と言うこともある。

 陸と海、子供と大人、彼らと我々、臆病者と英雄、男らしさと女らしさ、既婚者と独身者、白と黒、運動と静止、明と暗のように、相対立する一対の概念を二項対立という。 (二項対立 wiki)

 この解説には違和感がありますね。陸と海が対立し、子供と大人が矛盾する云々とは考えにくいのでwikiの解説は疑問。

 つぎはデジタル大辞泉の解説 
 
✧二項対立(dichotomy)

 論理学で、二つの概念が矛盾または対立の関係にあること。また、概念をそのように二分すること。内側と外側、男と女、主体と客体、西洋と非西洋など。二分法。

 内と外が対立し男と女が矛盾しているとは考えにくいのでこの解説も疑問。

 これも難しい言葉をつかってますがこちらのほうがよいと思います。

 ✧対概念(ついがいねん)

 互いに対照的な要素を持ち、一方が言及される場合には自ずと他方の存在が前提されている、といった関係の概念。対をなす二つ一組の概念。
     「実用日本語表現辞典 」

*調べると「dichotomy」は二つに分ける、分類する、くらいの意味で、対立とか矛盾の意味はあまり含まれていないようです。単なる分類、区別、あるいは差異くらいの意味合いの言葉だと思われます。対立を強調する、「二項対立」というより比較の対象によって使い分けできる「二項関係」のほうが関係を考える上ではよいと思います。

やや難しい言葉を使ってますがこれなら納得。

✧反対概念

 論理学で、同一の類概念に属する概念のうち、その内包上最も対立度ないし差異の大きな概念。例えば、白と黒の関係。両者の間に灰色という中間の概念が介在する点が矛盾概念と異なる。

 内包はある概念がもつ共通な性質のことを指し、外延は具体的にどんなものがあるかを指すものである。 これらは互いに対義語の関係をもつ

デジタル大辞泉

対義語・反対語辞典
対義語・反対語・反意語・反義語とは、意味の上で互いに反対の関係にある語をいう。「善」⇔「悪」のように全く反対の概念を表す語を反対語、「右」⇔「左」のように、組になる語を対義語と区別することもある。

 わたしとしてはこれが一番よかった。

✧はんたい言葉

 




 矛盾概念には両者の中間にあたる概念がなく、反対概念には中間の概念があるので区別できます。

○✕  ○(△)✕
生死  生(病老)死
生滅  生(住異)滅

 二項対立の考え方を解消する方法のひとつに弁証法があります。「正」「反」の対立関係から、より高次の「合(ジンテーゼ)」が導かれることを、ヘーゲルは「アウフヘーベン」という言葉を用いて説明します。
 たとえば男を「正」とするなら女が「反」なります。これを結びつけると夫婦になります。さらに子供が生まれると家族になります。アウフヘーベンには高次にすると同時に保存するという意味があります。男女、子供と老人を含む概念としては「家族」という概念があります。そして男、女、子供、老人という個々の存在はそのまま保たれています。各自がその性質を保ちながら統一されるのがアウフヘーベンです。

 弁証法的にみると、陸と海はつながっています。子供と大人もつながっています。彼らと我々も臆病者も英雄も同じ人間です。男と女は結びついているもの、やがて結ばれるものです。白と黒は連続しています。運動と静止、明暗も連続しています。

 内と外はつながっています。男と女は結びついています。主体と客体も切り離せません。西洋と非西洋だけは矛盾概念です。

 このようにすべてのつながっているもの、結びついているもの、連続しているものを分断するのが二分割思考、二項対立、二元論です。では、二項対立の反対は何でしょうか。量子力学の概念ですがこれかな。

✧相補性

 相補性とは、光や電子の粒子性と波動性や、古典論における因果的な運動の記述と量子論における確率的な運動の記述のように、互いに排他的な性質を統合する認識論的な性質であり、排他的な性質が相互に補うことで初めて系の完全な記述が得られるという考えのことである。

✧相補関係

 複数の人や物事が、互いに相手を非常に重視する関係にあること 。緊密な関係、2つで1つ、一心同体、相補的な関係、相補的関係、互いを補い合う関係、2人で1セット等
Weblio類語辞書

これで決まりですね。


✧表裏一体

 相反する二つのものが大もとでは一つであること。また、二つのものの関係が密接で切り離せないこと。

 表裏一体とは、「密接に結びついていて決して切り離せないこと」を意味します。 コインの表と裏は本来別々の面であっても、決して切り離すことはできないことから、二つのものが密接に結びついた関係にあるなら、それは一つであるという考えのもと用いられる言葉です。

 表裏一体の類義語・対義語 類義語には、決して分けられないという意味の「不可分」などが挙げられます。また「陰と陽」などの考えかたも表裏一体と同じだといえます。
 また対義語には「二律背反」が挙げられます。互いに矛盾し、決して交わらない二つのことを指す言葉です。

 なんのことはない、人間が表裏一体そのものでした。
    
  
  画 ルネ•マグリット






奇妙なもの

2022-06-09 09:11:00 | 哲学
 プラトンの対話篇「パルメニデス」において、主人公のパルメニデスと若きアリストテレスの「一なるもの」に関する対話のさいに出てくる話ですが、動いているものが静止に、あるいは静止しているものが動きに転換するさい、そこには何か非常に奇妙なものが現れると言います。
 
 忽然(こつぜん)

 •••それは〈たちまち〉(忽然)というものだ。というのはそれから両者いずれへでも変化できるような、何かそういうものを指し示しているように思われるからだ。というのは、止まっていることからの変化は、ものがまだ止まったままでいるうちは起こらないし、動きからの変化も、それがまだ動いているままでは起こらないからだ。

 ところがこの〈たちまち〉というのは、本来的に何か奇妙なあり方をするものであって、動と静の中間に座を占めて、しかもいかなる時間のうちにもないものなのである。

 そして動いているものが静止に変化し、静止しているものが動きに変化するのには、まずこの〈たちまち〉に入り、またこの〈たちまち〉から出なければならないのだ。

 「一」もまた、それが静止したり動いたりするなら、その両者どちらへも変化できるものであろう。なぜなら、そういう変化によってのほか両者いずれをもなすということはできないからだ。しかしそれの変化は、忽然ととして変化するという仕方でなのだ。

 そしてそれが変化するとき、それはいかなる時間のうちにもないだろう。また、その場合、動いてもいなければ、静止してもいないだろう。21−156D

 無限進行

 26)では無限進行について語られています。もし「一」がなく「多」だけがあれば、始めのさらに始め、終わりのさらに終わり、中間のさらに中間が現れると言います。


 思考の上だけの存在

 いつでもそれらの何かを、あたかも実在するかのように、人が思考の上だけでとらえるとしたら、その始めに対しては、いつもそれより先にもっと別の始めが現れるし、またその終わりにたいしては、その後にまた別の終わりが残されているのが見られ、その中間のところには、それよりももっと中になるーもっと小さなーものがいくらも現れるだろう。それは「一」は実際には存在しないのだから、それらのそれぞれを「一」としてとらえることはできないという理由によるのである。

 つまり人が思考の上だけでとらえる存在なるものはすべて、くだけて細分されなければならないものなのだとわたしは思う。なぜなら、そこでとらえられるのはいつも統一性を欠いたかたまり(集塊)なのだろうからね。
 
 もし一がなくて多があるとすればという前提を置くことによってだがね。(26―165B)
 プラトン「パルメニデス」より

 このように、「一」なしに「多」を考える場合、始まりにはさらにその前の始まりがあり、終わりにはさらにその後の終わりがあり、中間にはさらにその中間が現れる。それはもろくてくずれやすいかたまり(集積、集塊)となって現れる。そしてそれは夢の中の幻のように、ただそう見えているだけで、実際はそうでないことが、語られます。

 有ると無いは同じ

 物語の最初のほうに、
万有が「一である」ことを主張する師のパルメニデスにと、それが「多ではない」ことを主張する弟子のゼノンに向って、二人のそれぞれが、同じことを言っていながら、同じでないような言い方をするのは、世人には分からないように密かに師の説の証拠づけを行っているのだとソクラテスが指摘する場面があります。2―12B

 背理法(はいりほう)

   
  画 ルネ•マグリット

 人を正面から見るのと背後から見るのとでは違うように、正面からの命題を反対側から見た命題です。大まかな流れは、以下のようになります。


「○○である」という命題Aを証明したい

命題Aを否定する、つまり「○○ではない」という仮定を立てる

「○○ではない」という仮定を立てたことで起こる矛盾を探す

命題Aの否定(=「○○ではない」)はおかしい、と言える

命題Aは正しい!(=「○○である」)と言える

「一である」と「多ではない」。意味はほとんど同じですが、紛らわしいものです。

背理法には「矛盾が生じたならそれは正しくない」という前提がありますが、この前提そのものに疑問があります。矛盾が生じるからといってそれが間違っているとは断定できないものだと思います。
 

パルメニデスの不生不滅

2022-06-08 09:36:00 | 哲学
 パルメニデスの弟子のゼノンに二分法のパラドックスがありますが、この二分法はパルメニデスの主張する排中律と内容はほぼ同じものです。また、この二分法や排中律を使用するとプラトンが対話篇「パルメニデス」でいうところの“奇妙なもの”が現れてきます。「矛盾」です。

 以下はパルメニデス「自然について」の要約。

 自然について

 ここに二つの道がある。片方は語ることも考えることもできない道である。他方は真実に存在する道である。どちらの道を選ぶかは自明のことであろう。

 われわれが語ることのできるのはただ一つ。それは「ある」ということについてだけなのであり、これは不生不滅なものである。

 わたしは告げる。「その姿は完全であり、不動であり、永遠なものである。」そしてこのことを示す証拠が非常に多くある。

 またそれは過去に「あった」ものでもなければ未来に「あるだろう」ものでもない。それはまさに今「ある」のだ。すべてが一つのものとしてその全体が一挙に現れているのだ。

 「ある」の始まりをなぜもとめるのか? どこからか現れ出たとでもいうのか? それは『無からである』というのをわたしは許さない。なぜならこの「ない」ものについては語ることそも考えることもできないからである。何もないところから来たのならば,なぜそれを早めるのではなく後から生じさせる必要があったのか。したがって、それ全く「あるか」、全く「ない」かのどちらかでなければならない。

 思考することと、思考の対象とは結びついている。なぜならば、それについて考えたり話したりする対象がなければ、人は思考することができないからである。まことに「ある」ものの他には何ものも 現にありもせずこれからあることもないだろう。運命の女神が「ある」ものを縛めてそれを完全にして不動のものにしているのだから。

 そもそもどうして「ある」ものが後になって滅びるだろうか。どうして生じるだろうか? そのようなものはかりそめのものであり、常に「ある」ものではない。かくて「生成」は消し去られ、「消滅」はその声が聞けないことになった。

 さらにまた「ある」ものは分割することができない。すべてが一様であるから。またそれは、ここでは多くあったりあちらでは少なくあったりすることになく、すべてがつながり全体があるもので充ちみちている。このゆえに全体が連続的である。あるものがあるものに密接しているのであるから。

  それはあらゆる方向において 完結していて、譬えて言えばまんまるい球の塊のようなもの、まん中からあらゆる方向に均等を保つ。場所により大きくまたより小さいということはないからである。

 それは同じものとして同じところにとどまりつつただ自分だけで横たわり、そしてそのようにしてその場に確固ととどまる。なぜならば力つよき必然の女神が 限界の縛めの中にそれを保持し、その限界がまわりからこれを閉じ込めているから。

 このゆえにあるものが不完全であることは許されない。 それは何も必要としないから。もしも不完全ならすべてを必要としたことであろう。

 ここで私は、真理についての信頼に足る言葉と考えをやめることにしよう。これよりのちはわたしの虚構を聞きながら人々の意見を学ぶがよい。
    パルメニデス

   
パルメニデス[前515ころ~前445ころ]古代ギリシャの哲学者。エレア学派の祖。真に「有るもの」は、唯一・不生不滅・不変不動の充実した完全なものとして球体とされ、一切の変化を仮象と見なした。(デジタル大辞泉の解説 )

 無からは何も生じない

 パルメニデスの説の根幹は「ある」は「ない」から生じないことであり、その背面の論理として「ある」は「ない」に転化しないことが主張されています。
 
 ただ、この説の難点は「ある」が「有る」なのか「在る」なのかがはっきりしないことです。というより二つが混在してるようです。文章のはじめは存在の「在る」で途中の時間や思考に関するところが判断の「〜である」のあるになり、そして終わりのほうがまた存在の「在る」になっているように思われます。

 この説の面白いのは「ある」と「ない」の転化を禁じただけで現実に経験する疑うことのできない明白な事実である生成と消滅、運動と変化、多数性と多様性が消えてしまうことにあります。

 簡単に有無で考えると無→有への転化、すなわちこれまで無かったものが有るようになるのが発生。有→無への転化、すなわち有るものが無くなるのが消滅。

 無→有 発生
 有→無 消滅

したがって有無の転化を禁じると生じることもなく滅することもなくなります。これがパルメニデスの言う「不生不滅の存在」という意味かどうかはわかりませんが、西洋の「実体」という概念のさきがけになっているのは確かなようです。  


   

 真理をめぐる重要な点は、真理を実体としてでなく、主体としても捉え、表現することである。ヘーゲル

 無からの創造

 発生と消滅という言葉は客観的な表現ですが、これを主観的に表現すると宗教的世界観になります。主観的にみるとはそこに「意志」を入れてみることです。

 すると無から有の発生は創造へ、有から無への消滅は破壊へと言葉が変わります。天地創造とこの世の終末です。この有と無と生成•消滅の不可分性を表したのが古代インドの宗教です。

 三神一体

 
エローラ石窟寺院のトリムールティ像。

 三神一体(さんしんいったい)またはトリムールティはブラフマーとヴィシュヌとシヴァは同一であり、これらの神は力関係の上では同等であり、単一の神聖な存在から顕現する機能を異にする3つの様相に過ぎないというヒンドゥー教の理論である。すなわち、ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァの3柱は、宇宙の創造、維持、破壊という3つの機能が3人組という形で神格化されたものであるとする。一般的にはブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァがそれぞれ創造、維持、破壊/再生を担うとされるが、宗派によってバリエーションが存在する。wiki
  


 新しさの出現

 新しさは、それを生じさせる原因の外に立って観察する者にとっては多大な″偶然″の関与ということでしかあり得ないが、その内部に立つ者にとっては、それは″自由な創造的活動性″ である。 世界の中に新しさが出現するということを否定するふつうの議論は、それが突然、無から躍り出るとすれば、世界の理性的な連続性を破ることになる、というものである。

W・ジェームズ純粋経験の哲学p166~

 仏教の不生不滅

 生じる時はただ空が生じるのみ。滅する時はただ空が滅するのみ。実にひとつとして生じるものなく、実にひとつとして滅するものはない。
      達摩二入四行論 5

 あらゆるものが有ると思う時も、その有るもの自ずから有るのではなく自分の心が有るとしているだけであり、またあらゆるものが無いと思う時も自分の心が無いとしているだけである。他の存在についてもこのように自分が勝手に「有る」と思い、「無い」と思っているだけである。
これを妄想という。
     達摩二入四行論49


*最初の文に関連記事を継ぎ足し継ぎ足ししたのでツギハギだらけになってしまいました。悪しからず。



ゼノンのパラドックス/飛ぶ矢

2022-06-07 23:04:00 | 哲学

飛んでいる矢は止まっている

編集

「すべてのものはつねに静止しているか、動いているかである。何ものもそれ自身と等しいものに対応しているときには常に静止している。しかるに動くものが常に、今、それ自身と等しいものに対応しているとするならば、動く矢は動いていない。」とかれは言うのである。

『自然学』第6巻第9章 239b5-

 アリストテレスは続けて、「この議論は、時間が今から成ると仮定することから生ずる」と述べています。

 じつは、このゼノンの第三逆理がそのまま二分法とアキレスと亀のパラドックスの答えになっています。この三つの共通点は動きと位置の関係において、「あるものの位置が特定されるなら、そのとき、それは動いていない」というものです。

 第一逆理でランナーが走る距離の中間点に到達した時、第二逆理でアキレスが亀のいた位置に到達した時、そして第三逆理で飛んでいる矢がその瞬間の位置に等しく対応している時に、動いているものは動いていない、と言っているのです。

 運動するものの位置を定めようとすれば、その動きを止めねばならず、逆に、動きを知ろうとすると今度は位置が定まらなくなるということです。もっと簡単に言えば、上を見ると下が見えず、下を見ると上が見えなくなるのと同じ理屈です。ここでは動と静との二項対立がテーマになっています。位置についてはベルクソンの次のような考えが参考になると思います。


 位置

 動くものの運動は内から検討されると単純な事物であり、外側から、そして相対的に検討されると、それは複合体となります。なぜでしょうか。それは、動くものの位置が運動の一部ではないからです。

 運動とはもろもろの位置からつくられているわけではありません。その証拠に、もろもろの位置を並べ、位置に対して位置を並置するならば、不動性に対して不動性を並置することになります。そのようなやり方では、決して運動を手に入れることはないのです。 

 動くものの位置とは何でしょう。それはある想定を行うことです。こういうことです。あなたは、運動の外側に存在します。あなたはそれを見つめます。あなたは、その動くものがある点で停止したと想定するのですが、実際にはそこで停止はしていません。それでも、そこで停止したかもしれない、とあなたは考えます。あなたが動くものの位置と呼ぶもの、それは、停止の想定ということです。

 動くものは決して、それが過ぎ去る点には存在しません。もし動くものが過ぎ去る点に存在するのであれば、それはある地点と合致することになるし、その結果、運動は不動性であるということになるでしょう。

 さて、動くものは、もし停止したならば、そこに存在することになるでしょう。そして、この「もし動くものが停止したならば」という想定こそ、位置と呼ばれているものなのです。

図1


 それはしたがって、部分的に記号的な何か、不動性による運動の表象なのです。不動性によって運動を作ることは決してできない、ということは明らかです。不動性に不動性を付け加えながら、私たちは、運動の一種の贋造へと至り、私たちの思考にとっての運動の等価物に至ります。ですが、模倣は絶えず不完全なものであり、私たちは、ますますそれをモデルに近づけることを強いられます。何度も点を挿入し、絶えず位置に位置を付け加えなければならないのです。こんなふうに私たちは、無限に向って歩みを進め、尽きることのない数え上げの途上にいるのです。

ベルクソン『時間観念の歴史』「相対的な知と絶対的な知」より


 運動や時間のような連続するものを視覚化することをアナログといいます。

アナログ
analogは、連続した量(例えば時間)を他の連続した量(例えば角度)で表示すること。デジタルが連続量をとびとびな値(離散的な数値)として表現(標本化・量子化)することと対比される。時計や温度計などがその例である。エレクトロニクスの場合、情報を電圧・電流などの物理量で表すのがアナログ、数字で表すのがデジタルである。元の英語 analogy は、類似・相似を意味し、その元のギリシア語 αναλογία は「比例」を意味する。Wikipedia

 アナログ時計や温度計は位置と動きの関係を考えるときにとても参考になります。時計を眺めながら考えると何かがひらめくかもしれません。
見ている時、針は動いていても数字は不動ですが、考える時は数字の変化を動きに等値しているはずです。止まっている数字を動かしているということです。








二分法のパラドックス

2022-06-07 22:29:00 | 哲学

 二項対立としても知られる競技場のパラドックスでは、ゼノンはどんな運動選手も、ゴール地点には決して到達出来ないだろうという。

  

 運動選手が競技場のコースを走ろうとすれば、まずコース全体の中間点に到達しなければならない。この時点で、走る距離は元の長さの半分になっている。残りを走ろうとすれば、また、その中間点に到達しなければならない。残された距離は元の1/4だ。残りの1/4を走るには、またまたその中間点に到達しなければならない。残りは元の1/8だ。そうやって走っていくと、いつでもゴールに着くためにはその直前に残した距離の半分が残ってしまう事になる。つまり、運動選手はゴールに到達できないという事になる。

アリストテレスは答えて言う。

「一つの線分が二分割の集積として完全現実的にあるとする者は、分割点を始点と終点と二つに数えて、運動を連続的ではないものとし、停止させることになるだろう。」

アリストテレス「自然学」8卷8章

 別の図に変えてみます。こちらのほうが動きが速いのでゼノンの前提の不可能なことが分かりやすいと思います。


 放たれた矢はまず的までの半分の距離を飛ばなければならない。的の半分の点にまで到着したとしても更に残りの半分の半分にも、更にその残りの半分にも同様に・・・と、到着すべき地点が限りなく前に続く故に到着することができない。だから矢は的に当たらない。

 アキレスと亀の場合と同じく、この話には現実ではあり得ない事柄が挿入されていますが、どこでしょう。それは実際に飛んでいる矢の場合、的との半分の距離Aに達した後に残りの半分の距離というのが設定できないということです。だから半分の半分・・・以下の話はゼノンの作り話なのです。アリストテレスの指摘したように最初の分割点を仮の終点とし、次にその終点を仮の始点として二重に数えることで話を振り出しに戻しています。そしてこれが無限進行の原因となっています。

 また、線分の分割と動きを結びつけて考えていることにも問題があります。矢を時計の針に置き換えてみるとよくわかりますが、針の動きは文字盤の数字とは関係ないのです。文字盤の数字が細分化されるにつれて針の動きが速くなったり遅くなることはありません。要するに時間や空間を分割しているのではなく測りの数字を分割しているだけなのです。

  

      1+1/2+1/4+1/8+1/16+1/36・・・・数学的解答としては、このように無限級数の収束で説明できるとしていますが、答えになっていません。数学的解答とは頭の中で考えただけで現実味のないものです逆にますます現実から離れていくものです。たとえば1/2 + 1/4とは具体的にどういう状態でしょうか。また収束したり到達するだけではなく、アキレスと亀の場合では追い抜いたあとのことまで説明しなければならないのです。

 このバラドックスの核心は次の点にあります。すなわち、運動と位置の両方を同時に確定することはできない、ということなのです。運動しているものの位置を定めようとすれば、その動きを止めねばならず、逆に、動きを知ろうとすると今度は位置が定まらなくなるということなのです。

 運動選手がコースの中間点に達した時、あるいは矢が半分の距離に達した時、その時、無意識のうちに自分がそれらの動きを止めて考えていることが自分で確認できると思います。動きを止めなければ残りの半分の距離が設定できないからです。自分で動きを止めていながらそのことに気づいていない、というのが一種の盲点のようになっているのです。

『分けてはならぬ。』

これはゼノンの師であるパルメニデスの禁令です。パルメニデスは二つ以上のものを背理とみなしまし

た。一つのものを二つに分けるやいなや、その間を三つと数えねばならず、これが限りなく続いてしまうからです。二分法とは一つのものを、あるいは全体が連続的であるものを分けて隔ててしまう方法なのです。


 ではAからBへはどうして行けばいいのか?答えは簡単です。何も考えず普通にAからBへ行けばいいのです。無限小とは分けると現れ、分けなければどこにもないのです。問いがあれば答えがあり、問いがなければ答えもないのと同様です。


*連続的推移を数字で表すのは無理なので数字ではなく記号の「~」(波ダッシュ)をつかいます。AからBはA~BでAB両方をふくんでいます。


  

「考えれば考えるほど間違ってしまう」というお話でした。


   ✧✧

 次の記事「飛ぶ矢」では動きと位置の関係をベルクソンの説を加えてもう少しくわしく解説しています。前の記事「アキレスと亀」との三部作です。