二項対立としても知られる競技場のパラドックスでは、ゼノンはどんな運動選手も、ゴール地点には決して到達出来ないだろうという。
運動選手が競技場のコースを走ろうとすれば、まずコース全体の中間点に到達しなければならない。この時点で、走る距離は元の長さの半分になっている。残りを走ろうとすれば、また、その中間点に到達しなければならない。残された距離は元の1/4だ。残りの1/4を走るには、またまたその中間点に到達しなければならない。残りは元の1/8だ。そうやって走っていくと、いつでもゴールに着くためにはその直前に残した距離の半分が残ってしまう事になる。つまり、運動選手はゴールに到達できないという事になる。
アリストテレスは答えて言う。
「一つの線分が二分割の集積として完全現実的にあるとする者は、分割点を始点と終点と二つに数えて、運動を連続的ではないものとし、停止させることになるだろう。」
アリストテレス「自然学」8卷8章
別の図に変えてみます。こちらのほうが動きが速いのでゼノンの前提の不可能なことが分かりやすいと思います。
放たれた矢はまず的までの半分の距離を飛ばなければならない。的の半分の点にまで到着したとしても更に残りの半分の半分にも、更にその残りの半分にも同様に・・・と、到着すべき地点が限りなく前に続く故に到着することができない。だから矢は的に当たらない。
アキレスと亀の場合と同じく、この話には現実ではあり得ない事柄が挿入されていますが、どこでしょう。それは実際に飛んでいる矢の場合、的との半分の距離Aに達した後に残りの半分の距離というのが設定できないということです。だから半分の半分・・・以下の話はゼノンの作り話なのです。アリストテレスの指摘したように最初の分割点を仮の終点とし、次にその終点を仮の始点として二重に数えることで話を振り出しに戻しています。そしてこれが無限進行の原因となっています。
また、線分の分割と動きを結びつけて考えていることにも問題があります。矢を時計の針に置き換えてみるとよくわかりますが、針の動きは文字盤の数字とは関係ないのです。文字盤の数字が細分化されるにつれて針の動きが速くなったり遅くなることはありません。要するに時間や空間を分割しているのではなく測りの数字を分割しているだけなのです。
1+1/2+1/4+1/8+1/16+1/36・・・・数学的解答としては、このように無限級数の収束で説明できるとしていますが、答えになっていません。数学的解答とは頭の中で考えただけで現実味のないものです逆にますます現実から離れていくものです。たとえば1/2 + 1/4とは具体的にどういう状態でしょうか。また収束したり到達するだけではなく、アキレスと亀の場合では追い抜いたあとのことまで説明しなければならないのです。
このバラドックスの核心は次の点にあります。すなわち、運動と位置の両方を同時に確定することはできない、ということなのです。運動しているものの位置を定めようとすれば、その動きを止めねばならず、逆に、動きを知ろうとすると今度は位置が定まらなくなるということなのです。
運動選手がコースの中間点に達した時、あるいは矢が半分の距離に達した時、その時、無意識のうちに自分がそれらの動きを止めて考えていることが自分で確認できると思います。動きを止めなければ残りの半分の距離が設定できないからです。自分で動きを止めていながらそのことに気づいていない、というのが一種の盲点のようになっているのです。
『分けてはならぬ。』
これはゼノンの師であるパルメニデスの禁令です。パルメニデスは二つ以上のものを背理とみなしまし
た。一つのものを二つに分けるやいなや、その間を三つと数えねばならず、これが限りなく続いてしまうからです。二分法とは一つのものを、あるいは全体が連続的であるものを分けて隔ててしまう方法なのです。
ではAからBへはどうして行けばいいのか?答えは簡単です。何も考えず普通にAからBへ行けばいいのです。無限小とは分けると現れ、分けなければどこにもないのです。問いがあれば答えがあり、問いがなければ答えもないのと同様です。
*連続的推移を数字で表すのは無理なので数字ではなく記号の「~」(波ダッシュ)をつかいます。AからBはA~BでAB両方をふくんでいます。
例
「考えれば考えるほど間違ってしまう」というお話でした。
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次の記事「飛ぶ矢」では動きと位置の関係をベルクソンの説を加えてもう少しくわしく解説しています。前の記事「アキレスと亀」との三部作です。
走ってる人が目指すのは、ゴールラインじゃなくて
ゴールラインの一歩先だからです。だから、有限の時間で
必ずゴールします。矢の場合も同じです。だって
的に刺さってる訳ですから、的より先に進むのです