スーフィズムにとっての修行とは、人間が神に近づくための準備以外のなにものでもない。修行の眼目は自己の行為を神の心に全面的に一致させるとともに、内面的 に人間と神とを隔てる一切のものを徹頭徹尾排除することにある。そのための修行法 を体系づけたものが、マカーマート(神秘階梯)である。
スーフィーの修行は、初歩から奥義まで、通常6つの階梯(段階)をひとつひとつ順を追って進められる。それらはきわめて厳格精綴なシステムに則っている。階梯の数や階梯ごとの修行法は宗派によって差異があるものの、基本構造はおおむね共通している。スーフィーの修行は勝手に自分のみで行うものではなく、必ずムルシドやシャイフないしはピールとよばれる導師の指導のもとで師弟相承されるのである。
代表的な第6までの階梯、さらにスーフィズムの終着点ともいうべきファ ナー(神秘的合一)にいたる道程は以下の通りである。
第一階梯・悔悟(タウバ)
「階梯」について記されたあらゆるリストの、最初の項目は「悔悟」で占められている。ムスリムの語法では「回心」を意味し、新しい生が始まる転換点を示すものである。一般の信者にとり、「悔悟」とは犯した罪を改悛することを指す。スーフィーの場合は、神を忘れて過ごした日々を「悔悟」する。そして全身全霊を傾け、字義通り「再び神を振り返る」のである。
慣習的に、回心し新たに入門者となったムスリムは、シャイフと呼ばれる精神的導師に最大限の敬意を払い、甘んじてその指導に自らを委ねる。フジュウィーリーは以下のように語っている。
『スーフィーのシャイフ達が従う規範とは次の通りである。現世を捨てる目的で新たな入門者が彼らの許へやってきたとしよう。最初に、彼らは入門者に三年間の精神的修行を課す。修行の成果を、入門者が充分身に付けることが出来たならそれで良い。だがそうでない場合、彼らは入門者に『道』に入ることは許されないと告げる。
最初の一年は人に奉仕することが求められる。二年目は神に奉仕することが求められる。そして三年目は、自分の心を見張ることが求められる。人々に対して真の奉仕が出来る者とは、自分を下僕とみなし、自分以外の人々を主人とみなすことが出来る者だけである。すなわち、どのような場合においても自分を除く全てを優れたものとみなし、分け隔てなく奉仕することが自分の義務であると考えるようにならなくてはならない。また神に対し真の奉仕が出来る者とは、何の打算も意図も無く、神が神であるがゆえにのみ祈る者だけである。現世や来世における利益を求めて祈る者とは、神ではなく自分に対して祈る者である。そうした利己的な欲望を捨て、神に向き合うがために祈る者だけが、神に仕えることが出来る。
最後に、何の迷いも憂いもない者のみが、自分の心を見張ることが出来る。神との交わりが邪魔されないよう、不注意によって生じる思いがけない攻撃から心を防衛しなくてはならない。そのためにも、思考を集中させ心配を取り除く必要がある。
このように、これらの条件を入門者が満たすことが出来たなら、彼は単なる模倣者ではなく、本物の神秘主義者の証として、「ムラッカア」と呼ばれる修行者たちが身につけるつぎはぎの外衣を与えられることになるだろう。
第二の階梯・律法順守(ワラア)
これは、通常のムスリムのための義務はもちろんのこと、実行避忌が望ましいとされていることのほか、その適否が疑わしい行為も一切慎み、しかも常に神が自己の行動を注視しているとの自覚をもつことである。
第三階梯・隠遁(ハルワ)と独居(ウズラ)
イスラム教では乞食が原則的に禁止されていて、自分で生活の糧を得なければならない。そこで可能な限り世間から身を引き、人々との交わりを断って現世の束縛を断ち、世俗的欲望を除去することてある。
ただし、地域などにもよるが、修行者や聖者が乞食をすることはある程度黙認さ れていたようである。有名なイスラム神秘学者ジュナイドは、その弟子シブリーの自尊心を打ち砕くために、あえて1年間乞食をさせているほどだ。
第四階梯・清貧(ファクル)と禁欲(ズフド)
スーフィーの別名がファキール(貧者をいう原義。転じて聖者)であることからも明 らかなように、清貧と禁欲の修行は、諸階梯中、最も重要とされている。清貧とは、生活していくうえで最低限必要なもの以外は一切所有せず、富や名誉や権力 などに対する欲望を全面的に否定することである。あるスーフィーの修行者は、寝る ためのゴザと枕用の煉瓦一個、それに食事用と洗面用を兼ねた皮製の器しか持たなか ったという。
貧しさはスーフィズムの初歩にすぎない。スーフィーの理想とする清貧はさらに高い。
ジャーミーは言っている。
『貧者は神の意にかなうためにあらゆる現世的なものを放棄する。しかし彼らの多くは三つの動機に強いられている。最後の審判の日に楽な判定が下されるようにとの願望もしくは罰を受けるのではないかという恐怖、天国への願望、精神的平和と内面的平静である。こうして彼らは自分自身を利するために努めているのである。スーフィーを「貧乏人」から区別するのは「自我」の欠如である。』
第五階梯・心との戦い(ムジャーハダ) いかに外的行為が制御されていても、内面がともな っていなければまったく無意味である。そのため、この階梯においては、人間の内面 の悪い心、つまり、嫉妬、敵意、高慢、傲慢、怒りなどと戦い、それらの矯正、克服 に努める。
無知、誇り、ねたみ、残忍、といったこれらの属性は、意志が神に完全に従属し、心が神に集中する時、それらと対立的な善い性質によって消滅され、置き換えられる。スーフィーのいう「自己に死ぬこと」とは「神の内に生きる」ことである。
自己の意志を抹消したスーフィーは、専門用語で「黙従」または「満足」と「神への信頼」の階梯に達したと言われる。
第六階梯・神への絶対的信頼(タワックル)
これは、個としての自己の意志を放棄してすべてを神のなすがままにゆだねることである。まるで死んでいる人間のように完全な受動性になるのである。こうして自己および周囲に起こることすべてを、神の意志として受け入れるという境地である。
これらの第1から第6までの階梯をすべて昇り終えると、ようやく神に接近するための 準備が整ったと見なされる。これらすべての神秘階梯を通過したスーフィーは、神に よって霊知(マーリファ)と真理(ハキーカ)と呼ばれる一段高いレベルの意識に引 き上げられるのである。
R.A.ニコルソン「イスラムの神秘主義」岩波新書「イスラム教入門」ほかより