大分発のブログ

由布・鶴見やくじゅうをメインにした野鳥や山野草、県内四季折々の風景などアウトドア写真のブログです。 

負けるが勝ち/スーフィー語録

2020-12-24 08:17:00 | イスラム/スーフィズム
 一頭のロバ

 昔あるスーフィーの教師が弟子を相手にかけごとをしました。

「わしは毎日のように気がせわしい。おまえとかけごとがしたい。お前がもし勝ったら、センベイを買ってわしによこせ、わしがもし勝ったら、わしがセンベイを買っておまえにやる」

弟子
「どうど、カケをおだしください」


「負けることが肝心だよ。勝つことが問題ではない。まず、わしは一頭のロバだといく」

弟子
「わたしはロバの糞」


「ほれ、おまえがわしにセンベイ買いなさい」

弟子
「だめですよ、先生がわたしにセンベイを買わなくちゃ。師弟あい争うのは、いけませんよ」


「この問題は、戦争や政治と同じだ。役所できめられなければ、村長をよびだして決着つけねばならん。ここに三百人ばかりの人々がいる。その中に誰かいないわけではあるまい。皆の衆よ、わしのために決着つけてくれ。客と主と、どちらに理があろうな」

 大衆は決着つけられぬ。
そこで師はいう「目の開いたスーフィーでなくちゃならん」

 三日してから、弟子は気がつく。センベイを買って師に持っていった。

  

 
  ライオン

師は人びとに教えていわれた。 
「わしのところには、洞窟に入っているライオンもおれば、洞窟の外に出ているライオンもいる。しかし、ライオンの子がおらん」 

 ある弟子がでてきて、指をニ、三度はじく。

師はいう。「どうした」
弟子「ライオンの子です」

師「わしがライオンという名をつけることすらまちがいだのに、あんたはそのうえ足蹴にして何とする」

 ひとつの灯火

弟子がたずねた。
「一つの灯火が百千の灯火に燃えうつる、と申しますが、もともと一つの灯火は、どんな灯火なのでしょうか」  

師は片方の靴をけりあげる。そしていう、 
「もしやりてのスーフィーならそんな問い方はせん」

 聖とは何か

 問い「聖とは何ですか。」
 師「凡ではない。」

 問「凡とは何ですか。」
 師「聖ではない。」

 問「凡でも聖でもないときは、どうですか。」 

 師「おお、見事なスーフィーだ。」


 3句

 師は説法のおりにいった。

「朝になるがまだ暗い、暗いが明るくなろうとするところだ。あんたらは、どっちにおる。」

 ひとりの弟子が答えた。「両方におりません。」

 師「それなら中間におるのだな。」

 弟子「もし中間にいたら、両方にいることになります。」

 師「この修業者はこんな言葉を吐くが、3句の内から出られぬままだ。かりに出られたとしても、やはり3句の内にいる。あんたはどうだ。」

 弟子「わたしは3句を使いこなすことができます。」

 師「それだ!なぜそれを早く言わんか。」

 半句

問い「口を開けたら一句になります。どういうのが半句でしょうか」

師は口をあける。

  ロバの神性

 弟子が礼拝してたずねた。「ロバにも神性が有るでしょうか?」

師は答えた。
「無いよ。」
  
 迷わされない方法

 ある日弟子が礼拝してたずねた。

 問い「どのようにしたら他人の言葉に迷わされないでいられるでしょうか。」

 師は片方の足を垂れた。
 弟子はすぐに靴をさし出した。
 師は足をひっこめた。

 弟子「・・・」   

 真実の人

弟子「真実の人の体とは
何でしょうか?」

 師「春・夏・秋・冬だ。」

 弟子「お言葉は、わたしには理解しにくうございます。」

 師「あんたはわしに真実の人の体をたずねたのではないのか。」




 四角と円

問い「完全に四角でもないし、完全に円でもないというのはいかがでしょう」

師「四角でもないし、円くもない」

問い「そういう場合は、どうなりましょう」
師「四角であり、円である」


  緊急なこと

 弟子が質問した。
「人が緊急にしなければならない事とは何でしょうか」

「小便はささいな事かもしれんが、自分でせねばならぬ。」


 呵々大笑

 ある晩、修行中のスーフィーが裏山を散歩した。たちまち雲が開けて月のあらわれるのを見てカラカラと大笑した。その笑い声が彼の寺院のいる村の東九十里の中に響きわたった。

 その九十里ばかりの村の人々は、その夜同じ笑い声を聞いて、口々にいった。「東隣で人の笑う声がした」
朝になって村人が一斉にたがいに東へ東へと探して、そのまま修行者に来る。

 弟子たちはいう、「ゆうべは、山頂で大笑いする人の声が聞こえた」

  頂上に誰かいたか

師はたずねた、
「どこにいっていたのだ」
弟子「山歩きをしていました」

「頂上に行きついたか」
弟子「行きつきました」

「頂上に誰かいたか」
弟子「いません」

「それでは頂上に行きつかなかったのだな」
弟子「もし頂上に行きつかなければ、どうして誰もいないとわかりましょう」

「なぜちょっと待っていなかったのだ」
弟子「わたしは待ってもかまいませんが、ある男がそれを許しますまい」

「わしはあんたを前からくさいとにらんでいたのだ」

 スーフィーの祖

 悪事に眼をすえて嫌疑の心を起こすのでもなければ、善事を観察してつとめはからうのでもない。  

 愚をすてて賢に近づくのでもなければ、迷いをすてて悟りにつくのでもない。

 凡聖ともに腰をすえず、すべてを飛びこえているものを名づけて、祖とはいう。
   





ズィクルからファナーへ

2020-12-20 22:38:00 | イスラム/スーフィズム
 ✯ズィクル

「ズィクル」とは「(口に出して)言う」、「記憶する」、あるいは単に「想起する」などを意味している。コーランにおいて信仰者たちは、「何度でも繰り返し神を思え」と命ぜられている。これ自体には特に神秘主義的なところはなく、単なる崇拝行為の推奨である。しかし初期のスーフィーたちは、これを神の名や宗教的文言、例えば「神に賞賛あれ」(Subhan Allah)、「神以外に神は無し」(La illaha illa Allah)といった定型句を繰り返し唱えるという修行へと発展。ひとつひとつの語に全感覚を傾け、神経を集中させて機械的なイントネーションと共に反復し続ける。このズィクルという修行とその影響に関するガザーリーの以下のような記述がある:
  

Ghazālī、1058年 - 1111年12月18日)はペルシアのイスラームの神学者、神秘主義者(スーフィー)。
 
 この(啓示)に至る道は、まず現世の絆を完全に断ちきり、心をそれから解放し、家族・財産・子供・国家・知識・権力・名声への煩わしさから解き放つことである。このようにしてスーフィーの心は、それが存在しようがしまいが何の相違も感じないという境地に到達しなければならない。
 
 次に、どこかふさわしい一隅に一人坐す。孤独を守り、宗教実践も必要最低限に留めなくてはならない。コーランを復唱したり、その意味について考えたりすることは厳禁である。宗教に関わる学問書や伝承の書などを読んでもいけない。そうした類いのことに心奪われるのを避けなくてはならないのである。むしろ、神以外の何ものも心の中に入り込まないように心がけねばならない。

 次に、坐したまま神の名を唱える。「アッラー、アッラー」と口に出してくり返し唱え続け、やがて舌を動かそうとする自己の努力が消え、あたかも言葉だけがひとりでに舌の上を流れるような状態になるまで心を集中し続けるのである。

 次に、運動の痕跡が舌から完全に消えているのに、心はズィクルを続けているような状態になるまでこの行を続ける。するとその言葉のイメージ・文字・形が心から消え、言葉の観念のみがあたかも心に癒着したかのようにそれから離れることなく残るようになる。スーフィーはこの地点まで自己の意志と選択によって到達し、さらにサタンのささやきの誘惑を退けてその状態を維持することができる。
 
 しかし神の慈悲を得られるか否かは、自分の意志や選択ではどうにもならないことなのだ。なすべきことをなしたあとは、かつての預言者たちや聖者たちがそうであったのと同じように、もはや神の開示を待つ他にすべきことは何一つ残っていない。 

 そこでもしスーフィーの期待が真実であり、彼の願いが純粋であり、その修行が健全であり、さらに自己の欲望が心を乱したり雑念が彼を現世の絆に引き戻したりすることがなければ、「真実在」の光が心の中に照り輝く。この光は最初は稲妻のようにすぐ消える。ある時はまた戻ってくる。光はしばらく続く時と、瞬間的な時とがある。持続する場合でも、長い時もあれば短い時もある。それは、次々に幻影として現われてくるときもあり、一度で終わるときもある。

ガザーリーの祈禱論」p83〜84大明堂発行•「イスラムの神秘主義」p64平凡社

 ・・・こうしてスーフィーはファナーへと移行する。

9世紀のスーフィーたちはインド人の調息の行を知っていて、それをおおいに用いた。


別のあるスーフィーは、この主題を下記の一文に要約している:

 ✧自己を忘れること

 ズィクルの最初の段階とは、自らを忘却することである。ズィクルの最後の段階とは、礼拝の際に礼拝行為をする自らを忘却し、礼拝行為を意識することもなく礼拝の対象に没入することである。このように没入する者は、礼拝する自分に再び戻らず永遠に没入することになる。これを「消滅からの消滅」(fana al-fana).と呼ぶ。

 ✧ファナー(消滅)

 ファナーについてガザーリーは、次のようにいう。

 「スーフィーの目には一者以外には何ものもみえないし、また自己自身すらみえない。彼らはタウヒード(唯一性)の中に没入しており、そのために自己自身さえ気付いていない。その時、彼らはそのタウヒード体験の中で、自己自身から死滅している。自己をみ、他の被造物をみることからも死滅している。」

 ガザーリーはその心理的特徴について、「畏怖の念で潰滅している状態」、「心は歓喜に満ちあふれ、それは身も心も崩れるばかりに強いもの」、「神の真性が完全に啓示され、・・・あらゆる存在の形式が心の中に開示されるほどに心が拡げられる」「太陽の灼光」のごときもの、と説明している。

 ••彼の心は歓喜に満ちあふれる。それは身も心も崩れるばかりに強いものである。彼は、その歓喜と喜悦の重みに自分が耐えているのを知り、驚嘆する。これこそ、直接体験によってのみ知られるものである。

 ••神の真性が完全に啓示され、その結果、全宇宙を包含し、そのすべてを知り尽くし、あらゆる存在の形式が心の中に顕示されるほどに心は拡げられる。この瞬間、全存在があるがままに顕示されるため、心の神秘の光が明るく輝く。これこそ、以前光のヴェールともいえる壁龕により妨げられていたものである。

 ••いまや神がその僕の心の世話役となり、叡智の光で心を照らし出すにいたる。神が僕の心の世話を引き受け、神のめぐみがその上に満ちあふれ、光がさし込んでくると、心は開き、神の国の神秘が顕示される。

 ••一なる真実在以外には何ものも現われてこないこの神秘的観照は、時にはしばらく続く。しかしまた、時には電光石火のごとく瞬時の出来事に終わる。そして、これが普通の場合で、永く続くことは稀である。
  「ガザーリーの祈禱論」p45〜46

 ✧ニルヴァーナとファナー

 以上の引用は、ニルヴァーナを目指したブッダの八道説と多くの点で類似しているように思われる。スーフィズムの理論と実践が、少なからぬ範囲に渡り仏教の影響を受けていることは、誰であれその論拠を研究した者ならば決して否定出来るものではない。ニルヴァーナとファナーの歴史的な接続点については未だ推測の域を出るものではないが、しかし大いにあり得ることではある。

R.A.ニコルソン「イスラムの神秘主義」
岩波「イスラム教入門」ほか


ズィクル(唱名)

2020-12-20 22:37:00 | イスラム/スーフィズム
  
 ✧ズィクル(唱名)    

 スーフィズムの修業方法にズィクルと呼ばれる方法があります。

 なにかをありありと心に思い浮かべること、とくにそのものの名を口に唱えることによってそのものの形象を心に呼び起こし、それを心から離さずに長いあいだ保持することです。

 浄土教で西方浄土のアミダ仏を心に思い、口に御名を唱える、いわゆる唱名、念仏と形式的に共通する修業方法です。

 
「ラー・イラーハ・イッラッラー」
「アッラーのほかには神はいない。」

 これを繰り返します。

  …中略

 そのうちに神的な光がいずこからともなく差し込んできて魂に浸透し、ついに魂は溢れるばかりの光明にひたされます。そしてこの純粋光明の領域において、行者は自分の第二の「われ」真我に出会い、そしてそれと完全に一体となります。

 このようにして現成した新しい「われ」を、スーフィズムでは「内なる人」とか「光の人」とか呼びます。

 井筒俊彦「イスラーム哲学の原像」p75~82 全集5巻

  
  礼拝用の絨毯

 ✧カルブの門

 揺れ動く意識の表面の下に、静かな、物音一つしない領域が開けます。

 ここではもはや第一層の
感覚と欲望と情念のざわめきもありません。第ニ層の知性と思惟の波立ちもありません。ひっそりした沈黙と静謐の世界です。

 スーフィズムは魂の深みについて語ります。つまり意識の深層を認めます。表層から深層まで五つの層、五つの段階を立てます。

 その第三層がナフス・ムトマインナであり、感性、知性の動揺がすっかりおさまり、心が浄化されて、この世のものならぬ静けさのうちに安らいだ状態です。

 観想的に集中し、完全な静謐の状態に入った意識、これを特に“カルブ”といいます。
カルブには変貌、変質の意味があり、この段階で魂が本質的に変質してしまうのです。
スーフィは必ずここを通って意識の神的秩序の中へと入って行くのです。
井筒俊彦「イスラーム哲学の原像」p58
全集第5巻p448

 ✧光の人

 ・・・魂がこの状態に入ると、彼は目の前に一つの円があらわれてくるのを見るだろう。この円は十方に光を発散する巨大な光の泉のように見える自我を超克しつつある彼の目の前に突然、彼自身の本来の顔の円い形が現われてくるのだ。

 それは磨き上げられて塵ひとつ残さぬ鏡の表面のように澄みきった清らかな光の円である。この円はしだいに彼の顔に迫ってくる。そしてついに彼の顔はその円の中に吸い込まれてしまう。

 ―もし、あなたが本当にこういう経験をしたら、この円こそ自分の魂の第三層ナフス•厶トマインナなのだと考えてまちがいない。

 •••顔の前にあらわれた円がしだいに澄みきってくると、それは明るい光を発出しはじめる。まるで泉から水が湧き出るように光は出てくる。 

 そして彼は気づく。この光は自分の顔から輝き出ているのだと。光は眼と眉の間から噴出する。やがて彼の顔全体は光の円の中に包まれてしまう。

 ―このことが彼に起こったとき、彼の目の前にもうひとつの顔、同じように光り輝く別の顔があらわれる。そして光のヴェールの向こうに美しくきらめく太陽が揺らめいているのが見える。

 この第二の顔こそ、彼自身の本当の顔なのである。この太陽こそ彼の身体の中を揺れ動く「ルーフ(意識の第4層)」の太陽である。

 つぎに、彼の全身は「純粋性」の中に沈んでしまう。
  見よ!そのとき、
彼は自分の目の前にまぶしいばかりの光を発する光の人が立っているのに気づく。そして彼は、自分の全身からも光が発していることを感知する。

 やがてヴェールが落ちて、その人物の本性がすべて明らかとなる。彼が、彼の全身ですべてを知覚するのはこのときである。内的ヴィジョン、すなわち超感覚的知性と呼ばれるのは、このことである。

 光の視覚器官は、まず眼が開き、次に顔、やがて胸が開き最後に身体全体が開く。
   ナジュム・クブラー(1221年没)
井筒俊彦全集5巻「イスラム哲学の原像」•「超越のことば」その他より

 ✧スーフィズム意識の階梯



 いちばん上、すなわち意識の表面をあらわす部分が、「ナフス•アンマーラ」である。心の感性的、感覚的な場所であり、スーフィーはこれを欲情と情念の場として表象する。

 ズィクルの行を本格的に実践し始めた修行者が、この道をいくらか進むと、彼の意識の第一の層「ナフス•アンマーラ」はいくつかの、すぐそれとわかる特徴的なイメージを生み始める。

 最初に現れてくるのは深い井戸、あるいは地中の竪穴。彼は自分がその穴の底に落ちこんでいると感じる。一寸先も見えない暗やみが彼をすっぽり包みこんでいる。光はまったくない。

 だが、ときおりこの厚い闇の壁をつらぬいてチラッチラッとあやしげな赤い光がひらめく。これは魂の中にすむサタンの不気味な混濁の揺らめく火である。この火を見ると行者は全身に異常な鉛のような重さを感じる。胸は締めつけられ、手足はまるで大きな石でつぶされたような感じになる。さらに修行が進んだあとの段階でもう一度火が現れてくるが、それは澄みきった、静まりかえった火である。

 修行の第一の段階を経てズィクルが深まってくるとイメージが変わってくる。最初、穴の底を満たしていた暗闇が、少しずつ凝固して濃い黒雲になる。そしてさらにズィクルを続けると、なにやら三日月らしきものがほのかに密雲を通して見えはじめ、やがて新月が雲の切れ目にはっきり姿を表してくる。これはズィクルの句の力が心の中にしみ込んで、魂がかなり浄化されたことを表す。魂は第一の層を超えて「ナフス•ラウワーマ」の領域に入りつつあるのだ。そして本当に第二の層に入るとともに、今まで見えていた黒雲が転じて白い層雲となる。

 意識の二層目が「ナフス•ラウワーマ」である。ラウワーマとは非難がましいとの意味。スーフィズムはこの層を、善悪、美醜を、判断し、自から及び他人の悪を非難し、糾弾する心の働きの場と考える。

 この層に入ると、魂は昇ってきた太陽のイメージとなって現れてくる。太陽は行者の右ほほから昇ってくる。その印象はじつに鮮明であり、太陽の熱を実際にほほに感じるほどである。そしてその太陽は耳の高さまで、時にはひたいまで、ある時は頭の上まで昇る。ーこういうことが実際に経験されたとき、行者の魂は疑いもなく第二層のナフス•ラウワーマにいる。

 行者はまだ穴の中にいる。ただし、穴の底ではなく出口のそばまで来ている。この状態がまたイメージとなって表れてくる。すなわち、穴を満たしていた暗い霧のまんなかに美しい緑の火が見えてくる。これは世界の中心にある巨大なエメラルドから発する光である。このエメラルドは神の国、神聖な空間、神の臨在する場所への入口である。そしてこの超自然的な緑の光に導かれ行者はいよいよ穴から外へ出る。これがナフスの第三の層「ナフス•厶トマインナ」である。ここから人間における神的な次元が開けてくるのだ。

 意識の第四の層は「ルーフ」である。この段階において魂は完全に聖なる領域、神聖な領域、神的世界に入る。スーフィーはそれを精神の黎明として体験する。いわゆる照明体験である。

 最後の層は「シッル」である。シッルとは「秘密」という意味である。日常意識にとってはまったく閉ざされた不可思議な世界、闇のまた闇。しかしスーフィー自身の立場からすれば、それこそ第四層ルーフの光よりもっと純粋な、もっと強烈な光である。しかし、こ日常的な目にはこの光が、限りなく深い、恐ろしい暗黒として映るのである。
  「イスラム哲学の原像」p71~88


 ✧暗黒と光

 暗黒と光は、スーフィズムのアーケタイプ的象徴である。それらは神性の根底にある経験の自然的かつ直接的な自己表出だからである。暗黒と光はファナー(消滅)とバカー(残存)を意味している。これらの経験は覚醒の超越的レベルでのみ起こる形而上学的な経験である。

 ファナーの階梯では、対象、すなわちエゴの意識は完全に消え去る。われわれは闇に向かって動く。そこには経験そのものの意識さえない。そこには何のイメージもない。バカーの階梯ではマインドは現象世界に再び目覚める。しかし、今や現象世界の形体やイメージは、神的本質が自己顕現する客観的形体である。
 
 闇の中で人は光に向かって動く。光と闇は、スーフィーにとって比喩的な経験である。存在は光である。「絶対者」がスーフィーの意識にあらわれるとき、それはまじりけのない「一性」、すなわち光としてあらわれる。

 あらゆる多様性は闇の中に消え去る。かくして光がその全貌をあらわすとき、万物は消滅する。

 光は闇を引き起こす。しかし、万物がその個性を失い、意識が消しさられるため、逆説的に全世界は光の大海となる。

 この光の深淵から闇に消え去った万物は、その個体性の中に再び生まれはじめる。しかし、この段階では、それらは存在の「純粋な光」にひたった闇である。
       平凡社スーフィp106




ルーミー/アナー•アル•ハック

2020-12-11 08:19:00 | イスラム/スーフィズム
  神化

蠅が蜜に落ちる。
体のどこもかしこも、
部位の別なく
蜜に絡めとられて動かなくなる。

「イスティグラーク」、
すなわち
忘我の境地というのは、
このような状態を指す。
自意識を消滅せしめ主導権の全てを放棄した者。

その者より生じるいかなるものも、全てその原因はその者には属さない。

水に溺れてもがいている者、あがいている者、「溺れてしまう、沈んでしまう」と助けを求めて叫ぶ者、そうした者は未だ「イスティグラーク」に至ってはいない。

『アナー・アル・ハック』

すなわち「われは真理(神)なり」という言は、
この境地を象徴するのにまさしく的を得ている。

人びとは考える。何という暴言、何という傲慢、と。

人びとは考える。
『アナー・アル・アブド』、すなわち「われは神のしもべなり」、という言こそ真の謙譲を表わすのにふさわしい、と。

断じて違う。

『アナー・アル・ハック』

「われは真理なり(神なり)」こそが、真の謙譲を表わす言である。

『アナー・アル・アブド』

「われは神のしもべなり」と言うとき、その者は未だふたつ以上の存在を認めているのである。しもべ、などと上辺では卑しみつつも、しもべたる自己と神とが同等に存在する、と主張しているのである。自己などというものを、未だ捨て切れずにいるのである。

『アナー・アル・ハック』

「われは真理なり(神なり)」と言うとき、その者は自己を消滅し尽くしている。
そのとき、そこに自己などというものは存在しない。
ただ神のみが存在する。

これこそが真の謙譲、最大の奉仕である。
      ルーミー詩撰より


 あなたは翼を持っている。それを使うことを学び、そして、飛び立ちなさい。(ルーミー) 
 

 私は空を飛びたかった

 ある晩、礼拝が終わり、夜間に定められたコーランの朗誦を終えたのち、私は瞑想にふけっていた。 

 恍惚におちいったとき、私は次のようなヴィジョンを得た。そびえ立つハーンカーがあった。それは開いており、私はハーンカーの中にいた。

 突然私は自分がハーンカーの外にいるのがわかった。宇宙全体がそのあるがままの姿において光からできているのが、私にはわかった。あらゆるものは一色になった。そして全存在物の微粒子は、おのおのの存在に特有の方法で、おのおのに特有の力強さで「アナー・アルハック」(我は真理−神−なり)と宣言した。私は、彼らがいかなる存在によってこのような宣言をさせられたのか、理解できなかった。

 このようなヴィジョンを得たのち、陶酔、法悦、強い願望、異常な愉悦感が私を襲った。

 私は空に飛び立ちたかった。しかし、何か樹に似たようなものが私の足もとにあり、そのために私は飛び立つことができないのだとわかった。

 私は、むやみやたらに地面をけとばしたので、ついに樹を払いのけることができた。

 弓から射られた矢のように、いや、それよりも百倍も強く、私は立ち上がり、遠くへ飛んで行った。

 第一天に着いたとき、月が二つに裂けるのがわかった。わたしは月を通り抜けた。この「不在」の状態から戻ったとき、私は再び「現存」の状態にいることを知った。

シャムス・アッディーンディン・ラーヒージ(1516年没)
 平凡社「スーフィー」p135より

 

 

ムハンマドの天界飛行

2020-12-09 19:33:00 | イスラム/スーフィズム
 以下の細密画は、16世紀のトルコの画家たちの手になる「マホメットの天界飛行」と題された作品である。マホメットの生涯を表したこの宗教画には、虚実とりまぜた天界飛行の様子が描かれている。厚き信仰の人マホメットは、七つの天を順に巡り、比類なきほどの至上の恩恵を得たのち、神の面前に立つのである。
(以下マホメットはムハンマドに表記)

  
 ある晩、ムハンマドのもとに天使があらわれた。天使ガブリエルはムハンマドを眠りからさますと、頸をちょうどよい大きさに裂き、中から心臓をとりだして洗った。再びムハンマドのからだのなかに心臓がもどされたとき、ムハンマドの魂は信仰と知恵に満たされていた。浄らかな心をもったムハンマドは空想上の動物、天馬(ブラーク)にまたがった。天馬は女の顔をしており、やっと目が捉えるほどの距離をただの一跳びでかけることができた。

 
 初めに二人が出会ったのは白いニワトリであった。ニワトリは頭でアッラーの王座をささえ、足を地につけていた。よってイスラムの土地には、人間の国に深く根を降ろさない宗教など存在しないのである。


 二人はゆっくりと進んだ。二人を待ち受けるのは永遠なる神に選ばれた者たちだった。そしてムハンマドと天使ガブリエルは、ダビデとソロモンに出会った。


 次に二人はモーセに礼を捧げた。彼らはすべての族長と預言者に礼をつくして、天上のモスクに来てもらったのである。


 次に二人は、エメラルドの玉座にすわるアブラハムにまみえた。カーバ神殿の礎をきずいたのが、このアブラハムである。アブラハムはイスマイルの父であり、アラブ人の祖である。


 最後に天馬は7番目の天に二人をつれていき、ムハンマドとガブリエルは天使たちに迎えられた。


 7番目の天で二人は大きな建物に入るようにいわれた。その建物は神の世界にありながらも、通路はどこか人間界の通路のようにも思われた。


 アラビアで二人はエメラルドと真珠の木を見つけた。その木の下にはナイル川とユーフラテス川が流れていた。


 600枚の羽をもつ大天使ガブリエルは、かくしてムハンマドにアッラーのことばを伝えるという、みずからの使命を果たしたのである。


 砂漠をわたる隊商の、名もないメッカのラクダひきムハンマドは、ついにアッラーの前にひれふした...。

 ムハンマドは雲と光につつまれ、神の前にぬかづいた。くり返し神の前にひれふすことは虚しいことではないと、ついにムハンマドは悟った。


 天国についたムハンマドは、ラクダにのった天女(フーリ)に迎えられた。


 これこそ神は唯一であると説きつづけたムハンマドの忍耐強さへの報いであった。

 
 ムハンマドのことばに耳を貸さず、なおざりにした人は地獄の業火に永遠に苦しむことになる。


 これが信心深いイスラム教徒が代々語りついてきたムハンマドの伝説である。


 しかし、アッラーの預言者の伝説とは、それ以上にごくふつうの男の生涯でもあった。


 だが、「ふつうの男」の生涯によって、歴史は大きく変わったのである。

  アンヌーマリ・デルカンブル著
  創元社「マホメット」より