仏教のほうで使われる「般若」という言葉がありますがこれはサンスクリットのプラジュニャーprajñā,パーリ語パンニャーpaññāの音写語ですのでそのままではなんのことか意味が全くわかりません。
言葉がちがうと最初は違和感がありますが、よく読めばこれも無分別智のことだとわかります。西田幾多郎著「善の研究」の冒頭の章。読みやすく編集しています。
✧純粋経験
経験するというのは事実を事実そのままに知るということです。 全く自己の細工を棄てて、事実に従って知るのです。 純粋というのは、普通に経験といっているものもその実はなんらかの思想を交じえているから、全く思慮分別を加えない、真に経験そのままの状態をいうのです。
た とえば、色を見、音を聞く瞬間、未だこれが外物の作用であるとか、私がこれを感じているとかいうような考えのないのみならず、この色、この音は何であるという判断すら加わらない前をいうのです。それで純粋経験は直接経験と同一です。
自己の意識状態を直下に経験したとき、未だ主もなく客もなく、知識とその対象とが全く合一しています。これが混じりけない、経験の最も純粋な状態です。
「善の研究」第1編第1章
✧具体的なもの
純粋経験の直接にして純粋なるゆえんは、それが単一であって分析ができないとか、瞬間的であるということにあるのではなく、それが「具体的なもの」であるということにあるのです (同1編1章)
✧直覚
自分で自分の意識現象を直覚すること、この純粋経験の事実のほかに実在はありません。 (1編2章)
厳密なる純粋経験の立場より見れば、経験は時間、空間、
個人等の形式に拘束されるのではなく、これらの差別はかえってこれらを超越する直覚によりて成立するものです。また実在を直視するというも、すべて直接経験の状態においては主客の区別はありません。実在と面々相対するのです。 (1編4章)
✧知的直観
わたしがここに知的直観 intellektuelle Anschauung というのはいわゆる理想的なる、普通に経験以上といっているものの直覚である。弁証的に知るべきものを直覚するのである。
たとえば美術家や宗教家の直覚のごときものをいうのである。直覚という点においては普通の知覚と同一であるが、その内容においてははるかにこれより豊富深遠なるものである。
知的直観ということはある人には一種特別の神秘的能力のように思われ、またある人には全く経験的事実以外の空想のように思われている。しかしわたしはこれと普通の知覚とは同一種であって、その間にはっきりした分界線を引くことはできないと信ずる。
西田幾多郎「善の研究」一篇四章より
【知的直観】
〘名〙 (intellektuelle Anschauung の訳語)
〘哲学で、事物の本質をじかにとらえる精神的、超感性的な働き。主観・客観の対立を越えて、ものをあるがままに認識する神のような知性の直覚作用。カントでは、本体をとらえる超感性的な悟性の働きとして神にあるとして人には認めないが、フィヒテ、シェリングでは、人知の最高段階とされた。超感性的直観
日本国語辞典より