パルメニデスの弟子のゼノンに二分法のパラドックスがありますが、この二分法はパルメニデスの主張する排中律と内容はほぼ同じものです。また、この二分法や排中律を使用するとプラトンが対話篇「パルメニデス」でいうところの“奇妙なもの”が現れてきます。「矛盾」です。
以下はパルメニデス「自然について」の要約。
自然について
ここに二つの道がある。片方は語ることも考えることもできない道である。他方は真実に存在する道である。どちらの道を選ぶかは自明のことであろう。
われわれが語ることのできるのはただ一つ。それは「ある」ということについてだけなのであり、これは不生不滅なものである。
それは同じものとして同じところにとどまりつつただ自分だけで横たわり、そしてそのようにしてその場に確固ととどまる。なぜならば力つよき必然の女神が 限界の縛めの中にそれを保持し、その限界がまわりからこれを閉じ込めているから。
わたしは告げる。「その姿は完全であり、不動であり、永遠なものである。」そしてこのことを示す証拠が非常に多くある。
またそれは過去に「あった」ものでもなければ未来に「あるだろう」ものでもない。それはまさに今「ある」のだ。すべてが一つのものとしてその全体が一挙に現れているのだ。
「ある」の始まりをなぜもとめるのか? どこからか現れ出たとでもいうのか? それは『無からである』というのをわたしは許さない。なぜならこの「ない」ものについては語ることそも考えることもできないからである。何もないところから来たのならば,なぜそれを早めるのではなく後から生じさせる必要があったのか。したがって、それ全く「あるか」、全く「ない」かのどちらかでなければならない。
思考することと、思考の対象とは結びついている。なぜならば、それについて考えたり話したりする対象がなければ、人は思考することができないからである。まことに「ある」ものの他には何ものも 現にありもせずこれからあることもないだろう。運命の女神が「ある」ものを縛めてそれを完全にして不動のものにしているのだから。
そもそもどうして「ある」ものが後になって滅びるだろうか。どうして生じるだろうか? そのようなものはかりそめのものであり、常に「ある」ものではない。かくて「生成」は消し去られ、「消滅」はその声が聞けないことになった。
さらにまた「ある」ものは分割することができない。すべてが一様であるから。またそれは、ここでは多くあったりあちらでは少なくあったりすることになく、すべてがつながり全体があるもので充ちみちている。このゆえに全体が連続的である。あるものがあるものに密接しているのであるから。
それはあらゆる方向において 完結していて、譬えて言えばまんまるい球の塊のようなもの、まん中からあらゆる方向に均等を保つ。場所により大きくまたより小さいということはないからである。
このゆえにあるものが不完全であることは許されない。 それは何も必要としないから。もしも不完全ならすべてを必要としたことであろう。
ここで私は、真理についての信頼に足る言葉と考えをやめることにしよう。これよりのちはわたしの虚構を聞きながら人々の意見を学ぶがよい。
パルメニデス
パルメニデス[前515ころ~前445ころ]古代ギリシャの哲学者。エレア学派の祖。真に「有るもの」は、唯一・不生不滅・不変不動の充実した完全なものとして球体とされ、一切の変化を仮象と見なした。(デジタル大辞泉の解説 )
無からは何も生じない
パルメニデスの説の根幹は「ある」は「ない」から生じないことであり、その背面の論理として「ある」は「ない」に転化しないことが主張されています。
ただ、この説の難点は「ある」が「有る」なのか「在る」なのかがはっきりしないことです。というより二つが混在してるようです。文章のはじめは存在の「在る」で途中の時間や思考に関するところが判断の「〜である」のあるになり、そして終わりのほうがまた存在の「在る」になっているように思われます。
この説の面白いのは「ある」と「ない」の転化を禁じただけで現実に経験する疑うことのできない明白な事実である生成と消滅、運動と変化、多数性と多様性が消えてしまうことにあります。
簡単に有無で考えると無→有への転化、すなわちこれまで無かったものが有るようになるのが発生。有→無への転化、すなわち有るものが無くなるのが消滅。
無→有 発生
有→無 消滅
したがって有無の転化を禁じると生じることもなく滅することもなくなります。これがパルメニデスの言う「不生不滅の存在」という意味かどうかはわかりませんが、西洋の「実体」という概念のさきがけになっているのは確かなようです。
真理をめぐる重要な点は、真理を実体としてでなく、主体としても捉え、表現することである。ヘーゲル
無からの創造
発生と消滅という言葉は客観的な表現ですが、これを主観的に表現すると宗教的世界観になります。主観的にみるとはそこに「意志」を入れてみることです。
すると無から有の発生は創造へ、有から無への消滅は破壊へと言葉が変わります。天地創造とこの世の終末です。この有と無と生成•消滅の不可分性を表したのが古代インドの宗教です。
三神一体
エローラ石窟寺院のトリムールティ像。
三神一体(さんしんいったい)またはトリムールティはブラフマーとヴィシュヌとシヴァは同一であり、これらの神は力関係の上では同等であり、単一の神聖な存在から顕現する機能を異にする3つの様相に過ぎないというヒンドゥー教の理論である。すなわち、ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァの3柱は、宇宙の創造、維持、破壊という3つの機能が3人組という形で神格化されたものであるとする。一般的にはブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァがそれぞれ創造、維持、破壊/再生を担うとされるが、宗派によってバリエーションが存在する。wiki
新しさの出現
新しさは、それを生じさせる原因の外に立って観察する者にとっては多大な″偶然″の関与ということでしかあり得ないが、その内部に立つ者にとっては、それは″自由な創造的活動性″
である。
世界の中に新しさが出現するということを否定するふつうの議論は、それが突然、無から躍り出るとすれば、世界の理性的な連続性を破ることになる、というものである。
W・ジェームズ純粋経験の哲学p166~
仏教の不生不滅
生じる時はただ空が生じるのみ。滅する時はただ空が滅するのみ。実にひとつとして生じるものなく、実にひとつとして滅するものはない。
達摩二入四行論 5
あらゆるものが有ると思う時も、その有るもの自ずから有るのではなく自分の心が有るとしているだけであり、またあらゆるものが無いと思う時も自分の心が無いとしているだけである。他の存在についてもこのように自分が勝手に「有る」と思い、「無い」と思っているだけである。
これを妄想という。
達摩二入四行論49
*最初の文に関連記事を継ぎ足し継ぎ足ししたのでツギハギだらけになってしまいました。悪しからず。
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