見せかけの知識
ねえ、君、君はいったいそれを知っているのだろうか、君はそれを理解しているのだろうか。
それとも君は、薄々は感じているのだろうか?君の学んできたことなど、まるで子供だましの、葦の茎のように、脆くはかないおもちゃであることを。
心で憶えたことなら、それは君の翼となって、今すぐにでも空よりも高く飛び去るのだろう。けれど体に染み付いてしまったことなら、それは君にとって、背負わされた重荷でしかないだろう。神様だってこんな風に言っている、「書物を運ぶロバよ、あわれなものよ」と。
けれど神様のこぼす、あわれみなどには背を向けて、重荷を運び続けるのも、それはそれで悪くはない。無心に、ただひたすらに歩いて行けば、君はいつか、辿り着かずにはいられないだろう。そのとき重荷は取り去られるだろう、そこで初めて、君は歓びの何たるかを知るのだろう。
それを知ることなしに、どうして自由になれるだろう?君という君の全てが それのしるしそのものだというのに。君が見ているそれ、感じているそれを、人はまやかしと呼ぶだろう。
けれどまた同時に、まやかしほどに真実へと至る道を知らせるものはない。
いったい、リアリティを含まないファンタジィがあるだろうか?それとも、君は「薔薇」という文字から花を摘めるのか?君はその名前を知ってはいるだろう、だがそれだけで、君はほんとうに「薔薇」を「知っている」、と断言できるのか?
名前の背後に何が隠されているのか探すといい。月はいつでも空にある、水面に映るのはただの影に過ぎない。君は君の心ひとつを信じて行け、全ての偏見、全ての誤解、全ての常識から君自身を無垢にして。君の心の中には、全ての知識がすでに用意されている。
それを信じて歩め、書物を捨てて、理解を捨てて、学んだ全てを捨てて。
『精神的マスナヴィー』1-3445.
ならわしとひらめき
耳がもたらすものは、
幾重もの媒介を経由している。だが愛する者の目は、
愛されし者とじかに繋がっている。
耳から得られるのは、
「至福」についての語らいである。だが愛する者の目は、
至福それ自体を得ている。
耳から得るものは既に変質している。だが目は、根源の変容そのものを得ている。
もしもあなたが火について
知識を得たと確信するなら、
けれど言葉によって語られた「火」がその知識の全てなら、あなたは未だ火を知らず、未だ料理されてもいないのだ。
火そのものに触れよ、自らを料理せよ、他人から聞かされた知識を根拠に知ったと思うな、疑うこともせずに、確信の裡に留まるな。
直観の確信は、実際に焼かれること無しに得られはしない。火の裡に座せ、もしもあなたが真にこの確信を得ようというなら。
耳も鍛えれば目と同じ働きをするようになろう、でなければ、耳は言葉を捉えられないだろう、言葉は耳と耳の間にこぼれ落ちるだろう、心に届くこともできないだろう。
『精神的マスナヴィー』2-85
霊知
あなたはそれに対応するものが何も存在しない名前を知っているか。
あなたは「バラ」という文字からバラを摘み取った
ことがあるか。
あなたは神にも名前をつける。それなら行ってあなたが名づけた『実在』を探して来るがよい。水の中にではなく大空に月を探し求めよ。
あなたが単なる名前や文字を超えた所に登りたいと願うなら、直ちに自我から
自由になるべきである。自我のすべての属性から身を浄めよ。そうすればあなたは自分自身の輝く本質を見るだろう。自身の心の中に預言者の知識を見るだろう。書物もなく教師もなく導師もなしに。
この知識は照明、啓示、霊感によってもたらされる。
「イスラムの神秘主義」3章 霊知より