大分発のブログ

由布・鶴見やくじゅうをメインにした野鳥や山野草、県内四季折々の風景などアウトドア写真のブログです。 

ため池のオシドリほか

2020-11-30 09:13:11 | 野鳥
だいぶ増えたようなので様子見に近くを廻って来ました。大野川流域の野鳥です。2020.11.29


カルガモ


少し上流にいたヤマセミ。


飛んでいるのはよく見かけるが枝に止まっているのは久しぶり。


ダイブ!


かなりの大物をゲット。飲み込むのに四苦八苦していました。


付近にいたチョウゲンボウ。


モズ♀


ジョウビタキ♀


この日のお目当てのため池のオシドリ。


小さな池ですが雰囲気のあるため池です。









2羽そろって居眠り。


こちらは水遊び。






他にいたのは、よくわからないカモ。


ヒドリガモのようです。


魚をくわえたカイツブリ。


ダイサギ


移動してオシドリ。ここには50羽ほどいましたがかなり遠い。



他に何ヶ所か覗いてみました。








大野川近くの野鳥でした。










杵築守江湾のユリカモメほか

2020-11-29 06:42:00 | 野鳥
杵築の目的地に到着すると、聞き慣れたチィーという鳴き声。カワセミ♀が湾に流れ込む小さな川にいました。


ちょうど干潮の海岸にはユリカモメの群れ。


日本には10~11月頃に集団で飛来してくる渡り鳥です。国内で広い範囲で姿を見ることができます


手前には餌をついばむ数羽のハマシギ。


ハマシギは冬鳥として全国各地に渡来。日本で最も多く見られるシギ類の種のひとつです。


雲の切れるのを待っていたら彩雲が現れました。


彩雲は、太陽の近くを通りかかった雲が、緑や赤に彩られる現象です。


ここは風紋もきれい。


ユリカモメ、足とくちばしは赤色で小さなカモメ。


目の後ろに黒い斑点があるのが特徴。


きれいなカモメですが、鳴き声がやや不気味。


海岸にはジョウビタキ♂もいました。オナガガモは少なく、ホシハジロはまだ飛来してないようです。


前回15日と同じ場所に移動。


前回同様にスズガモの群れがいました。


数は2倍ほどに増えていました。


新たにハシビロガモ。


ミヤコドリは見つからず。


4時近くなっていたけど日出町の糸が浜に寄り道。


ここはセグロカモメの群れ。


ダイサギ


ハマシギ


ハクセキレイ2羽


手前はシロチドリ。


画面右下にシロチドリ1羽とその上にほぼ同じ大きさのハマシギ3羽。これと比べて倍近い大きさの画面左にいるシギチはたぶんダイゼン。


糸が浜の風紋もきれいです。








国東・富貴寺〜長安寺ほか

2020-11-28 21:15:00 | 国東半島
午前中は国東の寺社めぐり、昼からは杵築の守江湾で野鳥撮り。紅葉が終わりなので野鳥撮影がメインでした。

まずは日出町に架かる石橋の赤松橋。2020.11.28


柿をついばむカラス。


橋の上流にいたマガモとオシドリ。


なかなかいい雰囲気の場所ですが、遠い。


山香のため池にいたキンクロハジロ。後頭部の冠羽が特徴です。




山香の小武寺。この日は強風だったので境内のイチョウの落葉は積もるほどもなし。


特徴的な仁王像。


目に真鍮製の眼窩を入れている珍しい石造仁王像です。


国宝富貴寺大堂


阿弥陀三尊像ご開帳でした。


富貴寺境内のイチョウの落葉。


前回の予想通り今年の紅葉は全くだめでした。


仁王像




長安寺仁王像


長安寺のイチョウの落葉は半分くらい。


これは金明孟宗竹という種類の竹です。




コットン村から大田を経て杵築へ。

以前は三連水車でした。


大田の比枝神社


国東は神仏習合なので神社に仁王像があったり、お寺に鳥居があったりします。


若宮八幡社






大イチョウ


国東塔


どぶろく祭りで人気の白髭田原神社。




ルーミー/踊れ/音楽の記憶

2020-11-28 18:05:00 | イスラム/スーフィズム
 ルーミーの思想の一つに、旋回舞踏によって「神の中への消滅」という神秘体験の実行が挙げられる。ルーミーの没後、コンヤのルーミー廟を拠点とする彼の弟子たちによって、コマのように回って踊るサマーウ(セマ)という儀式で有名なメヴレヴィー教団が形成された。メヴレヴィー教団では同教団の始祖と仰がれている。


 踊れ

苦行のために、
欲望という傷をむき出しにするために、踊れ。

聖者たちは魂の戦場で、
くるくる回りながら踊る。
彼らは血まみれになりながら踊る。

自我の束縛から解放されると、彼らは手をたたく。
自分自身の不完全さから脱すると、彼らは踊る。

楽師たちは恍惚として心の底から太鼓をたたき、手は砕けて泡となる。

葉の触れあう音は見えない。肉体にある耳ではなく、魂の耳で聞かなければならない。

輝かしい魂の国を見るために、冗談や嘘には耳を貸すな。
 ルーミーの詩/創元社「スーフィー」p5

  

 音楽の記憶 

 ある人は言う、私たちの耳を心地良くくすぐるナイもリュートも、突き詰めればその旋律は、回転し続ける宇宙より受け取るのだと。

 だが信じる者は、あらゆる定理と推論とを軽々と跳躍してしまう、そして宇宙に響く音という音を、甘くするものは何なのかを知る。

 私たちアダムの末裔は、かつて彼と共に天使たちの音楽を聴いた。今となっては、はるか昔の遠い記憶もほころび破けているものの、それでも耳の奥底に残っている、地上の何ものとも無縁の残響が。

 ああ、音楽こそは聖なる晩餐、愛する者全ての血となり肉となる。音楽が鳴り響けば、魂は天上の記憶を恋い焦がれて高みを目指す。

 灰という灰は光り輝き、魂の奥底に不可視の炎が火の粉を散らす。私たちは音楽に耳を傾け、歓喜と平安をその舌に味わって満ちる。

   「精神的マスナビー」より

   

  メヴレヴィー教団




 
  スーフィーの回旋舞踊

 映画「落下の王国」より











ルーミー/一滴の大海

2020-11-28 18:03:00 | イスラム/スーフィズム
 一滴の大海

“You are not a drop in the ocean. You are the entire ocean in a drop.”

あなたは大海の一滴ではなくて、一滴の大海なのだ。
        ルーミー語録

 ルーミーとほぼ同じ時代ドイツではキリスト教のエックハルトがほぼ同じことを言っていました。合わせて読むとルーミー理解が深まると思います。

 マイスター・エックハルト (1260年頃ー1328年頃)は、中世ドイツのキリスト教神学者、神秘主義者です。
  

神は唯一の善である。
すべての個々の善はそこに一緒に含まれている。
そこは満ちたるもの、
神性の世界である。
それは「一なること」である。

大海に比して一滴の水は
取るに足らない。
そのように神に比すれば
万物はあまりに小さい。
魂が神をおのが内に
引き入れる時、
水滴は大海に変ずる。

神には欠如も否定もない。
なぜならその本性は充溢であることだからである。

本当に正しくそれを捉えようとする人は、なお善や真理からも、それにただ観念や名称の中でのみ区別の錯覚や影に煩うだけのものからさえも、縁を切る。

その人は、一切の多様と区別を欠いた「一なるもの」のみを信頼する。この「一なるもの」にあっては、あらゆる規定性と特性が消え去り、そして「一」である。
この一者こそが我々を幸福にするのである。
           エックハルト
ルドルフ・オットー/西と東の神秘主義」p46より


ジャラール・ウッディーン・ルーミー(1207〜1273 )はペルシャ語文学史上最大の神秘主義詩人。

    

Out beyond ideas of
wrongdoing and rightdoing,
there is a field,
I will meet you there

        ~Rumi~

善行と悪行、
それらの考えのはるかに及ばぬところ、
そこに一つの場がある。
私はそこで
あなたに会おう。
        ルーミー