飛んでいる矢は止まっている
「すべてのものはつねに静止しているか、動いているかである。何ものもそれ自身と等しいものに対応しているときには常に静止している。しかるに動くものが常に、今、それ自身と等しいものに対応しているとするならば、動く矢は動いていない。」とかれは言うのである。
『自然学』第6巻第9章 239b5-
アリストテレスは続けて、「この議論は、時間が今から成ると仮定することから生ずる」と述べています。
じつは、このゼノンの第三逆理がそのまま二分法とアキレスと亀のパラドックスの答えになっています。この三つの共通点は動きと位置の関係において、「あるものの位置が特定されるなら、そのとき、それは動いていない」というものです。
第一逆理でランナーが走る距離の中間点に到達した時、第二逆理でアキレスが亀のいた位置に到達した時、そして第三逆理で飛んでいる矢がその瞬間の位置に等しく対応している時に、動いているものは動いていない、と言っているのです。
運動するものの位置を定めようとすれば、その動きを止めねばならず、逆に、動きを知ろうとすると今度は位置が定まらなくなるということです。もっと簡単に言えば、上を見ると下が見えず、下を見ると上が見えなくなるのと同じ理屈です。ここでは動と静との二項対立がテーマになっています。位置についてはベルクソンの次のような考えが参考になると思います。
位置
動くものの運動は内から検討されると単純な事物であり、外側から、そして相対的に検討されると、それは複合体となります。なぜでしょうか。それは、動くものの位置が運動の一部ではないからです。
運動とはもろもろの位置からつくられているわけではありません。その証拠に、もろもろの位置を並べ、位置に対して位置を並置するならば、不動性に対して不動性を並置することになります。そのようなやり方では、決して運動を手に入れることはないのです。
動くものの位置とは何でしょう。それはある想定を行うことです。こういうことです。あなたは、運動の外側に存在します。あなたはそれを見つめます。あなたは、その動くものがある点で停止したと想定するのですが、実際にはそこで停止はしていません。それでも、そこで停止したかもしれない、とあなたは考えます。あなたが動くものの位置と呼ぶもの、それは、停止の想定ということです。
動くものは決して、それが過ぎ去る点には存在しません。もし動くものが過ぎ去る点に存在するのであれば、それはある地点と合致することになるし、その結果、運動は不動性であるということになるでしょう。
さて、動くものは、もし停止したならば、そこに存在することになるでしょう。そして、この「もし動くものが停止したならば」という想定こそ、位置と呼ばれているものなのです。
図1
それはしたがって、部分的に記号的な何か、不動性による運動の表象なのです。不動性によって運動を作ることは決してできない、ということは明らかです。不動性に不動性を付け加えながら、私たちは、運動の一種の贋造へと至り、私たちの思考にとっての運動の等価物に至ります。ですが、模倣は絶えず不完全なものであり、私たちは、ますますそれをモデルに近づけることを強いられます。何度も点を挿入し、絶えず位置に位置を付け加えなければならないのです。こんなふうに私たちは、無限に向って歩みを進め、尽きることのない数え上げの途上にいるのです。
ベルクソン『時間観念の歴史』「相対的な知と絶対的な知」より
二項対立としても知られる競技場のパラドックスでは、ゼノンはどんな運動選手も、ゴール地点には決して到達出来ないだろうという。
運動選手が競技場のコースを走ろうとすれば、まずコース全体の中間点に到達しなければならない。この時点で、走る距離は元の長さの半分になっている。残りを走ろうとすれば、また、その中間点に到達しなければならない。残された距離は元の1/4だ。残りの1/4を走るには、またまたその中間点に到達しなければならない。残りは元の1/8だ。そうやって走っていくと、いつでもゴールに着くためにはその直前に残した距離の半分が残ってしまう事になる。つまり、運動選手はゴールに到達できないという事になる。
アリストテレスは答えて言う。
「一つの線分が二分割の集積として完全現実的にあるとする者は、分割点を始点と終点と二つに数えて、運動を連続的ではないものとし、停止させることになるだろう。」
アリストテレス「自然学」8卷8章
別の図に変えてみます。こちらのほうが動きが速いのでゼノンの前提の不可能なことが分かりやすいと思います。
放たれた矢はまず的までの半分の距離を飛ばなければならない。的の半分の点にまで到着したとしても更に残りの半分の半分にも、更にその残りの半分にも同様に・・・と、到着すべき地点が限りなく前に続く故に到着することができない。だから矢は的に当たらない。
アキレスと亀の場合と同じく、この話には現実ではあり得ない事柄が挿入されていますが、どこでしょう。それは実際に飛んでいる矢の場合、的との半分の距離Aに達した後に残りの半分の距離というのが設定できないということです。だから半分の半分・・・以下の話はゼノンの作り話なのです。アリストテレスの指摘したように最初の分割点を仮の終点とし、次にその終点を仮の始点として二重に数えることで話を振り出しに戻しています。そしてこれが無限進行の原因となっています。
また、線分の分割と動きを結びつけて考えていることにも問題があります。矢を時計の針に置き換えてみるとよくわかりますが、針の動きは文字盤の数字とは関係ないのです。文字盤の数字が細分化されるにつれて針の動きが速くなったり遅くなることはありません。要するに時間や空間を分割しているのではなく測りの数字を分割しているだけなのです。
1+1/2+1/4+1/8+1/16+1/36・・・・数学的解答としては、このように無限級数の収束で説明できるとしていますが、答えになっていません。数学的解答とは頭の中で考えただけで現実味のないものです逆にますます現実から離れていくものです。たとえば1/2 + 1/4とは具体的にどういう状態でしょうか。また収束したり到達するだけではなく、アキレスと亀の場合では追い抜いたあとのことまで説明しなければならないのです。
このバラドックスの核心は次の点にあります。すなわち、運動と位置の両方を同時に確定することはできない、ということなのです。運動しているものの位置を定めようとすれば、その動きを止めねばならず、逆に、動きを知ろうとすると今度は位置が定まらなくなるということなのです。
運動選手がコースの中間点に達した時、あるいは矢が半分の距離に達した時、その時、無意識のうちに自分がそれらの動きを止めて考えていることが自分で確認できると思います。動きを止めなければ残りの半分の距離が設定できないからです。自分で動きを止めていながらそのことに気づいていない、というのが一種の盲点のようになっているのです。
『分けてはならぬ。』
これはゼノンの師であるパルメニデスの禁令です。パルメニデスは二つ以上のものを背理とみなしまし
た。一つのものを二つに分けるやいなや、その間を三つと数えねばならず、これが限りなく続いてしまうからです。二分法とは一つのものを、あるいは全体が連続的であるものを分けて隔ててしまう方法なのです。
ではAからBへはどうして行けばいいのか?答えは簡単です。何も考えず普通にAからBへ行けばいいのです。無限小とは分けると現れ、分けなければどこにもないのです。問いがあれば答えがあり、問いがなければ答えもないのと同様です。
*連続的推移を数字で表すのは無理なので数字ではなく記号の「~」(波ダッシュ)をつかいます。AからBはA~BでAB両方をふくんでいます。
例
「考えれば考えるほど間違ってしまう」というお話でした。
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次の記事「飛ぶ矢」では動きと位置の関係をベルクソンの説を加えてもう少しくわしく解説しています。前の記事「アキレスと亀」との三部作です。
イソップ物語のような話の面白さと、そのキャラクターのユニークさで人気の「アキレスと亀」。俊足のアキレスがノロノロと進む亀にどうしても追いつけないというお話です。
アキレスと亀
昔、ギリシャにアキレスと亀がいて、ある日2人は徒競走をすることになりました。先にゴールに到着した方が勝ちです。しかしアキレスの方が足が速く勝敗は明らかなのでハンディキャップとして亀にいくらか進んだ地点(地点Aとする)からスタートしてもらいました。スタート後、アキレスが地点Aに到達した時には、亀はアキレスがそこに達するまでの時間分だけ先に進んでいます(地点B)。アキレスが今度は地点Bに達したときには、亀はまたその時間分だけ先へ進んでいます(地点C)。同様にアキレスが地点Cに達した時には、亀はさらにその先にいます。この繰り返しで、結果、いつまでたってもアキレスは亀に追いつけなくなりました・・・。
この話、アキレスのほうが速いので、普通に考えればアキレスが亀に追い付き、追い越せないはずはないのですが、なぜか本当に追いつくことができないかのように思わされてしまいます。この話の中のどこかにトリックが隠されているのでしょうか。
当たらない矢
ある日、アキレスとゼノンの2人が射撃場で賭けをすることになりました。亀の背中の上に置かれたリンゴに矢が当たればアキレスの勝ち、はずれたらゼノンの勝ちです。制限時間は亀が競技場を横切る間だけと決められました。
勝負が始まり、アキレスは弓を手にして、いつものように的のリンゴに狙いを定め、矢を放った。ところが、矢が到達するまでに的のリンゴが動き、射損じてしまった。アキレスはもう一度やってみた。より強く弓を引き、より速く矢を放った。でも無駄だった。的が右に動いたため、アキレスの矢は当たらず、わずかに左に落ちた。何度繰り返してもどうしても的に当たらない。
この様子を見ていた猟師が見かねて言った。「ここから的を狙っても当たらないぞ。的のわずか右を狙うんだ」。
アキレスが猟師のアドバイスに従って矢を放ったところ、矢はリンゴの中心を貫いた。
「アキレスと亀」のパラドックスに答えるアンサーストーリーを作ってみました。アイデアはアラン・R・ホワイトにより1963年に提起されたもので、創元社「おもしろパラドックス」ゲイリー・ヘイデン&マイケル・ピカード(著)で紹介されています。
馬の鼻先に人参
最初の設定で亀がアキレスより前の位置に居るようにすれば準備完了です。このあとはアキレスがどんなに速くても亀に追いつけないのです。
トリック
この話のトリックは最初の文章にあります。
「スタート後、アキレスが地点Aに到達した時には、亀はアキレスがそこに達するまでの時間分だけ先に進んでいる。」という部分です。
上の文章の「アキレスが地点Aに到達した時点に」という言葉でアキレスの動きを止め、「そこに達するまでの時間分だけ先に進んでいる」で、亀だけが動くように設定されています。あるいはそのように考えさせるように誘導しています。
実際にはアキレスが亀のいる地点に到達した、正しくは並んだ瞬間にすでに抜き去っているので上の文章は成立しないのです。
時計の短針を亀、長針をアキレスに置き換えてみるとよくわかりますが、ゼノンの言っていることは次のようになります。
「時計の長針が3に達した時点で短針は長針がそこに達するまでの時間分先に進んでいる(以下これのくり返し)、だから長針は短針を追い越すことができないのだ」と。
この文章を読んでいるさい、自分で長針の動きを止めて考えていることが確認できると思います。位置を決めるさい、動いていては位置が定まらないので無意識のうちに動かないようにしているのです。
下図で考えるのが正解。両者の動きはそれぞれ個別であるのがわかります。
下図で考えるとまるで亀がアキレスの進路をふさいでいるようなので、かん違いしやすいおそれがあります。個別の動きを互いに連動したものと思い込むからです。
この二元論は、「心身問題」として2つの問題を提起することになります。精神を物質からの独立の存在としてどのように認めるのかという問題と、非物体である精神が、どのように物体である身体を動かすのかという問題です。
実体二元論の代表例であるデカルト二元論の説明図。デカルトは松果腺において独立した実体である精神と身体が相互作用するとした。
つぎは心身一如による精神と身体の相互作用のイメージ。
全身、これが光明です。
全身、これが全心です。
全身、これが真実体です。
全身、これが唯一の表現です。
ブッダの教えを学ぼうとする人は、つぎのことを知らなければなりません。
仏道は思慮・分別をはたらかせたり、あれこれ推測したり想像したり、知覚や知的に理解することの外にあるということを。
もし仏道がこれらのうちにあるのなら、わたしたちは常にこれらの中にあり、これらをさまざまに使いこなしているのになぜブッダの教えを理解できないのでしょうか。
教えを学ぶには思慮分別等を用いてはならないのです。
ですから聡明であるとか、学問を先とせず、意識的なことを、観想を先とせず、これらすべてを用いることをしないでそして心身を調えて仏道に入るのです。
ただただ、わが身をも心をも放ち忘れて、仏の家に投げ入れるのです。そうして仏の働きに従うのです。
その時、なんの力もいれず心も用いずに、生死を離れて仏になるのです。
道元「学道用心集」・正法眼蔵「生死」より
多くの人はいくら教えを聞いても二種の根本を知らないから間違った道に進むのである。
二種の根本とはなんであろうか。そのひとつは清らかなる本体である。これは人々の本心である。これを人々は忘失している。
もうひとつは輪廻の根本である、思慮分別の心を自分とする思いである。
だから思慮分別の心を用いて修行したところで、それは輪廻の原因となるばかりであり、本心に至ることはないのだ。
それはまるで砂を炊いて飯をつくろうとするようなものである。いくら炊き続けても熱砂となっても飯にはならないのだ。
楞厳経 巻1ー13