大分発のブログ

由布・鶴見やくじゅうをメインにした野鳥や山野草、県内四季折々の風景などアウトドア写真のブログです。 

パルメニデスの不生不滅

2022-06-08 09:36:00 | 哲学
 パルメニデスの弟子のゼノンに二分法のパラドックスがありますが、この二分法はパルメニデスの主張する排中律と内容はほぼ同じものです。また、この二分法や排中律を使用するとプラトンが対話篇「パルメニデス」でいうところの“奇妙なもの”が現れてきます。「矛盾」です。

 以下はパルメニデス「自然について」の要約。

 自然について

 ここに二つの道がある。片方は語ることも考えることもできない道である。他方は真実に存在する道である。どちらの道を選ぶかは自明のことであろう。

 われわれが語ることのできるのはただ一つ。それは「ある」ということについてだけなのであり、これは不生不滅なものである。

 わたしは告げる。「その姿は完全であり、不動であり、永遠なものである。」そしてこのことを示す証拠が非常に多くある。

 またそれは過去に「あった」ものでもなければ未来に「あるだろう」ものでもない。それはまさに今「ある」のだ。すべてが一つのものとしてその全体が一挙に現れているのだ。

 「ある」の始まりをなぜもとめるのか? どこからか現れ出たとでもいうのか? それは『無からである』というのをわたしは許さない。なぜならこの「ない」ものについては語ることそも考えることもできないからである。何もないところから来たのならば,なぜそれを早めるのではなく後から生じさせる必要があったのか。したがって、それ全く「あるか」、全く「ない」かのどちらかでなければならない。

 思考することと、思考の対象とは結びついている。なぜならば、それについて考えたり話したりする対象がなければ、人は思考することができないからである。まことに「ある」ものの他には何ものも 現にありもせずこれからあることもないだろう。運命の女神が「ある」ものを縛めてそれを完全にして不動のものにしているのだから。

 そもそもどうして「ある」ものが後になって滅びるだろうか。どうして生じるだろうか? そのようなものはかりそめのものであり、常に「ある」ものではない。かくて「生成」は消し去られ、「消滅」はその声が聞けないことになった。

 さらにまた「ある」ものは分割することができない。すべてが一様であるから。またそれは、ここでは多くあったりあちらでは少なくあったりすることになく、すべてがつながり全体があるもので充ちみちている。このゆえに全体が連続的である。あるものがあるものに密接しているのであるから。

  それはあらゆる方向において 完結していて、譬えて言えばまんまるい球の塊のようなもの、まん中からあらゆる方向に均等を保つ。場所により大きくまたより小さいということはないからである。

 それは同じものとして同じところにとどまりつつただ自分だけで横たわり、そしてそのようにしてその場に確固ととどまる。なぜならば力つよき必然の女神が 限界の縛めの中にそれを保持し、その限界がまわりからこれを閉じ込めているから。

 このゆえにあるものが不完全であることは許されない。 それは何も必要としないから。もしも不完全ならすべてを必要としたことであろう。

 ここで私は、真理についての信頼に足る言葉と考えをやめることにしよう。これよりのちはわたしの虚構を聞きながら人々の意見を学ぶがよい。
    パルメニデス

   
パルメニデス[前515ころ~前445ころ]古代ギリシャの哲学者。エレア学派の祖。真に「有るもの」は、唯一・不生不滅・不変不動の充実した完全なものとして球体とされ、一切の変化を仮象と見なした。(デジタル大辞泉の解説 )

 無からは何も生じない

 パルメニデスの説の根幹は「ある」は「ない」から生じないことであり、その背面の論理として「ある」は「ない」に転化しないことが主張されています。
 
 ただ、この説の難点は「ある」が「有る」なのか「在る」なのかがはっきりしないことです。というより二つが混在してるようです。文章のはじめは存在の「在る」で途中の時間や思考に関するところが判断の「〜である」のあるになり、そして終わりのほうがまた存在の「在る」になっているように思われます。

 この説の面白いのは「ある」と「ない」の転化を禁じただけで現実に経験する疑うことのできない明白な事実である生成と消滅、運動と変化、多数性と多様性が消えてしまうことにあります。

 簡単に有無で考えると無→有への転化、すなわちこれまで無かったものが有るようになるのが発生。有→無への転化、すなわち有るものが無くなるのが消滅。

 無→有 発生
 有→無 消滅

したがって有無の転化を禁じると生じることもなく滅することもなくなります。これがパルメニデスの言う「不生不滅の存在」という意味かどうかはわかりませんが、西洋の「実体」という概念のさきがけになっているのは確かなようです。  


   

 真理をめぐる重要な点は、真理を実体としてでなく、主体としても捉え、表現することである。ヘーゲル

 無からの創造

 発生と消滅という言葉は客観的な表現ですが、これを主観的に表現すると宗教的世界観になります。主観的にみるとはそこに「意志」を入れてみることです。

 すると無から有の発生は創造へ、有から無への消滅は破壊へと言葉が変わります。天地創造とこの世の終末です。この有と無と生成•消滅の不可分性を表したのが古代インドの宗教です。

 三神一体

 
エローラ石窟寺院のトリムールティ像。

 三神一体(さんしんいったい)またはトリムールティはブラフマーとヴィシュヌとシヴァは同一であり、これらの神は力関係の上では同等であり、単一の神聖な存在から顕現する機能を異にする3つの様相に過ぎないというヒンドゥー教の理論である。すなわち、ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァの3柱は、宇宙の創造、維持、破壊という3つの機能が3人組という形で神格化されたものであるとする。一般的にはブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァがそれぞれ創造、維持、破壊/再生を担うとされるが、宗派によってバリエーションが存在する。wiki
  


 新しさの出現

 新しさは、それを生じさせる原因の外に立って観察する者にとっては多大な″偶然″の関与ということでしかあり得ないが、その内部に立つ者にとっては、それは″自由な創造的活動性″ である。 世界の中に新しさが出現するということを否定するふつうの議論は、それが突然、無から躍り出るとすれば、世界の理性的な連続性を破ることになる、というものである。

W・ジェームズ純粋経験の哲学p166~

 仏教の不生不滅

 生じる時はただ空が生じるのみ。滅する時はただ空が滅するのみ。実にひとつとして生じるものなく、実にひとつとして滅するものはない。
      達摩二入四行論 5

 あらゆるものが有ると思う時も、その有るもの自ずから有るのではなく自分の心が有るとしているだけであり、またあらゆるものが無いと思う時も自分の心が無いとしているだけである。他の存在についてもこのように自分が勝手に「有る」と思い、「無い」と思っているだけである。
これを妄想という。
     達摩二入四行論49


*最初の文に関連記事を継ぎ足し継ぎ足ししたのでツギハギだらけになってしまいました。悪しからず。



ゼノンのパラドックス/飛ぶ矢

2022-06-07 23:04:00 | 哲学

飛んでいる矢は止まっている

編集

「すべてのものはつねに静止しているか、動いているかである。何ものもそれ自身と等しいものに対応しているときには常に静止している。しかるに動くものが常に、今、それ自身と等しいものに対応しているとするならば、動く矢は動いていない。」とかれは言うのである。

『自然学』第6巻第9章 239b5-

 アリストテレスは続けて、「この議論は、時間が今から成ると仮定することから生ずる」と述べています。

 じつは、このゼノンの第三逆理がそのまま二分法とアキレスと亀のパラドックスの答えになっています。この三つの共通点は動きと位置の関係において、「あるものの位置が特定されるなら、そのとき、それは動いていない」というものです。

 第一逆理でランナーが走る距離の中間点に到達した時、第二逆理でアキレスが亀のいた位置に到達した時、そして第三逆理で飛んでいる矢がその瞬間の位置に等しく対応している時に、動いているものは動いていない、と言っているのです。

 運動するものの位置を定めようとすれば、その動きを止めねばならず、逆に、動きを知ろうとすると今度は位置が定まらなくなるということです。もっと簡単に言えば、上を見ると下が見えず、下を見ると上が見えなくなるのと同じ理屈です。ここでは動と静との二項対立がテーマになっています。位置についてはベルクソンの次のような考えが参考になると思います。


 位置

 動くものの運動は内から検討されると単純な事物であり、外側から、そして相対的に検討されると、それは複合体となります。なぜでしょうか。それは、動くものの位置が運動の一部ではないからです。

 運動とはもろもろの位置からつくられているわけではありません。その証拠に、もろもろの位置を並べ、位置に対して位置を並置するならば、不動性に対して不動性を並置することになります。そのようなやり方では、決して運動を手に入れることはないのです。 

 動くものの位置とは何でしょう。それはある想定を行うことです。こういうことです。あなたは、運動の外側に存在します。あなたはそれを見つめます。あなたは、その動くものがある点で停止したと想定するのですが、実際にはそこで停止はしていません。それでも、そこで停止したかもしれない、とあなたは考えます。あなたが動くものの位置と呼ぶもの、それは、停止の想定ということです。

 動くものは決して、それが過ぎ去る点には存在しません。もし動くものが過ぎ去る点に存在するのであれば、それはある地点と合致することになるし、その結果、運動は不動性であるということになるでしょう。

 さて、動くものは、もし停止したならば、そこに存在することになるでしょう。そして、この「もし動くものが停止したならば」という想定こそ、位置と呼ばれているものなのです。

図1


 それはしたがって、部分的に記号的な何か、不動性による運動の表象なのです。不動性によって運動を作ることは決してできない、ということは明らかです。不動性に不動性を付け加えながら、私たちは、運動の一種の贋造へと至り、私たちの思考にとっての運動の等価物に至ります。ですが、模倣は絶えず不完全なものであり、私たちは、ますますそれをモデルに近づけることを強いられます。何度も点を挿入し、絶えず位置に位置を付け加えなければならないのです。こんなふうに私たちは、無限に向って歩みを進め、尽きることのない数え上げの途上にいるのです。

ベルクソン『時間観念の歴史』「相対的な知と絶対的な知」より


 運動や時間のような連続するものを視覚化することをアナログといいます。

アナログ
analogは、連続した量(例えば時間)を他の連続した量(例えば角度)で表示すること。デジタルが連続量をとびとびな値(離散的な数値)として表現(標本化・量子化)することと対比される。時計や温度計などがその例である。エレクトロニクスの場合、情報を電圧・電流などの物理量で表すのがアナログ、数字で表すのがデジタルである。元の英語 analogy は、類似・相似を意味し、その元のギリシア語 αναλογία は「比例」を意味する。Wikipedia

 アナログ時計や温度計は位置と動きの関係を考えるときにとても参考になります。時計を眺めながら考えると何かがひらめくかもしれません。
見ている時、針は動いていても数字は不動ですが、考える時は数字の変化を動きに等値しているはずです。止まっている数字を動かしているということです。








二分法のパラドックス

2022-06-07 22:29:00 | 哲学

 二項対立としても知られる競技場のパラドックスでは、ゼノンはどんな運動選手も、ゴール地点には決して到達出来ないだろうという。

  

 運動選手が競技場のコースを走ろうとすれば、まずコース全体の中間点に到達しなければならない。この時点で、走る距離は元の長さの半分になっている。残りを走ろうとすれば、また、その中間点に到達しなければならない。残された距離は元の1/4だ。残りの1/4を走るには、またまたその中間点に到達しなければならない。残りは元の1/8だ。そうやって走っていくと、いつでもゴールに着くためにはその直前に残した距離の半分が残ってしまう事になる。つまり、運動選手はゴールに到達できないという事になる。

アリストテレスは答えて言う。

「一つの線分が二分割の集積として完全現実的にあるとする者は、分割点を始点と終点と二つに数えて、運動を連続的ではないものとし、停止させることになるだろう。」

アリストテレス「自然学」8卷8章

 別の図に変えてみます。こちらのほうが動きが速いのでゼノンの前提の不可能なことが分かりやすいと思います。


 放たれた矢はまず的までの半分の距離を飛ばなければならない。的の半分の点にまで到着したとしても更に残りの半分の半分にも、更にその残りの半分にも同様に・・・と、到着すべき地点が限りなく前に続く故に到着することができない。だから矢は的に当たらない。

 アキレスと亀の場合と同じく、この話には現実ではあり得ない事柄が挿入されていますが、どこでしょう。それは実際に飛んでいる矢の場合、的との半分の距離Aに達した後に残りの半分の距離というのが設定できないということです。だから半分の半分・・・以下の話はゼノンの作り話なのです。アリストテレスの指摘したように最初の分割点を仮の終点とし、次にその終点を仮の始点として二重に数えることで話を振り出しに戻しています。そしてこれが無限進行の原因となっています。

 また、線分の分割と動きを結びつけて考えていることにも問題があります。矢を時計の針に置き換えてみるとよくわかりますが、針の動きは文字盤の数字とは関係ないのです。文字盤の数字が細分化されるにつれて針の動きが速くなったり遅くなることはありません。要するに時間や空間を分割しているのではなく測りの数字を分割しているだけなのです。

  

      1+1/2+1/4+1/8+1/16+1/36・・・・数学的解答としては、このように無限級数の収束で説明できるとしていますが、答えになっていません。数学的解答とは頭の中で考えただけで現実味のないものです逆にますます現実から離れていくものです。たとえば1/2 + 1/4とは具体的にどういう状態でしょうか。また収束したり到達するだけではなく、アキレスと亀の場合では追い抜いたあとのことまで説明しなければならないのです。

 このバラドックスの核心は次の点にあります。すなわち、運動と位置の両方を同時に確定することはできない、ということなのです。運動しているものの位置を定めようとすれば、その動きを止めねばならず、逆に、動きを知ろうとすると今度は位置が定まらなくなるということなのです。

 運動選手がコースの中間点に達した時、あるいは矢が半分の距離に達した時、その時、無意識のうちに自分がそれらの動きを止めて考えていることが自分で確認できると思います。動きを止めなければ残りの半分の距離が設定できないからです。自分で動きを止めていながらそのことに気づいていない、というのが一種の盲点のようになっているのです。

『分けてはならぬ。』

これはゼノンの師であるパルメニデスの禁令です。パルメニデスは二つ以上のものを背理とみなしまし

た。一つのものを二つに分けるやいなや、その間を三つと数えねばならず、これが限りなく続いてしまうからです。二分法とは一つのものを、あるいは全体が連続的であるものを分けて隔ててしまう方法なのです。


 ではAからBへはどうして行けばいいのか?答えは簡単です。何も考えず普通にAからBへ行けばいいのです。無限小とは分けると現れ、分けなければどこにもないのです。問いがあれば答えがあり、問いがなければ答えもないのと同様です。


*連続的推移を数字で表すのは無理なので数字ではなく記号の「~」(波ダッシュ)をつかいます。AからBはA~BでAB両方をふくんでいます。


  

「考えれば考えるほど間違ってしまう」というお話でした。


   ✧✧

 次の記事「飛ぶ矢」では動きと位置の関係をベルクソンの説を加えてもう少しくわしく解説しています。前の記事「アキレスと亀」との三部作です。



アキレスと亀のパラドックス

2022-06-07 22:28:00 | 哲学

 イソップ物語のような話の面白さと、そのキャラクターのユニークさで人気の「アキレスと亀」。俊足のアキレスがノロノロと進む亀にどうしても追いつけないというお話です。

 アキレスと亀

 昔、ギリシャにアキレスと亀がいて、ある日2人は徒競走をすることになりました。先にゴールに到着した方が勝ちです。しかしアキレスの方が足が速く勝敗は明らかなのでハンディキャップとして亀にいくらか進んだ地点(地点Aとする)からスタートしてもらいました。スタート後、アキレスが地点Aに到達した時には、亀はアキレスがそこに達するまでの時間分だけ先に進んでいます(地点B)。アキレスが今度は地点Bに達したときには、亀はまたその時間分だけ先へ進んでいます(地点C)。同様にアキレスが地点Cに達した時には、亀はさらにその先にいます。この繰り返しで、結果、いつまでたってもアキレスは亀に追いつけなくなりました・・・。

 この話、アキレスのほうが速いので、普通に考えればアキレスが亀に追い付き、追い越せないはずはないのですが、なぜか本当に追いつくことができないかのように思わされてしまいます。この話の中のどこかにトリックが隠されているのでしょうか。

 当たらない矢

       



ある日、アキレスとゼノンの2人が射撃場で賭けをすることになりました。亀の背中の上に置かれたリンゴに矢が当たればアキレスの勝ち、はずれたらゼノンの勝ちです。制限時間は亀が競技場を横切る間だけと決められました。

 勝負が始まり、アキレスは弓を手にして、いつものように的のリンゴに狙いを定め、矢を放った。ところが、矢が到達するまでに的のリンゴが動き、射損じてしまった。アキレスはもう一度やってみた。より強く弓を引き、より速く矢を放った。でも無駄だった。的が右に動いたため、アキレスの矢は当たらず、わずかに左に落ちた。何度繰り返してもどうしても的に当たらない。

 この様子を見ていた猟師が見かねて言った。「ここから的を狙っても当たらないぞ。的のわずか右を狙うんだ」。

 アキレスが猟師のアドバイスに従って矢を放ったところ、矢はリンゴの中心を貫いた。   

「アキレスと亀」のパラドックスに答えるアンサーストーリーを作ってみました。アイデアはアラン・R・ホワイトにより1963年に提起されたもので、創元社「おもしろパラドックス」ゲイリー・ヘイデン&マイケル・ピカード(著)で紹介されています。

 馬の鼻先に人参 

最初の設定で亀がアキレスより前の位置に居るようにすれば準備完了です。このあとはアキレスがどんなに速くても亀に追いつけないのです。

 

 トリック

 この話のトリックは最初の文章にあります。

「スタート後、アキレスが地点Aに到達した時には、亀はアキレスがそこに達するまでの時間分だけ先に進んでいる。」という部分です。 

 上の文章の「アキレスが地点Aに到達した時点に」という言葉でアキレスの動きを止め、「そこに達するまでの時間分だけ先に進んでいる」で、亀だけが動くように設定されています。あるいはそのように考えさせるように誘導しています。

 実際にはアキレスが亀のいる地点に到達した、正しくは並んだ瞬間にすでに抜き去っているので上の文章は成立しないのです。

 時計の短針を亀、長針をアキレスに置き換えてみるとよくわかりますが、ゼノンの言っていることは次のようになります。

「時計の長針が3に達した時点で短針は長針がそこに達するまでの時間分先に進んでいる(以下これのくり返し)、だから長針は短針を追い越すことができないのだ」と。

この文章を読んでいるさい、自分で長針の動きを止めて考えていることが確認できると思います。位置を決めるさい、動いていては位置が定まらないので無意識のうちに動かないようにしているのです。

下図で考えるのが正解。両者の動きはそれぞれ個別であるのがわかります。

下図で考えるとまるで亀がアキレスの進路をふさいでいるようなので、かん違いしやすいおそれがあります。個別の動きを互いに連動したものと思い込むからです。





一目でわかるデカルトと道元の違い

2021-03-23 09:29:00 | 哲学
同一律 A=A B=B
自己同一律 A=B

似たようにみえますがかなり違います。同一律は思考の論理であり自己同一律は直覚の論理です。デカルトの心身二元論と道元の心身一如を比べるとその違いは一目瞭然です。

✧心身二元論 

 デカルトは、精神と身体の両者を、区別される2つの実体でありながら、相互作用が可能な関係にあるとする「心身二元論」を打ち立てました。


この二元論は、「心身問題」として2つの問題を提起することになります。精神を物質からの独立の存在としてどのように認めるのかという問題と、非物体である精神が、どのように物体である身体を動かすのかという問題です。

 実体二元論の代表例であるデカルト二元論の説明図。デカルトは松果腺において独立した実体である精神と身体が相互作用するとした。
 1641年の著作『省察』より
   
  
 
 
 つぎは心身一如による精神と身体の相互作用のイメージ。


道元は言います。
 全身、これが光明です。
 全身、これが全心です。
 全身、これが真実体です。
 全身、これが唯一の表現です。   
 道元:正法眼蔵第7「一顆明珠(いっかみょうじゅ)」より
   金剛力士像

     
 思慮分別を用いない

 ブッダの教えを学ぼうとする人は、つぎのことを知らなければなりません。

 仏道は思慮・分別をはたらかせたり、あれこれ推測したり想像したり、知覚や知的に理解することの外にあるということを。

 もし仏道がこれらのうちにあるのなら、わたしたちは常にこれらの中にあり、これらをさまざまに使いこなしているのになぜブッダの教えを理解できないのでしょうか。

 教えを学ぶには思慮分別等を用いてはならないのです。

 ですから聡明であるとか、学問を先とせず、意識的なことを、観想を先とせず、これらすべてを用いることをしないでそして心身を調えて仏道に入るのです。

 ただただ、わが身をも心をも放ち忘れて、仏の家に投げ入れるのです。そうして仏の働きに従うのです。

 その時、なんの力もいれず心も用いずに、生死を離れて仏になるのです。

 道元「学道用心集」・正法眼蔵「生死」より


  まちがった道

 多くの人はいくら教えを聞いても二種の根本を知らないから間違った道に進むのである。

 二種の根本とはなんであろうか。そのひとつは清らかなる本体である。これは人々の本心である。これを人々は忘失している。

 もうひとつは輪廻の根本である、思慮分別の心を自分とする思いである。

 だから思慮分別の心を用いて修行したところで、それは輪廻の原因となるばかりであり、本心に至ることはないのだ。

 それはまるで砂を炊いて飯をつくろうとするようなものである。いくら炊き続けても熱砂となっても飯にはならないのだ。
     楞厳経 巻1ー13