大分発のブログ

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アートマン

2019-12-14 11:40:00 | ヴェーダンタ/アートマン
 アートマンは、ヴェーダの宗教で使われる用語で、心の最も深いところにある個の根源を意味します。「真我」と訳され、近年では「真実の自己」とも呼ばれています。

 ヴェーダの核心は、ブラフマン(宇宙我)とアートマン(個人我)の本質的同一(梵我一如)の思想で、ウパニシャッド(奥義書)ではつぎのように説明されています。 
   


 内なるアートマン

 神は外の世界に向けて孔をあけた。それで人は外を見るのだが、内のアートマンには眼を向けることはない。

 賢者たちは、不死を求めて、眼をひるがえし内にアートマンを観察する。

 愚かな人々は外に向かってさまざまな快楽のあとを追う。そして彼らはあらゆる所に張りめぐらされている死神の縄にとらえられる。

 しかし賢者たちは不死を知りこの世において移ろいゆくものの中に永遠なるものを求めることはない。
   カタ・ウパニシャッド 4章

 「これこそ、それである!」と、彼らは考える。

 言葉では言いあらわせない最高の幸福、それを人はどのようにして理解したらよいのだろうか。

 それは『存在する』という以外に、どうして理解されようか。

 『存在している!』 

 この言葉が得られたとき、その真の本質は明らかにされるのである。
        同 6章
 
 すべての者の内にあるアートマンは、その「一なる姿」をさまざまに現す唯一の支配者である。

 賢者たちはそれが自身の中にあると観じて、自らの平安を享受するが、他の者たちにとってはそうではない。

 恒常なものの中でも恒常であり、知恵ある者の中でも知恵すぐれ、彼は人々の願いを満たす唯一者である。

 賢者たちはそれが自身の内にあるのを観じて、永遠の静けさを享受するが、他の者たちにとってはそうではない。
         同 5章
 
  バラモン

 それは飢え、憂いに愚痴、さらには老いも死も
超越するものである。

 実にこのようなアートマンを知る時、バラモンたちは息子を得たいとの願い、財産を得たいとの願い、そして世俗に対する願望を捨てて、食を乞うて歩き修行するのである。

 なぜなら息子を得たいとの願いは財産を得たいという願いにほかならず、財産への願望は世俗に対す願望でありこの二つの願いは実は同じであるからである。

 だからバラモンは学識を捨てて愚かさに満足すべきである。

 彼はさらに学識と愚かさとをともに捨てて聖者となり、聖者であることと聖者でないこととの両者を捨てて、かくて彼はバラモンとなるのである。
 ブリハッド・アーラヌヤカ・ウパニシャッド3章5節

  

 アートマン

 ブラフマンの城の中にハスの花の形をした小さな家があり、その中に小さな空間がある。

 その中に存在するものこそ、あなたの捜さなければ
ならないもの、見つけなければならないものである。

 その小さな空間の広さは
目の前に広がる空間と同じ広さなのある。この中に天と地とが包みこまれている。太陽も月も、星も稲妻も、火も風も、人が所有するものも所有しないものも、すべてがその中に包みこまれている。

 それは老いによって衰えることもなく、もちろん死ぬこともない。このブラフマンの城の中に人の願いのすべてが包みこまれている。 
 それは悪を絶滅している。それは不老不死であり
何の憂いもなく何の苦しみもない。飢えることも渇くこともなく、真実なる願いと真実なる思いをもつ、
アートマンなのある。
 チャーンドギヤ・ウパニシャッド 8章1節

 祝福された人

 この世において、
祭祀によりかち得た世界が
滅びるように、あの世においては善き行ないによりかち得た世界は滅びる。

 この世でアートマンと
真実の願いを知ることなく
あの世に向かう人が自由を得ることはない。この世でアートマンと真実の願いを知りあの世に向かう人は自由を得ることができる。

 そのような人は何であろうと欲しいものは心に思い浮かべるだけで目の前に現れる。ただ願うだけで、すべてがかなえられる。それを得てその人は「祝福された人」と呼ばれる。

 この肉体から外に出て
最高の光と合体し、そののちありのままの自己の姿で現れるあの完全なる心の平安、それがアートマンなのである。

チャーンドギヤ・ウパニシャッド 8章 1~3節
  

 ブラフマンの世界

 アートマンはさまざまな世界が混じり合わないように防ぐ一つの壁であり境界線である。

 昼もこの壁を越えることはない。夜もこの壁を越えることはない。

 老いも死も、憂いも悲しみも、善い行ないも悪い行ないも、その壁を越えることはない。

 あらゆる邪悪なものはそこから引き返す。なぜならばブラフマンの世界はすべての悪を断ち切っているからである。

 この壁を越えるとき、
目の見えない人は目が見えるようになり、傷ついている人はその傷がいやされ、
病気の人は健やかになる。

 この壁を越えるときあらゆる闇は真昼のようになる。ブラフマンの世界は一瞬のうちにすべてを明るくするからである。

 清らかなる生活を営む人によってのみ、このブラフマンの世界は見いだされる。そしてそれらの人々はすべての世界において行動の自由を得る。
 チャーンドギヤ・ウパニシャッド 8章4節


  無題

 われは微細にして極微なるもまた、大にして最大なり。

 われは豊かなる全なり。
われは太古なり、精神なり、神たる主なり。
われは金色燦然として、神の姿なり。

 手と足を持たねども、不思議の力にあふれ、眼なくして観、耳なくして聞き、
形によらずしてわれは知る。

 されど、われを知るものなし。精神なれば、存在者なればなり。

 カイヴァルヤ•ウパニシャッド2•1
 R•オットー「西と東の神秘主義」p141


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