大分発のブログ

由布・鶴見やくじゅうをメインにした野鳥や山野草、県内四季折々の風景などアウトドア写真のブログです。 

ノヒメユリとヤツシロソウほか

2019-08-11 21:11:58 | 季節の花と山野草
ヤツシロソウ

ノヒメユリ


県内にノヒメユリは自生していないので阿蘇まで遠征。波野村のスズラン公園です。


ほかにはカワラナデシコ、アソノコギリソウ、ホソバシュロソウ。


オミナエシ、チダケサシ、サイヨウシャジン。


マツモトセンノウ、ヤマホトトギス、ホソバオグルマ、サワヒヨドリ。


サワヒヨドリ、ヒオウギ、サクラタデ。

2019.8.11


阿蘇波野高原


 ブルー・ビー。青い蜂のルリモンハナバチです。晩夏から9月に飛来する絶滅が危惧されている稀少な蜂で阿蘇以外ではほとんどお目にかかれないそうです。

2018.9.15

ノヒメユリ

ヤツシロソウ


ヒオウギ


ホソバオグルマ

2018.8.7














そのものズバリ

2019-08-04 20:12:58 | 哲学
科学が実在を扱う方法というのは対象をいわゆる客観的方法で観察する。たとえば、この机の上に一輪の花がある。これを科学的に研究するとすれば、科学者はあらゆる角度から分析に付する。

 植物学的、化学的、物理学的にいろいろやる。そしてそれぞれの特殊の研究的立場から花について見出だしたあらゆる事柄を報告する。

 そこでいわく「花の研究はつくされた。別の研究をやってみて何か新しいことが見つけ出されぬ限り、この花について述べることはもはや何も残ってはおらぬ」と。

 実在の科学的取り扱いというもののおもな特徴は、対象を記述すること、それについて語ること、その周囲をぐるぐる回ること、われわれの知的感覚に訴えるものはなんでもこれをとらえて、それを対象から抽出する。そしていっさいのこうした手筈が終わったと考えられる時に、こうした抽象の結果を総合して結論というものを得ることになる。

 しかし、なおここに疑問が残る。「網にとらえた物は果たして完全な物だったのか」ということだ。私は言う。「とんでもない」と。なぜなら、私たちがとらえ得たと思った対象とは抽象の寄せ集めではあるが、″そのものズバリ″ではない。実用的には功利的な目的のためにはこれらのいわゆる科学的公式といったものでも十分過ぎるように見える。

 けれども、いわゆる対象自体は全然そこにはいないのだ。水から網を引き揚げてみて、「ハテ何か網目から逃げ出しているな」と言うことに気が付く。

 しかし、実在に接する方法はまだほかにもあるのだ。それは科学に先行するかまたは科学の後からやって来る方法である。これを私は禅的な方法と呼ぶ。

 禅的な方法とはじかに対象そのものの中にはいっていくのである。
 
 鈴木大拙・フロム「禅と精神分析」より



二種の知識/鈴木大拙

2019-08-03 22:49:16 | 仏教の大意
 二種の知識

 われわれが真実を知る仕方に二つの種類がある。その一つはそれについての知識であり、も一つは真実そのものから出てくるものである。「知識」を広義に用いれば、前者を可知的知識、後者を不可知的知識ということができると思う。

 知識が主体と客体との関係であるとき、これは可知的であるが、ここでは、主体が知るもの、客体が知られるものとなる。この両立が存するかぎり、これに根拠を置く一切の知識は公共の所有であり、誰でもこれをもつことができるから可知的である。

 逆に、知識が公共的でなく、他に分け与えることができないという意味において厳密に個人的となる場合、これは不知的または不可知的となる。不知の知識は内的経験の産物である。ゆえにそれは全く個人的でありしかも主観的である。

 しかしこの種の知識の妙な点は、この知識をもった者は、その個人的性質にもかかわらず、その普遍性を絶対に確信しているということである。彼は、誰しもこれを具有しているが、しかし誰もがこれに気づかぬということを知っている。


 相対的と絶対的

 可知的知識は相対的であるが、不可知的知識は絶対的であり超越的であって、そして理念の媒介というものを以てしてはこれを伝えることができない。

 絶対的知識とは主体者が自己と知識との間になんら介入物を挿しはさまずに己れ自ら掴むという知識である。主体者は自己を知るために主と客といったものに自己を二分しない。これを内的自覚の状態といってよかろう。この自覚は奇妙にも人間の心を不安と怖れから解放する力をもっているのである。


 般若直感

 不可知的知識は直感的知識である。しかし般若直感は知覚作用としての直感とは全然違うものである。知覚としての直感の場合には、見るものと見られるものとがあって、それらは分けられるもので、事実分かれていて、一方が他に対立している。この対立した二つのものは相対性と差別の領域に属するものである。般若直感は単一性と同一性のところにある。それは倫理的直感でもなく数学的直感でもない。

 般若直感の一般的性格付けをするならば次のようにいいえる。即ち、般若直感は派生的でなく原始的である。推理しうるものでも合理的でも、媒介によるものでもなく、直接で、無媒介で、非分析的で、最も完全なものである。

 認識によるものでなく、象徴的でもなく、目的的でもなく、単にただ現れて出るものだ。抽象でなく具体に、過程・目的としてではなく、事実として究極的で、これ以上のものはなく、還元することのできぬもの、永遠に無に帰するものでなく、無限に含んでゆくものなどである。

 鈴木大拙全集第12卷 「胡適博士に答う」より