井筒俊彦著「イスラーム哲学の原像」(岩波新書)のp99、「超越のことば」p190に次のようなルーミーの詩が掲載されています。
これは「マナスヴィー」からではなく「シャムス・タブリーズ詩集」の一節だそうです。
汝とわれ
われらのあいだから
汝とわれは消え去って われはわれでなく、汝、汝ではなく、さりとて汝、すなわちわれでもない
われはわれでありながらしかも汝
汝は汝でありながらしかもわれ
やや読みづらいので読みやすく変えてみました。
あなたと私
私たちの間から
あなたと私は消え去り
私は私ではなく
あなたはあなたではない。かといって、
あなたが私なのでもない。
私は私でありながら、しかもあなた。
あなたはあなたでありながら、しかも私。
あなたと私は消え去り
私は私ではなく
あなたはあなたではない。かといって、
あなたが私なのでもない。
私は私でありながら、しかもあなた。
あなたはあなたでありながら、しかも私。
ルーミーの詩
上のルーミーの詩と読み比べて下さい。キリスト教神秘主義を代表するマイスター・エックハルトの説教からです。
わたしと彼
わたしたちが彼を知るためには、像にもよらず、介するものなしに単純直接に知らなければなりません。
しかし、どのようにしてでしょうか?
彼は彼のままわたしに、
わたしはわたしのまま彼に、ならなければならないのです。
もっとはっきり言いましょう。神はわたしに、わたしは神にならなければならないのです。
エックハルト 説教83
次は禅を世界に広めた日本の仏教学者の鈴木大拙が語ります。
相互融合
―ある有名な真宗信者がいました。この人はまったく無学でしたが、真宗への信心はほとんど禅と同じで、よくこう言っていた。「浄土にいる瞬間は同時にこの世にいて、この世にいると言った瞬間、浄土にいる」と。
この人は下駄作りの職人でした。彼はよく言いました。「わしが木を下駄の形に削っているときは、わしの腕も手も動いているが、この手も、この腕も、自分のものじゃない。アミダ仏のものだ」と。
このアミダ仏を、神とかキリストと呼んでも構いません。そして「このアミダ仏がわしの手も腕も動かしている。アミダ仏がわしの身体で働いている」と言うのです。
「この自分がアミダで、アミダはこのわしだ。」と同時に、「アミダはアミダ、わしはわしであって同じではない。」
この混乱―この融合は、ふつうの意味の混乱ではないのです。「相互融合」です。互いに融合しあうことで、私は「相互融合」と呼んでいます。ただ「雑然とまじりあう」だけならそれは混沌ですが、そうではない。
「わたしはあなた、あなたはわたし。」同時に「わたしはわたし、あなたはあなた。」
という世界です。
ここがきわめて重要です。「わしが働いているとき、それはわしではなく、アミダが働いている。しかし、アミダはアミダ、わしはわし」という世界。このところは混同してはならない。
そして「わしはアミダで、アミダはわしだ。それと同時に、わしはわし、アミダはアミダ」と言えるとき、そこに真宗の信心があり、本物の宗教的生活の原点が生まれるのです。
これは宗教的生活を送る上できわめて重要な点です。宗教的人生が可能になるのは、この「融合」が起こり、同時に相互の区別が実際に可能となっているときです。
アメリカン・ブディスト・アカデミー講演(1957年)
CDブック「大拙禅を語る」より
最後はルーミーの詩「想い人はわたし」を簡潔にした寓話です。
あなたはだれ?
恋をしている男が恋人の家のドアをノックしました。
「だれ?」
内側から恋人が言いました。
「わたしです。」と男が答えました。
「帰ってください。この家にはあなたとわたしの二人は入らないのです。」
拒絶された男は砂漠に行きました。そして恋人の言葉について思いめぐらしながら、何か月も続けて黙想しました。
恋をしている男が恋人の家のドアをノックしました。
「だれ?」
内側から恋人が言いました。
「わたしです。」と男が答えました。
「帰ってください。この家にはあなたとわたしの二人は入らないのです。」
拒絶された男は砂漠に行きました。そして恋人の言葉について思いめぐらしながら、何か月も続けて黙想しました。
・・ついに彼は戻ってきました。そして再びドアをノックしました。
「だれ?」
「わたしはあなたですよ。」
「だれ?」
「わたしはあなたですよ。」
ドアは直ちに開きました。
スーフィの寓話
はっきり言いましょうか。
これが「神人同一」ということです。