こんにちは。これから少し詳しく、論述問題を見ることにしていきます。
新しいものから遡っていこうかと思ってたんですが、書きやすいものから。柄谷行人の『日本近代文学の起源』はむかし読んで、何度か論文書くときに引用したりもしたんで、これからいきますね。コンパクトにまとまった分かりやすい本だと思ってたんですが、読みなおしてみると、きれいに展開してて序論か結論部分をさくっと引用すればいい、みたいな本じゃなかったですね。
設問は、
「次の文章は、柄谷行人『日本近代文学の起源』の一部です。これを読んで、内面の「制度性」とは何であるのか、説明しなさい。具体的な作品事例に即して述べるのが望ましい。」(600字~800字)
というもの。
短い文章ではなくて、一冊の本なのでどの辺から引用されたのかよく分かりませんが、「制度」という言葉が多用されるのは、「Ⅰ風景の発見」「Ⅱ内面の発見」あたりでしょうか。もちろん、「Ⅲ告白という制度」でも、「制度」について触れられています。内容を順に見てゆきましょう。
まず目次をあげておきましょうか。
Ⅰ 風景の発見
Ⅱ 内面の発見
Ⅲ 告白という制度
Ⅳ 病という意味
Ⅴ 児童の発見
Ⅵ 構成力について
Ⅰでは、「言文一致」という「近代的な制度」が「忘却」されることによって、「風景/内面」が客観的に描写される対象として見出される過程が考察されます。夏目漱石の文学論、ポール・ヴァレリー、国木田独歩の『忘れえぬ人々』などが取り上げられます。終わりあたりに
だが、独歩が二葉亭のような苦痛を感じなかったということは、彼にとって「言文一致」が近代的な制度であることが忘却されていたということである。そこでは、すでに「内面」そのものの制度性・歴史性が忘れさられている。(50頁)
とあるので、ここが引用されてたら、解答は「言文一致」(の制度や歴史が忘れ去られること)になりますね。
Ⅱでは、言文一致運動によって文字が音声を表現する「透明」を獲得した過程が考察されます。俎上にあげられるのはエクリチュール。漢字のように、概念が先立ってあるものではなく、音声を表現する文字を獲得してはじめて、表現すべき内面が発見され、表現すべき透明な文体ができあがることが考察されます。
Ⅲでは、「告白という形式」が「告白さるべき内面」を作り出してきたことを、『蒲団』を取り上げて考察します。「制度」という言葉が出てくるのは、末尾。「「文学史」はたんに書きかえられるだけでは足りない。「文学」、すなわち制度としてたえず自らを再生産する「文学」の歴史性がみきわめられねばならないのである」(126頁)。天皇制やキリスト教について触れられ、「国家」の成立といわばセットになって「内面」が見出されてきたことを主張します。
Ⅳで取り上げられるのは結核、Ⅴで取り上げるのは児童。アナール学派的な文化史の成果をほどよく取り込んでいる。Ⅳでは「病原体」が発見され、「一つの「原因」を確定しようとする思想」が「結核」を「原罪」のようなもの(142~143頁)にし、神学的枠組みを発生させること、Ⅴでは、児童が教育されるべき対象として見出される過程を考察します。
Ⅵで取り上げられるのは、鴎外と坪内逍遥の「没理想論争」と、芥川と谷崎の「「話」のない小説」論争。「前者が「文学」を制度的に確立しようとするものだとすれば、後者はそれに対する不可避的なリアクション」(242頁)と位置づけます。
(つづく)
*引用は講談社現代文庫、1988年による。
新しいものから遡っていこうかと思ってたんですが、書きやすいものから。柄谷行人の『日本近代文学の起源』はむかし読んで、何度か論文書くときに引用したりもしたんで、これからいきますね。コンパクトにまとまった分かりやすい本だと思ってたんですが、読みなおしてみると、きれいに展開してて序論か結論部分をさくっと引用すればいい、みたいな本じゃなかったですね。
設問は、
「次の文章は、柄谷行人『日本近代文学の起源』の一部です。これを読んで、内面の「制度性」とは何であるのか、説明しなさい。具体的な作品事例に即して述べるのが望ましい。」(600字~800字)
というもの。
短い文章ではなくて、一冊の本なのでどの辺から引用されたのかよく分かりませんが、「制度」という言葉が多用されるのは、「Ⅰ風景の発見」「Ⅱ内面の発見」あたりでしょうか。もちろん、「Ⅲ告白という制度」でも、「制度」について触れられています。内容を順に見てゆきましょう。
まず目次をあげておきましょうか。
Ⅰ 風景の発見
Ⅱ 内面の発見
Ⅲ 告白という制度
Ⅳ 病という意味
Ⅴ 児童の発見
Ⅵ 構成力について
Ⅰでは、「言文一致」という「近代的な制度」が「忘却」されることによって、「風景/内面」が客観的に描写される対象として見出される過程が考察されます。夏目漱石の文学論、ポール・ヴァレリー、国木田独歩の『忘れえぬ人々』などが取り上げられます。終わりあたりに
だが、独歩が二葉亭のような苦痛を感じなかったということは、彼にとって「言文一致」が近代的な制度であることが忘却されていたということである。そこでは、すでに「内面」そのものの制度性・歴史性が忘れさられている。(50頁)
とあるので、ここが引用されてたら、解答は「言文一致」(の制度や歴史が忘れ去られること)になりますね。
Ⅱでは、言文一致運動によって文字が音声を表現する「透明」を獲得した過程が考察されます。俎上にあげられるのはエクリチュール。漢字のように、概念が先立ってあるものではなく、音声を表現する文字を獲得してはじめて、表現すべき内面が発見され、表現すべき透明な文体ができあがることが考察されます。
Ⅲでは、「告白という形式」が「告白さるべき内面」を作り出してきたことを、『蒲団』を取り上げて考察します。「制度」という言葉が出てくるのは、末尾。「「文学史」はたんに書きかえられるだけでは足りない。「文学」、すなわち制度としてたえず自らを再生産する「文学」の歴史性がみきわめられねばならないのである」(126頁)。天皇制やキリスト教について触れられ、「国家」の成立といわばセットになって「内面」が見出されてきたことを主張します。
Ⅳで取り上げられるのは結核、Ⅴで取り上げるのは児童。アナール学派的な文化史の成果をほどよく取り込んでいる。Ⅳでは「病原体」が発見され、「一つの「原因」を確定しようとする思想」が「結核」を「原罪」のようなもの(142~143頁)にし、神学的枠組みを発生させること、Ⅴでは、児童が教育されるべき対象として見出される過程を考察します。
Ⅵで取り上げられるのは、鴎外と坪内逍遥の「没理想論争」と、芥川と谷崎の「「話」のない小説」論争。「前者が「文学」を制度的に確立しようとするものだとすれば、後者はそれに対する不可避的なリアクション」(242頁)と位置づけます。
(つづく)
*引用は講談社現代文庫、1988年による。