※非常勤講師を勤めております前橋国際大学での授業内容を、問題のない部分のみ、ブログ上にアップすることに致しました(資料は大学のLMS上にアップしていますが、引用文など少し長めの文章を載せたものは、スマホの画面ではかなり読みにくいため。ブログ記事であればスマホ上でも何とか読めるだろうと思うので)。
※事前に『源氏物語』植物と子供の比喩、および女三の宮と季節を扱うとアナウンスしていましたが、資料の量が増えてしまったため、内容を半分にし、今回は植物と子供の比喩のみ扱うこととしました。女三の宮と季節については、次回扱います。
今回は『源氏物語』の中で、植物が子供と関わって用いられる場面を見ていきます。まず、第1回目でも少し表現した、「なでしこ」から。
1.『源氏物語』のなでしこと常夏
『源氏物語』の「なでしこ」として有名なのが、雨に降りこめられた夜、宮中で若い公達が集まって女性談義をする、いわゆる「雨夜の品定め」と呼ばれる場面のなかで、源氏のライバルである頭中将(最終的には致仕大臣)が話すエピソードです。娘を産んだもののはかなく逃げていなくなった女性との贈答に「なでしこ」「とこなつ」という表現があらわれます。
場面①
「(後に別のところから聞いた話によると、頭中将の正妻から嫌がらせを受けたらしく、心細かったのか)なでしこの花ををりておこせたりし」
(中略)
山がつの垣ほ荒るともをりくにあはれはかけよなでしこの露
(中略)
咲きまじる色はいづれとわかねどもなほ常夏にしくものぞなし
やまとなでしこをばさしおきてまづ「塵をだに」など親の心を取る。
うちはらふ袖も露けきとこなつにあらし吹きそふ秋も来にけり(帚木、1巻54~55頁)
【口語訳】(頭中将)「……(女が)なでしこの花を折って贈ってきたのだった」(中略)
(女)身分が低い山人のような私の庭の垣根が荒れたとしても(私への愛情が薄れたとしても)折々に情けの露(涙)をかけてください、撫でし子である子供、なでしこの花に。
(頭中将)なでしこと咲きまじっている色がどちらかわからないように、子供への愛情とあなたへの愛情がどちらがどちらかはわからないけれども、やはり常夏であるあなたに似るものはない(あなたは格別である)。
「やまとなでしこ」(子供への思い)をさしおいて、まず「塵をすら(据えまいと思う、咲いてからずっと恋人と私が寝る寝床、常夏の花を)」などの親(である女への愛情)の意味を取る。
(女)うちはらう袖も涙で露っぽい床の、常夏の花に嵐(正妻からの嫌がらせを暗示するか)が吹きそう秋のような、あなたの私への飽きが来てしまった。
この場面について、諸注では、「山がつの…」の歌について、
『古今和歌集』巻第十四 恋四
695 あな恋し今も見てしが山賤の垣ほに咲ける大和撫子
が響く、「塵をだに」について、
・『古今和歌集』巻第三 夏
隣より、常夏の花をこひにおこせたりければ、惜しみてこの歌をよみてつかはしける 凡河内躬恒
167 塵をだにすゑじとぞ思ふ咲きしより妹とわが寝るとこ夏の花
が引歌として指摘されています。
「とこなつ」は「なでしこ」の異名ですが、「とこ(床)」の連想から男女関係と結びつきます。
☆「なでしこ」…「撫でし子」という掛詞から子供を連想させる。
☆「常夏」…「床」(とこ)という掛詞から男女関係を連想させる。
ちなみにこの女性は、続く夕顔巻で名乗らないまま源氏の恋人となり、二人でゆっくりと過ごそうと訪れた、源氏の所有する荒れ果てた邸宅で急死する、「夕顔」と呼ばれる女性です。
ここで「なでしこ」にたとえられる娘は、長らく行方不明になっていましたが、のちに源氏の養女として引き取られ、「玉鬘」と呼ばれるようになります。紫の上つきの女房となった、かつて夕顔の女房だった右近と、長谷寺で再会したことがきっかけでした。
次に、第1回の授業でも紹介した、源氏と藤壺の贈答をあげておきましょう。
場面② 藤壺中宮が若宮(のちの冷泉院、実は源氏との子供)出産後、前栽の常夏に付けて、源氏が撫子の花に若宮を重ねる歌をよこす。
(源氏)よそへつゝ見るに心はなぐさまで露けさまさるなでしこの花
花に咲かなんと思ひたまへしも、かひなき世に侍りければ。
とあり。さりぬべきひまにやありけむ、御覧ぜさせて、「たゞ塵ばかり、この花びらに」と聞こゆるを、わが御心にも、ものいとあはれにおぼし知らるゝほどにて、
(藤壺)袖ぬるゝ露のゆかりと思ふにもなほうとまれぬやまとなてしこ(紅葉賀、1巻254頁)
【口語訳】(源氏)「(撫子の花と若宮を)なずらえて(=たとえて)見るにつけても、心は慰められないで、撫子が露に濡れるように、涙がちになる撫子の花である。
(若宮が)花と咲いてほしい(=成長してほしい、繁栄してほしい)と思い申し上げていたことも、甲斐のない世の中でしたので。」
とある。そのような機会があったのか、ご覧にならせて、(王命婦=源氏を手引きした藤壺の女房)「ただ塵ばかりでも(引歌あり)この花びらに(お返事を)」と申し上げるのにつけて、藤壺自身の御心にも、ものがたいへん悲しく思い知られる頃であったので、
(藤壺)「袖が濡れる露と縁があるように、涙を誘うものであるにつけても、やはり疎ましく思われた/思われないやまとなでしこである」
藤壺は源氏との密通関係を厭い、歌を返すこともなくなっていましたが、自分でも「ものいとあはれ」に思い知られるときだったため、歌をちょっと書きつけます。「塵ばかり」の部分には、場面①に関しても引歌となっていた、「塵をだに…」の歌が引かれています。
ここでは「撫子の花」は「撫でし子」から、子供の比喩ですが、藤壺歌の「うとまれぬ」の「ぬ」は文法的には打消とも完了とも取れ、解釈が分かれています。
現行の注釈書では玉上琢弥『源氏物語評釈』以外のほとんどが完了の意味で取っていますが、ツベタナ・クリステワ「涙と袖―平安朝の詩学―」が打消の解釈を提唱し、藤壺歌を本歌取りした俊成女の歌「咲けば散る花の憂き世と思ふにも猶うとまれぬ山桜かな」(『続古今集』春下、122、「洞院摂政百首歌に、花」)などを証歌としました。その上で「掛詞的に」完了、打消の両方の意味があると解釈することを提案しています(石川九楊責任編集『文学』第2号、京都精華大学文字文明研究所/ミネルヴァ書房、2004年1月)。
藤壺は妊娠中も源氏との関係を厭い、妊娠したことを厭いますが、出産後には生への意欲のようなものを見せ、後の場面では子供への愛情のようなものも描かれます。当該歌には、そのような心の揺れがあらわれているのかもしれません。
2.岩根と若菜
次に、第1回でも少し紹介した「岩根」と、「岩根」と同じ場面で詠まれている「若菜」について取り上げます。「若菜」はお正月に健康を願って食べるもので、それと関わって親の長寿などが願われることも多い素材です。
場面①源氏の四十賀(40歳のお祝い)に、たくさんの子どもたちを引き連れてきた玉鬘が、若菜を奉った場面。玉鬘が源氏に。
若葉さす野辺の小松を引きつれてもとの岩根をいのるけふかな
とせめておとなび聞こえ給ふ。沈のをしき四つして、御若菜、さまばかりまゐれり。御かはらけ取り給ひて、
小松原末のよはひに引かれてや野辺の若菜も年をつむべき(若菜上、3巻235~236頁)
【口語訳】(玉鬘)「「野辺の小松」つまり子どもたちを引き連れて、そのような今日をつくる元となった「岩根」つまり源氏の長寿を祈る今日であることよ」と強いて大人らしく申し上げなさる。沈(香木の名)の折敷(角盆)を四つして、若菜をようすばかり献上した。源氏は御かわらけ(器)をお取りになって(源氏)「小松原の末(玉鬘の子供たち)の年齢にひかれてか、野辺の若菜である私も年をとるはずである」
玉鬘は源氏の養女ですが、この場面ではすでに結婚して子供もたくさんいます。
玉鬘の歌の「野辺の小松」は子供たち、「もとの岩根」は源氏をさします。自らを育ててくれた(と言っても成長後に貴族の女性としての教養や振る舞い方を身につけさせてもらった、という感じなのですが)源氏のことを、自らの元にある「岩根」にたとえる意味合いです。
一方の源氏歌では、玉鬘の子どもたちを「小松原の末」にたとえつつ、自らは「野辺の若菜」という、別の植物にたとえています。源氏と玉鬘の子供たちに直接の血縁関係がないことと関わっているのでしょうか。
次に、第1回でも紹介した場面を見ておきましょう。女三の宮は柏木に密通され、妊娠、無事出産するものの出家します。その後柏木は絶望して病重くなり死にます。若君の50日のお祝いの日、源氏は女三の宮に歌を詠みかけます。
場面②源氏が若君(実は柏木の子供)のことで女三の宮に嫌味
(源氏)「たが世にか種はまきしと人とはゞいかゞいはねの松はこたへん
あはれなり」(柏木、4巻30~31頁)
【口語訳】(源氏)「誰の世にまいた種か(=誰の子供か)と人が尋ねたら、どのようにものを言わない岩根の松のようにものを言わない子供は答えるだろうか。
可哀想だ」
この歌では、「岩根」と「言わね」を掛け、「いわねの松」に若君を喩えています。「種をまく」は子供をつくることの比喩であり、血縁上の父親を意識した表現が用いられています。
この源氏の歌を柏木は知らないはずなのに、次に引用する柏木の遺文には、同想の表現が用いられています。…というか、この場面では柏木はすでに死んでいますから、逆ですね、柏木が遺書として書いた文の内容を知らないのに、源氏の歌にも同じ表現が用いられています。
場面③橋姫巻で、出生の秘密が明かされたのち、弁から薫の手に渡された柏木の遺文。
めづらしく聞き侍る二葉のほども、うしろめたう思うたまふる方はなけれど、
命あらばそれとも見まし人知れぬ岩根にとめし松の生ひ末(橋姫、4巻334頁)
【口語訳】(病床の柏木)めったになく素晴らしく聞きました二葉(=子である若君、薫)の様子も、気がかりに思い申し上げる方向はない(=心配することのないような立派な環境にあること)が、/命がもしあるならば、岩根から生えた松のような、言うことのできない私の子供である若君(薫)の生い末を、それと見たいものであるのに。
源氏死後の世界を描く宇治十帖の中の一場面です。薫は自分の出生について疑問をいだく暗い若者に成長していました。薫は興味のある仏道のことをよく知る存在として訪ねていた宇治の八の宮(源氏の弟にあたる、政争に巻き込まれて敗れ、不遇)の邸宅で、出生の秘密を知る古女房(年老いた侍女)・弁に出会います。出生の秘密が明かされたのち、弁は柏木の遺文を薫に渡します。
ここでは「松」は若君(後の薫)をたとえており、「人知れぬ岩根」は、「言はね(言わない)/岩根」の掛詞で、人に知られない秘密の子を意味します。
「若菜」関係の場面も、もう少し見ておきましょう。八の宮は山(聖の僧坊)でこもって(仏道修行)いたときに風邪か何かをこじらせて死んでしまいます。その次の正月、聖の僧坊から八の宮の姫君たちのもとに山菜が届きます。
場面④八の宮死後初めての新年、阿闍梨から姫君たちのもとに芹、蕨など届く。
聖の坊より、「雪消えに摘みてはべるなり」とて、沢の芹、蕨などたてまつりたり。(中略)
君が折る峰のわらびと見ましかば知られやせまし春のしるしも
雪深きみぎはの小芹誰がために摘みかはやさん親なしにして
など、はかなきことどもをうち語らひつつ、明け暮らしたまふ。(椎本、4巻372頁)
【口語訳】聖の僧坊から、「雪消えに摘んだのです」と言って、沢の芹や蕨などを献上した。(中略)
(大君)君(亡き父八の宮)が折る峰のわらびとして見るならば、春のしるしも知られるであろうに(春なんか感じることはできない)。
(中君)雪が深い水際の小芹を誰のために摘んで楽しもうというのか、親がいないのに。
など、なんでもないことをお互いに語り合いながら、日々をお暮しになる。
ここでは、親のために若菜を摘むという発想が見られますが、でも親が亡くなっているので意味がないと言って、父八の宮の死と不在を嘆いています。「雪」と「つむ」は縁語です。
次の場面にも、親のために若菜を摘むという発想が見られます。ただし、血縁上の親ではありません。
場面⑤浮舟(大君・中君の異母妹)は入水未遂した後、横川僧都たちに発見された。僧都の妹の尼は、娘を亡くしていたこともあり、浮舟を大切にする。妹尼と浮舟の贈答。
若菜をおろそかなる籠に入れて、人のもて来たりけるを、尼君見て、
山里の雪間の若菜摘みはやしなほ生ひさきの頼まるるかな
とてこなたにたてまつれたまへりければ、
雪深き野辺の若菜も今よりは君がためにぞ年もつむべき (手習、5巻377頁)
【口語訳】若菜を粗末な籠に入れて、人が持ってきていたのを、尼君が見て、
(妹尼)山里の雪間の若菜を摘みお祝いして、やはり(あなたの)生い先が期待されるものであるなあ。
と言って、こちらに差し上げなさったので、
(浮舟)雪深い野辺の若菜も、今からはあなたのために摘もう、私の年もあなたのために積もう。
浮舟(大君・中君の異母妹)は、薫と匂宮(今上帝の第3皇子。明石中宮の所生。宇治十帖でもう一人の男主人公)との間で悩み、入水未遂します。意識を失い、木の下に倒れた浮舟はたまたま通りかかった横川僧都たちに発見されるのですが、僧都の妹の尼は、娘を亡くしていたこともあり、浮舟を大切にします。これは妹尼と浮舟の贈答です。
浮舟歌の「つむ」は年を「積む」と、若菜を「積む」の掛詞で、今日からはあなたを親と思って、あなたのために若菜を摘もう、という発想が見られます。自分の年を親にあげて、その分親の長寿を寿ぐという発想の歌も多いため、この歌もそういう文脈で読むことができますが、浮舟が入水未遂後助けられた存在であることを思うと、これからは親代わりである妹尼のために生きよう、という気持ちもありそうです(妹尼はそのことを知らないので、伝えようという意図はないと思いますが)。
以上、「岩根」と「若菜」についてまとめておきます。
☆場面②、③…「岩根」=「言はね」が掛かることで出生の秘密
☆場面①、③…自らの命と、齢と子孫の「末」、将来
☆場面①、④、⑤…親(代わりの存在)のために自らの年齢を「つむ」
☆場面①、⑤…血縁ではなく親代わりの存在
さて、「若菜」とも少し似ていますが、次に山菜をめぐる表現を見ておきます。
3.ところと竹の子
具体的には、ひげ根のある山芋科の植物である「ところ(野老)」と、「竹の子」について見ていきます。
場面①源氏が須磨・明石に流謫していたころの都の人々の生活を回想する書き出し。紫の上の生活。
竹のこのよのうき節を、時\/につけてあつかひきこえ給ふに慰め給ひけむ(蓬生、2巻132頁)
【口語訳】竹の子のよ(節と節の間)のようなつらい世の中を、折々につけてお世話し申し上げなさることで慰めなさっていたのか
「世」と「よ(節と節の間)」、「こ」に「竹の子」の「こ」と「この世」の「こ」が掛けられており、憂き世を表すための修辞です。ここでは特に子供の意味は掛かっていませんので、次に行きましょう。
場面②源氏と玉鬘の贈答。
御前近き呉竹の、いと若やかに生ひ立ちて、うちなびくさまのなつかしきに立ちとまり給うて、
「ませのうちに根ふかくうゑし竹の子のおのが世ゝにや生ひわかるべき
思へばうらめしかべい事ぞかし」と、御簾を引き上げて聞こえ給へば、ゐざり出でて
「いまさらにいかならむ世か若竹の生ひはじめけむ根をばたづねん
なか\/にこそ侍らめ」(胡蝶、2巻413頁)
【口語訳】
(玉鬘の)庭前近くの呉竹が、とても若々しく生い立って、ちょっとなびいている様子が心が引かれる感じであるのに立ち止まりなさって、
(源氏)「垣の内に根深く植えた竹の子が、それぞれの世に生えて分かれるものである(ようにあなたも自分の親に会いたいだろう)
思えばうらめしく思うはずのことであるだろう」と、御簾を引き上げて申し上げなさると、(玉鬘は)いざり(膝をついて動くこと、平安時代の姫君は立ち上がることがはしたないとされたため、基本いざりで動く)出て、
(玉鬘)「今さらにどんな世に若竹が生え始めた元の根(実の父親)を訪ねることだろうか
かえって中途半端なものでしょう」
源氏は夕顔の遺児である玉鬘を引き取りますが、ここではまだ実際の父親である内大臣(かつての頭の中将。最終的に致仕大臣の子)には彼女が内大臣の子であることを知らせていません。
「竹の子」の「子」と子供の「子」、世の中の意味の「世」と「よ(竹の節と節の間)」が掛詞となっており、玉鬘が実の父親に会いたいのではないかとよみかける源氏に対し、玉鬘は今更実の父親を訪ねたりはしません、と返しています。
さあ、次の場面が、私が『源氏物語』の中で一番好きな場面です。
女三の宮出家後、父の朱雀院はちょっとしたことにつけても消息を送るようになります。朱雀院の修行する山寺の近くで山菜が取れたというので、それにつけて文を贈ってきました。
場面③-1 出家後の女三の宮のもとに、朱雀院から山菜が贈られる。
春の野山、霞もたど\/しけれど、心ざし深く掘り出でさせて侍るしるしばかりになむ。
世を別れ入りなむ道はおくるともおなじところを君もたづねよ
いとかたきわざになむある。
と聞こえ給へるを、涙ぐみて見給ふほどに、おとゞの君渡り給へり。
(中略)
憂き世にはあらぬところのゆかしくて背く山路に思ひこそ入れ
「うしろめたげなる御けしきなるに、このあらぬ所求め給へる、いとうたて心うし」(横笛、4巻49~50頁)
【口語訳】(朱雀院)「春の野山は、霞ではっきりしないけれど、(私の)こころざし深く掘り出させたしるしばかり(お贈りします)。/女三の宮のほうが世を分かれて入る道(出家)は遅れても、「おなじところ(野老/所)つまり同じ極楽を尋ねて下さい。/極楽往生するのは)とても難しいことである」と申し上げなさるのを、(女三の宮が)涙ぐみながらご覧になっていると、源氏がお渡りになる。(女三の宮)「「憂き世」ではないところに行きたくて、朱雀院が仏道修行する山路に思いこそ入るのだ」。(源氏)「(朱雀院が)気がかりそうな様子であるのに、この「あらぬ所」(=六条院ではない場所)をお求めになるのが、とてもひどくつらい」
野老(ところ)は山芋科の植物で、鬚根がたくさん生えた様子から老人の姿が連想され、長寿を祈願するものです。筍は旺盛な繁殖力から成長の願いと、中国の故事から親への孝を意味することの多い植物です。
ここでは、「所」と「野老」が掛けられており、極楽往生を呼びかける朱雀院に対し、女三の宮側でも、朱雀院が仏道修行する道に思いだけは行きたい、と答えています。
今野鈴代「『源氏物語』の引歌表現―〝子〟をめぐる一様相―」(『国文鶴見』2004年5月)が、
若菜上から柏木巻に「心の闇」が繰り返されていた父院の慨嘆の心情表出は変容して、ここでは「ところ」に焦点が当てられている。宮の返事も同様に「うき世にはあらぬところのゆかしくて背く山路に思ひこそ入れ」とあって、「野老」が父院と宮とを結ぶ装置として機能している。
と指摘するように、「野老」は朱雀院と女三の宮とを結ぶ装置であり、女三の宮出家前は、朱雀院からの女三の宮への思いは、俗世へと残る思いでしたが、当該場面では仏道修行や極楽往生と矛盾しないものに変わっています。
また、女三の宮歌「あらぬところ」は漠然と憂き世ではない場所を意味していましたが、続く源氏のことばで六条院(源氏の邸宅)ではない場所、の意味に限定されます。
*〈その他先行研究〉大野妙子「「竹」のイメージ―横笛の巻の素材について―」(『日本文学誌要』1999年3月)、拙稿「『源氏物語』における「おなじところ」と「同じ蓮」―女三宮と朱雀院を中心に―」(『古代文学研究』第二次第14号、2005年10月)。「此君」という語に着目し、漢詩文との関わりを論じるものに桑原一歌「薫と「此君」―愛好の対象としての竹―」(『和漢比較文学』2007年2月)など。
*〈参考〉「ところ」の先蹤歌として諸注であげられるもの
・『拾遺和歌集』巻第八、雑
題知らず よみ人しらず
506 世の中にあらぬ所も得てしがな年ふりにたる形かくさむ
【口語訳】世の中ではないところを得たいものである、(そこで)年老いた(自分の)形を隠そう。
*〈参考〉「おなじところ」と「あらぬところ」は、野老の掛詞からは離れるが、源氏死後の世界である宇治十帖の主人公たちである、成長後の薫や、宇治大君、浮舟と関わって用いられる表現です。興味があれば読んでみてください。
朱雀院と女三の宮の贈答では、贈られた「野老」と「竹の子」のうち、「野老」のみが読み込まれますが、「竹の子」がフォーカスされるのが、続く若君(後の薫)が登場する場面です。
場面③-2続く場面、若君(後の薫)が竹の子に興味を示し、かぶりつく。
まみのびらかに、恥づかしうかをりたるなどは、なほいとよく思ひ出でらるれど、かれはいとかやうに際離れたるきよらはなかりしものを、いかでかゝらん、宮にも似たてまつらず、今よりけ高くもの\/しうさまことに見え給へるけしきなどは、わが御鏡の影にも似げなからず見なされ給ふ。
わづかに歩みなどしたまふほどなり。この筍のらいしに何とも知らず立ち寄りて、いとあわたゝしう、取り散らして、食ひかなぐりなどし給へば、(中略)「(略)女宮ものし給めるあたりに、かゝる人生ひ出でて、心ぐるしきこと誰がためにもありなむかし。あはれ、そのおの\/の生ひ行くすゑまでは見はてんとすらむやは。花の盛りはありなめど」と、うちまもり聞こえたまふ。(中略)
御歯の生ひ出づるに、食ひ当てむとて、筍をつと握り持ちて、雫もよゝと食ひ濡らし給へば、「いとねぢけたる色好みかな」とて、
憂き節も忘れずながらくれ竹のこは捨てがたきものにぞありける(同、51~52頁)
【口語訳】(若君=後の薫の様子が)まなざしがのびやかで、こちらがはっとするほどつややかな感じがするのなどは、やはり(柏木に)よく似ているが、柏木はとてもこんな風に際立った清らかな美しさはなかったものを、どうしてこんな風なのだろう、女三の宮にも似申し上げず、今から気高く重々しく異なった様子に見えなさる有様などは、自分の御鏡の影にも似ていないこともないように見なされなさる。
わずかに歩いたりなどする頃である。この筍のらいし(酒器)に何とも知らずに立ち寄って、とてもあわただしく取り散らして、つかみかかって食いついたりなさるので、(中略)(源氏)「(略)女宮(明石中宮の産んだ女一の宮、明石中宮の養母である紫の上のもとを里とする)がいらっしゃるあたりに、このような人が生まれ出て、不都合なことがだれにとってもあるだろうよ。ああ、その(=薫、女一の宮)それぞれの成長する行く末まで見届けることはできないだろう。花の盛りはきっとあるだろうが」と、見つめ申し上げなさる。(中略)
御歯が生えだしたのに、食い当てようとして、筍をじっと握り持って、(唾液の)雫もぐっしょりと食い濡らしなさるので、(源氏)「とてもひねくれた色好みであるなあ」と言って、
(源氏)つらいこと(柏木の密通)も忘れないながらも、竹の子のようなその子供(若君=後の薫)は捨てがたきものであるなあ。
この場面については、結構いろいろな先行研究があって、例えば源氏の「いとねじけたる色好みかな」発言について、のちのちの女一の宮へのあこがれや、「禁止」を植え付けたものとして解釈されたりなどもします。
*〈先行研究〉竹と横笛、薫との関わりに着目したものに、松井健児「『源氏物語』の小児と筍―身体としての薫・光源氏の言葉―」(『源氏研究』1、1996年4月→『源氏物語の生活世界』翰林書房、2000年)、高橋亨「横笛の時空」(『源氏研究』4、1999年4月→『源氏物語の詩学』名古屋大学出版会、2007年)、『源氏物語の鑑賞と基礎知識 横笛・鈴虫』「観賞欄 たかうなとたけのこ」平成14年(伊東祐子担当部分)など。
源氏の歌では、「節」は「竹」の縁語であり、「竹の子」の「子」と子供の意味の「子」が掛けられており、「竹の子」は若君(後の薫)をたとえます。自分にも少し似ているかも、と思ってみたりして、実は密通の結果の子供である薫を、世間的には自分の子として受け入れるものとなっています。
出家して「憂き世」を離れた朱雀院と女三の宮の贈答においては、極楽往生の意味合いで「同じところ」「憂き世にはあらぬところ」という表現が用いられ、「所」との掛詞で「野老(ところ)」が詠みこまれます。一方で「憂き世」に残された源氏は、「憂き世」とも縁の深い「竹」にかかわる表現で、「竹の子」にたとえて若君を受け入れるのです。
ちなみに「竹の子」については、次のような歌が、先蹤歌や参考歌としてあげられ、親子間で親の寿命を願ったり、憂き世との縁で詠みこまれたりしています。
*〈参考〉竹をめぐる歌
・『古今和歌集』巻第十八 雑歌下
物思ひけるとき、いときなき子を見てよめる 凡河内躬恒
957 いまさらになに生ひいづらむ竹の子の憂き節しげきよとは知らずや
【口語訳】もの思いをしたとき、幼い子供を見て詠んだ歌 凡河内躬恒
957 いまさらにどうして生まれだしてきたのだろう、竹の子のような子供が。竹の節がたくさんあるように、つらいことの多い世の中であると知らなかったのか。
・『詞花和歌集』巻第九、雑上
冷泉院へたかむなたてまつらせ給ふとてよませ給ける 花山院御製
331 世の中にふるかひもなき竹の子はわがつむ年をたてまつるなり
御返し 冷泉院御製
332 年へぬる竹のよはひを返しても子のよをながくなさむとぞ思ふ
【口語訳】冷泉院へ竹の子を差し上げなさるとしてお詠みになる 花山院の御作
331 世の中で過ごすかいもない竹の子は、私が積む年齢を(代わりにあなたに)たてまつるのである
御返歌 冷泉院の御作
332 年を経た竹(私)の年齢を返しても、子であるあなたの世を長くしたいと思うのである
・『紫式部集』
世を常なしなど思ふ人の、をさなき人のなやみけるに、から竹といふもの瓶にさしたる女房の祈りけるを見て
54 若竹のおひゆくすゑを祈るかなこの世をうしといとふものから
【口語訳】世を無常であると思う人が、幼い人が病気になったことに、唐竹というものを瓶にさしている女房が祈ったのを見て
54 若竹が生えてゆく行く末(幼い子供が成長する行く末)を祈るものであるなあ、この世をつらいものであると厭うものながら。
以上、竹の子についてまとめておきましょう。
☆「竹の子」…玉鬘に関しては根=血縁上の父である致仕大臣(かつての頭中将)との関係が意識される。薫に関しては表向きの父親である源氏。
☆「岩根」…玉鬘に関しては養父である源氏を指す。薫に関しては隠された血縁の柏木。
☆「根」つまり子どもが生まれてくる根源と、「生ひ末」つまり成長する将来が意識される。
☆玉鬘も薫も、血縁上で源氏の子ではないが子として扱われ、その血縁上の父親は致仕大臣(頭中将)、柏木(致仕大臣の子)という同じ血縁。それゆえその「根」が意識される場合、遡れば同じ血筋。
ちなみに、源氏死後の世界である続編の、「竹」をめぐる縁語が鏤められる竹河巻では、玉鬘や、成長後の薫が登場します。そこでは薫の血縁上の父親が意識され、場面③と共通する表現も多いので、興味があれば読んでみてください。
※今回、分量の関係で内容を2回に分けた関係で、今後各回の内容を以下のようにしたいと思います。
4週目(次回)…『源氏物語』女三の宮と季節
5週目…『紫式部集』における女性同士の絆
6週目…稚児物語『秋の夜長物語』における植物のイメージ(『御伽草子』の植物)
7週目…近世文学における花のイメージ
8週目…夏目漱石『それから』
9週目…尾崎翠『第七官界彷徨』
10週目…野溝七生子『山梔』
11週目…石井桃子『幻の朱い実』
12週目…まとめ
*『源氏物語』「拾遺和歌集」の引用は新日本古典文学大系、『古今和歌集』は新編日本古典文学全集、『紫式部集』は新潮日本古典集成による。すみません、『詞花和歌集』をどこから引用したのかわからなくなってしまいました…
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※事前に『源氏物語』植物と子供の比喩、および女三の宮と季節を扱うとアナウンスしていましたが、資料の量が増えてしまったため、内容を半分にし、今回は植物と子供の比喩のみ扱うこととしました。女三の宮と季節については、次回扱います。
今回は『源氏物語』の中で、植物が子供と関わって用いられる場面を見ていきます。まず、第1回目でも少し表現した、「なでしこ」から。
1.『源氏物語』のなでしこと常夏
『源氏物語』の「なでしこ」として有名なのが、雨に降りこめられた夜、宮中で若い公達が集まって女性談義をする、いわゆる「雨夜の品定め」と呼ばれる場面のなかで、源氏のライバルである頭中将(最終的には致仕大臣)が話すエピソードです。娘を産んだもののはかなく逃げていなくなった女性との贈答に「なでしこ」「とこなつ」という表現があらわれます。
場面①
「(後に別のところから聞いた話によると、頭中将の正妻から嫌がらせを受けたらしく、心細かったのか)なでしこの花ををりておこせたりし」
(中略)
山がつの垣ほ荒るともをりくにあはれはかけよなでしこの露
(中略)
咲きまじる色はいづれとわかねどもなほ常夏にしくものぞなし
やまとなでしこをばさしおきてまづ「塵をだに」など親の心を取る。
うちはらふ袖も露けきとこなつにあらし吹きそふ秋も来にけり(帚木、1巻54~55頁)
【口語訳】(頭中将)「……(女が)なでしこの花を折って贈ってきたのだった」(中略)
(女)身分が低い山人のような私の庭の垣根が荒れたとしても(私への愛情が薄れたとしても)折々に情けの露(涙)をかけてください、撫でし子である子供、なでしこの花に。
(頭中将)なでしこと咲きまじっている色がどちらかわからないように、子供への愛情とあなたへの愛情がどちらがどちらかはわからないけれども、やはり常夏であるあなたに似るものはない(あなたは格別である)。
「やまとなでしこ」(子供への思い)をさしおいて、まず「塵をすら(据えまいと思う、咲いてからずっと恋人と私が寝る寝床、常夏の花を)」などの親(である女への愛情)の意味を取る。
(女)うちはらう袖も涙で露っぽい床の、常夏の花に嵐(正妻からの嫌がらせを暗示するか)が吹きそう秋のような、あなたの私への飽きが来てしまった。
この場面について、諸注では、「山がつの…」の歌について、
『古今和歌集』巻第十四 恋四
695 あな恋し今も見てしが山賤の垣ほに咲ける大和撫子
が響く、「塵をだに」について、
・『古今和歌集』巻第三 夏
隣より、常夏の花をこひにおこせたりければ、惜しみてこの歌をよみてつかはしける 凡河内躬恒
167 塵をだにすゑじとぞ思ふ咲きしより妹とわが寝るとこ夏の花
が引歌として指摘されています。
「とこなつ」は「なでしこ」の異名ですが、「とこ(床)」の連想から男女関係と結びつきます。
☆「なでしこ」…「撫でし子」という掛詞から子供を連想させる。
☆「常夏」…「床」(とこ)という掛詞から男女関係を連想させる。
ちなみにこの女性は、続く夕顔巻で名乗らないまま源氏の恋人となり、二人でゆっくりと過ごそうと訪れた、源氏の所有する荒れ果てた邸宅で急死する、「夕顔」と呼ばれる女性です。
ここで「なでしこ」にたとえられる娘は、長らく行方不明になっていましたが、のちに源氏の養女として引き取られ、「玉鬘」と呼ばれるようになります。紫の上つきの女房となった、かつて夕顔の女房だった右近と、長谷寺で再会したことがきっかけでした。
次に、第1回の授業でも紹介した、源氏と藤壺の贈答をあげておきましょう。
場面② 藤壺中宮が若宮(のちの冷泉院、実は源氏との子供)出産後、前栽の常夏に付けて、源氏が撫子の花に若宮を重ねる歌をよこす。
(源氏)よそへつゝ見るに心はなぐさまで露けさまさるなでしこの花
花に咲かなんと思ひたまへしも、かひなき世に侍りければ。
とあり。さりぬべきひまにやありけむ、御覧ぜさせて、「たゞ塵ばかり、この花びらに」と聞こゆるを、わが御心にも、ものいとあはれにおぼし知らるゝほどにて、
(藤壺)袖ぬるゝ露のゆかりと思ふにもなほうとまれぬやまとなてしこ(紅葉賀、1巻254頁)
【口語訳】(源氏)「(撫子の花と若宮を)なずらえて(=たとえて)見るにつけても、心は慰められないで、撫子が露に濡れるように、涙がちになる撫子の花である。
(若宮が)花と咲いてほしい(=成長してほしい、繁栄してほしい)と思い申し上げていたことも、甲斐のない世の中でしたので。」
とある。そのような機会があったのか、ご覧にならせて、(王命婦=源氏を手引きした藤壺の女房)「ただ塵ばかりでも(引歌あり)この花びらに(お返事を)」と申し上げるのにつけて、藤壺自身の御心にも、ものがたいへん悲しく思い知られる頃であったので、
(藤壺)「袖が濡れる露と縁があるように、涙を誘うものであるにつけても、やはり疎ましく思われた/思われないやまとなでしこである」
藤壺は源氏との密通関係を厭い、歌を返すこともなくなっていましたが、自分でも「ものいとあはれ」に思い知られるときだったため、歌をちょっと書きつけます。「塵ばかり」の部分には、場面①に関しても引歌となっていた、「塵をだに…」の歌が引かれています。
ここでは「撫子の花」は「撫でし子」から、子供の比喩ですが、藤壺歌の「うとまれぬ」の「ぬ」は文法的には打消とも完了とも取れ、解釈が分かれています。
現行の注釈書では玉上琢弥『源氏物語評釈』以外のほとんどが完了の意味で取っていますが、ツベタナ・クリステワ「涙と袖―平安朝の詩学―」が打消の解釈を提唱し、藤壺歌を本歌取りした俊成女の歌「咲けば散る花の憂き世と思ふにも猶うとまれぬ山桜かな」(『続古今集』春下、122、「洞院摂政百首歌に、花」)などを証歌としました。その上で「掛詞的に」完了、打消の両方の意味があると解釈することを提案しています(石川九楊責任編集『文学』第2号、京都精華大学文字文明研究所/ミネルヴァ書房、2004年1月)。
藤壺は妊娠中も源氏との関係を厭い、妊娠したことを厭いますが、出産後には生への意欲のようなものを見せ、後の場面では子供への愛情のようなものも描かれます。当該歌には、そのような心の揺れがあらわれているのかもしれません。
2.岩根と若菜
次に、第1回でも少し紹介した「岩根」と、「岩根」と同じ場面で詠まれている「若菜」について取り上げます。「若菜」はお正月に健康を願って食べるもので、それと関わって親の長寿などが願われることも多い素材です。
場面①源氏の四十賀(40歳のお祝い)に、たくさんの子どもたちを引き連れてきた玉鬘が、若菜を奉った場面。玉鬘が源氏に。
若葉さす野辺の小松を引きつれてもとの岩根をいのるけふかな
とせめておとなび聞こえ給ふ。沈のをしき四つして、御若菜、さまばかりまゐれり。御かはらけ取り給ひて、
小松原末のよはひに引かれてや野辺の若菜も年をつむべき(若菜上、3巻235~236頁)
【口語訳】(玉鬘)「「野辺の小松」つまり子どもたちを引き連れて、そのような今日をつくる元となった「岩根」つまり源氏の長寿を祈る今日であることよ」と強いて大人らしく申し上げなさる。沈(香木の名)の折敷(角盆)を四つして、若菜をようすばかり献上した。源氏は御かわらけ(器)をお取りになって(源氏)「小松原の末(玉鬘の子供たち)の年齢にひかれてか、野辺の若菜である私も年をとるはずである」
玉鬘は源氏の養女ですが、この場面ではすでに結婚して子供もたくさんいます。
玉鬘の歌の「野辺の小松」は子供たち、「もとの岩根」は源氏をさします。自らを育ててくれた(と言っても成長後に貴族の女性としての教養や振る舞い方を身につけさせてもらった、という感じなのですが)源氏のことを、自らの元にある「岩根」にたとえる意味合いです。
一方の源氏歌では、玉鬘の子どもたちを「小松原の末」にたとえつつ、自らは「野辺の若菜」という、別の植物にたとえています。源氏と玉鬘の子供たちに直接の血縁関係がないことと関わっているのでしょうか。
次に、第1回でも紹介した場面を見ておきましょう。女三の宮は柏木に密通され、妊娠、無事出産するものの出家します。その後柏木は絶望して病重くなり死にます。若君の50日のお祝いの日、源氏は女三の宮に歌を詠みかけます。
場面②源氏が若君(実は柏木の子供)のことで女三の宮に嫌味
(源氏)「たが世にか種はまきしと人とはゞいかゞいはねの松はこたへん
あはれなり」(柏木、4巻30~31頁)
【口語訳】(源氏)「誰の世にまいた種か(=誰の子供か)と人が尋ねたら、どのようにものを言わない岩根の松のようにものを言わない子供は答えるだろうか。
可哀想だ」
この歌では、「岩根」と「言わね」を掛け、「いわねの松」に若君を喩えています。「種をまく」は子供をつくることの比喩であり、血縁上の父親を意識した表現が用いられています。
この源氏の歌を柏木は知らないはずなのに、次に引用する柏木の遺文には、同想の表現が用いられています。…というか、この場面では柏木はすでに死んでいますから、逆ですね、柏木が遺書として書いた文の内容を知らないのに、源氏の歌にも同じ表現が用いられています。
場面③橋姫巻で、出生の秘密が明かされたのち、弁から薫の手に渡された柏木の遺文。
めづらしく聞き侍る二葉のほども、うしろめたう思うたまふる方はなけれど、
命あらばそれとも見まし人知れぬ岩根にとめし松の生ひ末(橋姫、4巻334頁)
【口語訳】(病床の柏木)めったになく素晴らしく聞きました二葉(=子である若君、薫)の様子も、気がかりに思い申し上げる方向はない(=心配することのないような立派な環境にあること)が、/命がもしあるならば、岩根から生えた松のような、言うことのできない私の子供である若君(薫)の生い末を、それと見たいものであるのに。
源氏死後の世界を描く宇治十帖の中の一場面です。薫は自分の出生について疑問をいだく暗い若者に成長していました。薫は興味のある仏道のことをよく知る存在として訪ねていた宇治の八の宮(源氏の弟にあたる、政争に巻き込まれて敗れ、不遇)の邸宅で、出生の秘密を知る古女房(年老いた侍女)・弁に出会います。出生の秘密が明かされたのち、弁は柏木の遺文を薫に渡します。
ここでは「松」は若君(後の薫)をたとえており、「人知れぬ岩根」は、「言はね(言わない)/岩根」の掛詞で、人に知られない秘密の子を意味します。
「若菜」関係の場面も、もう少し見ておきましょう。八の宮は山(聖の僧坊)でこもって(仏道修行)いたときに風邪か何かをこじらせて死んでしまいます。その次の正月、聖の僧坊から八の宮の姫君たちのもとに山菜が届きます。
場面④八の宮死後初めての新年、阿闍梨から姫君たちのもとに芹、蕨など届く。
聖の坊より、「雪消えに摘みてはべるなり」とて、沢の芹、蕨などたてまつりたり。(中略)
君が折る峰のわらびと見ましかば知られやせまし春のしるしも
雪深きみぎはの小芹誰がために摘みかはやさん親なしにして
など、はかなきことどもをうち語らひつつ、明け暮らしたまふ。(椎本、4巻372頁)
【口語訳】聖の僧坊から、「雪消えに摘んだのです」と言って、沢の芹や蕨などを献上した。(中略)
(大君)君(亡き父八の宮)が折る峰のわらびとして見るならば、春のしるしも知られるであろうに(春なんか感じることはできない)。
(中君)雪が深い水際の小芹を誰のために摘んで楽しもうというのか、親がいないのに。
など、なんでもないことをお互いに語り合いながら、日々をお暮しになる。
ここでは、親のために若菜を摘むという発想が見られますが、でも親が亡くなっているので意味がないと言って、父八の宮の死と不在を嘆いています。「雪」と「つむ」は縁語です。
次の場面にも、親のために若菜を摘むという発想が見られます。ただし、血縁上の親ではありません。
場面⑤浮舟(大君・中君の異母妹)は入水未遂した後、横川僧都たちに発見された。僧都の妹の尼は、娘を亡くしていたこともあり、浮舟を大切にする。妹尼と浮舟の贈答。
若菜をおろそかなる籠に入れて、人のもて来たりけるを、尼君見て、
山里の雪間の若菜摘みはやしなほ生ひさきの頼まるるかな
とてこなたにたてまつれたまへりければ、
雪深き野辺の若菜も今よりは君がためにぞ年もつむべき (手習、5巻377頁)
【口語訳】若菜を粗末な籠に入れて、人が持ってきていたのを、尼君が見て、
(妹尼)山里の雪間の若菜を摘みお祝いして、やはり(あなたの)生い先が期待されるものであるなあ。
と言って、こちらに差し上げなさったので、
(浮舟)雪深い野辺の若菜も、今からはあなたのために摘もう、私の年もあなたのために積もう。
浮舟(大君・中君の異母妹)は、薫と匂宮(今上帝の第3皇子。明石中宮の所生。宇治十帖でもう一人の男主人公)との間で悩み、入水未遂します。意識を失い、木の下に倒れた浮舟はたまたま通りかかった横川僧都たちに発見されるのですが、僧都の妹の尼は、娘を亡くしていたこともあり、浮舟を大切にします。これは妹尼と浮舟の贈答です。
浮舟歌の「つむ」は年を「積む」と、若菜を「積む」の掛詞で、今日からはあなたを親と思って、あなたのために若菜を摘もう、という発想が見られます。自分の年を親にあげて、その分親の長寿を寿ぐという発想の歌も多いため、この歌もそういう文脈で読むことができますが、浮舟が入水未遂後助けられた存在であることを思うと、これからは親代わりである妹尼のために生きよう、という気持ちもありそうです(妹尼はそのことを知らないので、伝えようという意図はないと思いますが)。
以上、「岩根」と「若菜」についてまとめておきます。
☆場面②、③…「岩根」=「言はね」が掛かることで出生の秘密
☆場面①、③…自らの命と、齢と子孫の「末」、将来
☆場面①、④、⑤…親(代わりの存在)のために自らの年齢を「つむ」
☆場面①、⑤…血縁ではなく親代わりの存在
さて、「若菜」とも少し似ていますが、次に山菜をめぐる表現を見ておきます。
3.ところと竹の子
具体的には、ひげ根のある山芋科の植物である「ところ(野老)」と、「竹の子」について見ていきます。
場面①源氏が須磨・明石に流謫していたころの都の人々の生活を回想する書き出し。紫の上の生活。
竹のこのよのうき節を、時\/につけてあつかひきこえ給ふに慰め給ひけむ(蓬生、2巻132頁)
【口語訳】竹の子のよ(節と節の間)のようなつらい世の中を、折々につけてお世話し申し上げなさることで慰めなさっていたのか
「世」と「よ(節と節の間)」、「こ」に「竹の子」の「こ」と「この世」の「こ」が掛けられており、憂き世を表すための修辞です。ここでは特に子供の意味は掛かっていませんので、次に行きましょう。
場面②源氏と玉鬘の贈答。
御前近き呉竹の、いと若やかに生ひ立ちて、うちなびくさまのなつかしきに立ちとまり給うて、
「ませのうちに根ふかくうゑし竹の子のおのが世ゝにや生ひわかるべき
思へばうらめしかべい事ぞかし」と、御簾を引き上げて聞こえ給へば、ゐざり出でて
「いまさらにいかならむ世か若竹の生ひはじめけむ根をばたづねん
なか\/にこそ侍らめ」(胡蝶、2巻413頁)
【口語訳】
(玉鬘の)庭前近くの呉竹が、とても若々しく生い立って、ちょっとなびいている様子が心が引かれる感じであるのに立ち止まりなさって、
(源氏)「垣の内に根深く植えた竹の子が、それぞれの世に生えて分かれるものである(ようにあなたも自分の親に会いたいだろう)
思えばうらめしく思うはずのことであるだろう」と、御簾を引き上げて申し上げなさると、(玉鬘は)いざり(膝をついて動くこと、平安時代の姫君は立ち上がることがはしたないとされたため、基本いざりで動く)出て、
(玉鬘)「今さらにどんな世に若竹が生え始めた元の根(実の父親)を訪ねることだろうか
かえって中途半端なものでしょう」
源氏は夕顔の遺児である玉鬘を引き取りますが、ここではまだ実際の父親である内大臣(かつての頭の中将。最終的に致仕大臣の子)には彼女が内大臣の子であることを知らせていません。
「竹の子」の「子」と子供の「子」、世の中の意味の「世」と「よ(竹の節と節の間)」が掛詞となっており、玉鬘が実の父親に会いたいのではないかとよみかける源氏に対し、玉鬘は今更実の父親を訪ねたりはしません、と返しています。
さあ、次の場面が、私が『源氏物語』の中で一番好きな場面です。
女三の宮出家後、父の朱雀院はちょっとしたことにつけても消息を送るようになります。朱雀院の修行する山寺の近くで山菜が取れたというので、それにつけて文を贈ってきました。
場面③-1 出家後の女三の宮のもとに、朱雀院から山菜が贈られる。
春の野山、霞もたど\/しけれど、心ざし深く掘り出でさせて侍るしるしばかりになむ。
世を別れ入りなむ道はおくるともおなじところを君もたづねよ
いとかたきわざになむある。
と聞こえ給へるを、涙ぐみて見給ふほどに、おとゞの君渡り給へり。
(中略)
憂き世にはあらぬところのゆかしくて背く山路に思ひこそ入れ
「うしろめたげなる御けしきなるに、このあらぬ所求め給へる、いとうたて心うし」(横笛、4巻49~50頁)
【口語訳】(朱雀院)「春の野山は、霞ではっきりしないけれど、(私の)こころざし深く掘り出させたしるしばかり(お贈りします)。/女三の宮のほうが世を分かれて入る道(出家)は遅れても、「おなじところ(野老/所)つまり同じ極楽を尋ねて下さい。/極楽往生するのは)とても難しいことである」と申し上げなさるのを、(女三の宮が)涙ぐみながらご覧になっていると、源氏がお渡りになる。(女三の宮)「「憂き世」ではないところに行きたくて、朱雀院が仏道修行する山路に思いこそ入るのだ」。(源氏)「(朱雀院が)気がかりそうな様子であるのに、この「あらぬ所」(=六条院ではない場所)をお求めになるのが、とてもひどくつらい」
野老(ところ)は山芋科の植物で、鬚根がたくさん生えた様子から老人の姿が連想され、長寿を祈願するものです。筍は旺盛な繁殖力から成長の願いと、中国の故事から親への孝を意味することの多い植物です。
ここでは、「所」と「野老」が掛けられており、極楽往生を呼びかける朱雀院に対し、女三の宮側でも、朱雀院が仏道修行する道に思いだけは行きたい、と答えています。
今野鈴代「『源氏物語』の引歌表現―〝子〟をめぐる一様相―」(『国文鶴見』2004年5月)が、
若菜上から柏木巻に「心の闇」が繰り返されていた父院の慨嘆の心情表出は変容して、ここでは「ところ」に焦点が当てられている。宮の返事も同様に「うき世にはあらぬところのゆかしくて背く山路に思ひこそ入れ」とあって、「野老」が父院と宮とを結ぶ装置として機能している。
と指摘するように、「野老」は朱雀院と女三の宮とを結ぶ装置であり、女三の宮出家前は、朱雀院からの女三の宮への思いは、俗世へと残る思いでしたが、当該場面では仏道修行や極楽往生と矛盾しないものに変わっています。
また、女三の宮歌「あらぬところ」は漠然と憂き世ではない場所を意味していましたが、続く源氏のことばで六条院(源氏の邸宅)ではない場所、の意味に限定されます。
*〈その他先行研究〉大野妙子「「竹」のイメージ―横笛の巻の素材について―」(『日本文学誌要』1999年3月)、拙稿「『源氏物語』における「おなじところ」と「同じ蓮」―女三宮と朱雀院を中心に―」(『古代文学研究』第二次第14号、2005年10月)。「此君」という語に着目し、漢詩文との関わりを論じるものに桑原一歌「薫と「此君」―愛好の対象としての竹―」(『和漢比較文学』2007年2月)など。
*〈参考〉「ところ」の先蹤歌として諸注であげられるもの
・『拾遺和歌集』巻第八、雑
題知らず よみ人しらず
506 世の中にあらぬ所も得てしがな年ふりにたる形かくさむ
【口語訳】世の中ではないところを得たいものである、(そこで)年老いた(自分の)形を隠そう。
*〈参考〉「おなじところ」と「あらぬところ」は、野老の掛詞からは離れるが、源氏死後の世界である宇治十帖の主人公たちである、成長後の薫や、宇治大君、浮舟と関わって用いられる表現です。興味があれば読んでみてください。
朱雀院と女三の宮の贈答では、贈られた「野老」と「竹の子」のうち、「野老」のみが読み込まれますが、「竹の子」がフォーカスされるのが、続く若君(後の薫)が登場する場面です。
場面③-2続く場面、若君(後の薫)が竹の子に興味を示し、かぶりつく。
まみのびらかに、恥づかしうかをりたるなどは、なほいとよく思ひ出でらるれど、かれはいとかやうに際離れたるきよらはなかりしものを、いかでかゝらん、宮にも似たてまつらず、今よりけ高くもの\/しうさまことに見え給へるけしきなどは、わが御鏡の影にも似げなからず見なされ給ふ。
わづかに歩みなどしたまふほどなり。この筍のらいしに何とも知らず立ち寄りて、いとあわたゝしう、取り散らして、食ひかなぐりなどし給へば、(中略)「(略)女宮ものし給めるあたりに、かゝる人生ひ出でて、心ぐるしきこと誰がためにもありなむかし。あはれ、そのおの\/の生ひ行くすゑまでは見はてんとすらむやは。花の盛りはありなめど」と、うちまもり聞こえたまふ。(中略)
御歯の生ひ出づるに、食ひ当てむとて、筍をつと握り持ちて、雫もよゝと食ひ濡らし給へば、「いとねぢけたる色好みかな」とて、
憂き節も忘れずながらくれ竹のこは捨てがたきものにぞありける(同、51~52頁)
【口語訳】(若君=後の薫の様子が)まなざしがのびやかで、こちらがはっとするほどつややかな感じがするのなどは、やはり(柏木に)よく似ているが、柏木はとてもこんな風に際立った清らかな美しさはなかったものを、どうしてこんな風なのだろう、女三の宮にも似申し上げず、今から気高く重々しく異なった様子に見えなさる有様などは、自分の御鏡の影にも似ていないこともないように見なされなさる。
わずかに歩いたりなどする頃である。この筍のらいし(酒器)に何とも知らずに立ち寄って、とてもあわただしく取り散らして、つかみかかって食いついたりなさるので、(中略)(源氏)「(略)女宮(明石中宮の産んだ女一の宮、明石中宮の養母である紫の上のもとを里とする)がいらっしゃるあたりに、このような人が生まれ出て、不都合なことがだれにとってもあるだろうよ。ああ、その(=薫、女一の宮)それぞれの成長する行く末まで見届けることはできないだろう。花の盛りはきっとあるだろうが」と、見つめ申し上げなさる。(中略)
御歯が生えだしたのに、食い当てようとして、筍をじっと握り持って、(唾液の)雫もぐっしょりと食い濡らしなさるので、(源氏)「とてもひねくれた色好みであるなあ」と言って、
(源氏)つらいこと(柏木の密通)も忘れないながらも、竹の子のようなその子供(若君=後の薫)は捨てがたきものであるなあ。
この場面については、結構いろいろな先行研究があって、例えば源氏の「いとねじけたる色好みかな」発言について、のちのちの女一の宮へのあこがれや、「禁止」を植え付けたものとして解釈されたりなどもします。
*〈先行研究〉竹と横笛、薫との関わりに着目したものに、松井健児「『源氏物語』の小児と筍―身体としての薫・光源氏の言葉―」(『源氏研究』1、1996年4月→『源氏物語の生活世界』翰林書房、2000年)、高橋亨「横笛の時空」(『源氏研究』4、1999年4月→『源氏物語の詩学』名古屋大学出版会、2007年)、『源氏物語の鑑賞と基礎知識 横笛・鈴虫』「観賞欄 たかうなとたけのこ」平成14年(伊東祐子担当部分)など。
源氏の歌では、「節」は「竹」の縁語であり、「竹の子」の「子」と子供の意味の「子」が掛けられており、「竹の子」は若君(後の薫)をたとえます。自分にも少し似ているかも、と思ってみたりして、実は密通の結果の子供である薫を、世間的には自分の子として受け入れるものとなっています。
出家して「憂き世」を離れた朱雀院と女三の宮の贈答においては、極楽往生の意味合いで「同じところ」「憂き世にはあらぬところ」という表現が用いられ、「所」との掛詞で「野老(ところ)」が詠みこまれます。一方で「憂き世」に残された源氏は、「憂き世」とも縁の深い「竹」にかかわる表現で、「竹の子」にたとえて若君を受け入れるのです。
ちなみに「竹の子」については、次のような歌が、先蹤歌や参考歌としてあげられ、親子間で親の寿命を願ったり、憂き世との縁で詠みこまれたりしています。
*〈参考〉竹をめぐる歌
・『古今和歌集』巻第十八 雑歌下
物思ひけるとき、いときなき子を見てよめる 凡河内躬恒
957 いまさらになに生ひいづらむ竹の子の憂き節しげきよとは知らずや
【口語訳】もの思いをしたとき、幼い子供を見て詠んだ歌 凡河内躬恒
957 いまさらにどうして生まれだしてきたのだろう、竹の子のような子供が。竹の節がたくさんあるように、つらいことの多い世の中であると知らなかったのか。
・『詞花和歌集』巻第九、雑上
冷泉院へたかむなたてまつらせ給ふとてよませ給ける 花山院御製
331 世の中にふるかひもなき竹の子はわがつむ年をたてまつるなり
御返し 冷泉院御製
332 年へぬる竹のよはひを返しても子のよをながくなさむとぞ思ふ
【口語訳】冷泉院へ竹の子を差し上げなさるとしてお詠みになる 花山院の御作
331 世の中で過ごすかいもない竹の子は、私が積む年齢を(代わりにあなたに)たてまつるのである
御返歌 冷泉院の御作
332 年を経た竹(私)の年齢を返しても、子であるあなたの世を長くしたいと思うのである
・『紫式部集』
世を常なしなど思ふ人の、をさなき人のなやみけるに、から竹といふもの瓶にさしたる女房の祈りけるを見て
54 若竹のおひゆくすゑを祈るかなこの世をうしといとふものから
【口語訳】世を無常であると思う人が、幼い人が病気になったことに、唐竹というものを瓶にさしている女房が祈ったのを見て
54 若竹が生えてゆく行く末(幼い子供が成長する行く末)を祈るものであるなあ、この世をつらいものであると厭うものながら。
以上、竹の子についてまとめておきましょう。
☆「竹の子」…玉鬘に関しては根=血縁上の父である致仕大臣(かつての頭中将)との関係が意識される。薫に関しては表向きの父親である源氏。
☆「岩根」…玉鬘に関しては養父である源氏を指す。薫に関しては隠された血縁の柏木。
☆「根」つまり子どもが生まれてくる根源と、「生ひ末」つまり成長する将来が意識される。
☆玉鬘も薫も、血縁上で源氏の子ではないが子として扱われ、その血縁上の父親は致仕大臣(頭中将)、柏木(致仕大臣の子)という同じ血縁。それゆえその「根」が意識される場合、遡れば同じ血筋。
ちなみに、源氏死後の世界である続編の、「竹」をめぐる縁語が鏤められる竹河巻では、玉鬘や、成長後の薫が登場します。そこでは薫の血縁上の父親が意識され、場面③と共通する表現も多いので、興味があれば読んでみてください。
※今回、分量の関係で内容を2回に分けた関係で、今後各回の内容を以下のようにしたいと思います。
4週目(次回)…『源氏物語』女三の宮と季節
5週目…『紫式部集』における女性同士の絆
6週目…稚児物語『秋の夜長物語』における植物のイメージ(『御伽草子』の植物)
7週目…近世文学における花のイメージ
8週目…夏目漱石『それから』
9週目…尾崎翠『第七官界彷徨』
10週目…野溝七生子『山梔』
11週目…石井桃子『幻の朱い実』
12週目…まとめ
*『源氏物語』「拾遺和歌集」の引用は新日本古典文学大系、『古今和歌集』は新編日本古典文学全集、『紫式部集』は新潮日本古典集成による。すみません、『詞花和歌集』をどこから引用したのかわからなくなってしまいました…
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