※非常勤講師を勤めております前橋国際大学での授業内容を、問題のない部分のみ、ブログ上にアップすることに致しました(資料は大学のLMS上にアップしていますが、引用文など少し長めの文章を載せたものは、スマホの画面ではかなり読みにくいため。ブログ記事であればスマホ上でも何とか読めるだろうと思うので)。
こんにちは、本当に遅くなってすみません、
第12回をアップします。
今回の内容は、以前このブログで書いた「植物のイメージ:石井桃子『幻の朱い実』」(2014年12月21日)とかなり重なる部分があります。
はじめに
亡くなった女友達の思い出を描く石井桃子『幻の朱い実』(1994年)では、烏瓜の実が印象的に描かれます。この女友達のモデルとなったのが、実際に昭和前半の文学シーンにおいて注目される小里文子という女性であったことから、伝記的な観点から考察されることの多い作品ですが、烏瓜をはじめ植物の描写にはさほど注目されていません。
しかしながら、蕗子との再会において描かれる烏瓜、鰯漁を見に二人で出かけた宇原で摘んだ水仙など、植物の描写が重要な場面で描かれ、「幻の朱い実」というタイトルも、蕗子との再会で描かれた烏瓜、そして物語の最後で、新宿御苑で見つけた小さい烏瓜を前に娘に向かって「大津さんの烏瓜ね、この千倍も、万倍も美しかった!(中略)あなたに見せたかった、そういうものも、この世にあるんだってこと!」(下巻、362頁)と言ったことによるものです。
そこで本講義では、烏瓜の実を中心に、『幻の朱い実』における植物のイメージについて考察します。
1.梗概および研究史
【梗概】
語り手の明子と大学時代のあこがれの的だった大津蕗子との友情を描く。大学時代は特に交流のなかった蕗子と再会し、友人になる場面からはじまり、明子の結婚までを描く第一部、明子の妊娠とほぼ同時に蕗子の結核が悪化し亡くなるところまでを描く第二部、子供たちも成長し夫も亡くなったはるか後年、明子が蕗子の妊娠と堕胎の話を聞いたことから、真偽を確かめるためにかつての友人加代子とともに手紙類などを集める第三部に大きく分かれる。
*「自伝的」な作品ということになっているが、作者の石井桃子自身は結婚も出産もしていない。
石井桃子(1907-2007年)は、翻訳家・児童文学者として有名で、例えば『クマのプーさん』をはじめて翻訳したことでも知られています。編集者、「読書運動家」としても知られ、戦後の児童書や図書館の世界に大変大きな功績のあった人ですが(『日本人名大辞典』講談社、『日本大百科全書』等)、『幻の朱い実』は唯一の小説です。
一方で友人蕗子のモデルとなった小里文子は、
当時の作家や編集者の間では、そして現在も日本近代文学の研究には、ある程度知られている存在だろう。まず、一九二七(昭和二)年一月号の「新潮」に横光利一が発表した短編「計算した女」のお桂として有名になった。(尾崎真理子『ひみつの王国 評伝石井桃子』新潮社、2014年、122頁)
という人物です。
『幻の朱い実』に関するまとまった研究としては、石井桃子に対する200時間に及ぶインタビューをもとに、石井桃子の人生を再構成し、その文学世界を紹介する、尾崎真理子『ひみつの王国 評伝石井桃子』(新潮社、2014年)があります。
尾崎真理子は、『幻の朱い実』について、「魂を揺さぶられるとはこのこと」(119頁)と、非常に高く評価しており、200時間にも及ぶインタビューを敢行しようとした、直接の動機であると言っています。
また、『幻の朱い実』には大量の手紙が引用されるのですが、これについて、
蕗子が病み衰えていく第二部は、物語の筋書きとしてはいささかアンバランスなほど、蕗子から明子にあてた手紙がひっきりなしに引用され、明子の存在感は薄くなる。しかも、手紙のリアリティは他の文章、会話の部分を圧倒するほど生々しい。実在する手紙を活字にして残すためにこそ、この作品は構想されたと感じるほどの扱いだ。(119頁)
と述べています。
尾崎は「…と感じるほどの扱い」という言い方にとどめていますが、「蕗子」のモデルとされる小里文子はすでに亡くなっていますので、実際、手紙のやり取りを再構成することによって、亡くなった友人とのやり取りを文字として残す、構築する意味合いがあったように思われます。私が以前、『紫式部集』について述べたような意味合いです(→「日本文学Ⅰ(第5回):『紫式部集』における女性同士の絆」)。
この評伝の中から、石井桃子自身が『幻の朱い実』のモデルとなった女友達のことを述べているインタビュー
「男と女の愛情ってものと別に、女同士で対人間的に深く付き合う生活ができるんじゃないかと思うんですね。いわゆるレズビアンとか何かとは違って。相手の心のなかに踏み込んでね、生活していけるんじゃないかと思いますけど」(132頁)
(もう一人の親友である加代子=モデルは水澤那奈という女性、について)「蕗子を挟んで三角関係のような関係でもあるけど、お互いに嫉妬なんか持たずに別の愛し方をしている」「加代子は非常に頭が冴えてて、社会問題なんかを一生懸命勉強するほうだし、蕗子って人は偏ってて、気が向いたことしかしない。一番、どっちつかずでいながら生き延びちゃう―それが明子だってふうに書いたんですよね」(132頁)
からは、男女間や性愛関係にはない、女性同士の関係が、いかに大切なものだったのかが、よく伝わってきます。
また、国文学専攻の蕗子が「偏ってて、気が向いたことしかしない」破滅型の人間として描かれているのも、前々回扱った『第七官界彷徨』における国文科の少女のイメージなんかと合わせて、ちょっと面白いですね。
それでは、具体的に植物のイメージを見ておきましょう。
2.植物の描写
最初に述べたように、この作品の中では、鰯漁を見に二人で出かけた宇原の自然が印象的に描かれ、繰り返し登場する烏瓜の実が重要な意味を持ちます。
「宇原」というのは、房総半島の「勝浦と御宿の間の小さな港」(上巻、96頁)のある場所らしく、田舎ののどかな場所として描かれています。
明子と蕗子が鰯漁を見に出かけて、白い水仙の花を摘み、
何十歩とゆかず、そこだけ、神社側の山が崩れてできたらしい急斜面の草原があり、早朝は日かげでありそうな日だまりに、坂をかけおりてくるように白い花の群落がゆれていた。早く咲きだした一部は真盛りをすぎていたが、黄いろい小さな杯を一つずつまん中につけた白い小花は、ふさふさとした塊りになって、芳香を潮風の中にまきちらして踊っていた。まわりが茶っぽけた芝生ばかりのせいか、その白い小人たちの踊りは、いっそひそやかで、しかも賑やかだった。(上巻、104頁)
明子は、根元からちぎった数本を、ポケットのハンケチでくるみ、二人はしばらくその花の下の道を徘徊してから、元来た道をもどりはじめた。(中略)「ね、また、来年、来てみない?――いのちあらば……」と、蕗子は、ごろた石もまじるでこぼこ道をゆっくりもどりながら冗談めかしていった。(上巻、105頁)
とあるように、その翌年にはお家を借り切って、明子の結婚相手となる男性とも一緒にひと夏過ごしたりしています。
明子より数秒先に林間の百合、土手の河原撫子を見つけて、「ほら、山百合!」「ほら、撫子!」というためには、そこでなければならないのであった。(上巻、124頁)
とあるように、二人ともが生きていた頃の、きらきらとした友情が、美しい自然とともに描かれます。
そして何よりも重要なのが、烏瓜の実です。冒頭近くの蕗子との再会場面と、1年後、そして結末部分で描かれる烏瓜には、「結文(むすびぶみ)に似ているのでタマズサ(玉章)の名もある」(『日本大百科全書』)のですが、『幻の朱い実』においては、その手紙が大量に引用されているからです。
烏瓜の実は、再会場面で蕗子の家の門口に絡みつき、はなやかな赤や黄の実をつけていました。
そして、わざわざ目をやるまでもなく――というより、向こうから強引にこちらの目をひきこむように――細道の左側、四、五軒めの門口に、何百という赤、黄の玉のつながりが、ひょろひょろと突きたつ木をつたって滝のようになだれ落ちていたのだ。明子は小走りにそこまでいってみた。
のびすぎた木は檜葉で、それに薄緑の蔓が縦横無尽にまつわりつき、あるものは銀鎖りのように優美に垂れ、入り乱れてからまりあう蔓全体からぶらさがっているのは、烏瓜の実であった。(上巻、4頁)
けれどもその1年後、
だが、その一方、あの檜葉からは、前年ほどの華やかさではなかったが、やはり無数の烏瓜の銀鎖りが垂れ、そこから、美しく赤らんだ実に交じって、まだ白と緑の縞を描いた小動物めいた若い実もぶらさがっていた。(上巻、140頁)
とあるように、まだやはり美しく実をつけてはいるものの、まるで蕗子の生命力と連動するかのように、少しずつ、弱っていきます。
最後に烏瓜が描かれるのは、蕗子が亡くなってはるか後年、語り手明子の夫も亡くなり、娘の葉子がすでに成人して結婚し、学者になっている第三部の終わりの部分です。明子は御苑で、烏瓜の実を探します。
御苑ではほんの少し色づきはじめた木々も美しかったが、明子が目ざしたのは朱い烏瓜の実であった。駐車場周囲で、すぐ目についたのが、小粒の黄烏瓜だった。
「こういうんでないのよ。」と、明子は言った。
目のいい葉子に助けてもらって散々歩きまわり、あきらめて帰りかけたとき、出口に近い日陰の場所に、十つぶほどのあわれな実が、しなびた蔓からさがっていた。(下巻、361頁)
「葉子、大津さんの烏瓜ね、この千倍も、万倍も美しかった! 千倍も万倍も! こんなもんじゃないのよ。あなたに見せたかった、そういうものも、この世にあるんだってこと!」
葉子は、母の腕をとっていた手に力をこめ、しばらく無言でいてから、「ママ、いい友だちなくしたママの気持、わかるつもりよ。あたしたちには、もうそういう友だちはつくれない。でもね……。パパやあたしたちのことも忘れないで。」
「何いってんの。忘れようったって、忘れられないじゃないの? いつもあなたが、こうしてあたしをひったてるようにして歩いてるんだもの。」(下巻、362頁)
烏瓜は別名を「玉梓」(手紙)と言うため、まずは蕗子と明子との手紙を象徴するものであり、冒頭で描かれる銀鎖りのように連なった烏瓜は、蕗子と明子との手紙によって構築された『幻の朱い実』という作品そのものを指すものでしょう。
娘の葉子とのやり取りは、今の世の中にありえない存在となってしまった蕗子との友情を懐かしみつつ、葉子のような娘世代の新しい文芸行為に導かれていることを認め、娘世代の新しい文芸行為を寿ぐものと、ひとまずは言えます。
ただ、ここで注目したいのは、「実」のイメージです。
「実」というとどうしても、生殖や子供を連想しますが、『幻の朱い実』においては、明子の妊娠が蕗子の死と引き換えのように描かれており、第三部では蕗子の妊娠と堕胎が大きな謎として重要なモチーフとなるからです。
良妻賢母教育と関わって園芸の重要性が説かれ、白百合の花が純潔の表象である(渡部周子『「少女」像の誕生 近代日本における「少女」規範の形成』新泉社、2007年)など、花は少女と切り離すことができないものです。
しかしながら『幻の朱い実』において蕗子との友情を象徴するのは「花」ではなく「実」なのです。
明子は、第二部で妊娠し、子供を産みますが、蕗子の葬儀の「翌日から、彼女は三日ほど寝つき、それからの一週間を佐々木先生の病院に収容された。妊娠二カ月、つわりの症状と宣告された」(下巻、234頁)とあるように、明子の妊娠と蕗子の死がほぼ同時期に描かれています。
まるで、蕗子の死と引き換えに明子の子供が生まれたかのように…。明子の子供の葉子は、第三部では国文学者になっているのですが、蕗子は国文学専攻でした。明子の安定した生き方と、蕗子の国文学的なセンスを受け継いだような存在です。
ここからは、明子の子供は蕗子の生まれ変わり、あるいは、明子と蕗子の子供のようなイメージがあると考えられます。
蕗子が堕胎したか否かが第三部では重要な謎となっているのですが、なぜ、蕗子の堕胎が明子にとってはそれほどまでに衝撃となるのか、考えたとき、明子にとって自分の子供が、自分と蕗子の子供のように感じられているのではないか、ということが考えられるからです。
さらにここで、単なる「実」ではなく、「幻の」実であることも気になります。
一つには、末尾の場面でやっと見つかった烏瓜の実が、「しなびた蔓」からぶら下がった「あわれな実」(再掲)であったことから、蕗子の家の門口で見た見事な烏瓜の実が、今はもうない、「幻」であるという意味合いがあるでしょう。
ただもう一つ、「幻」という語感から思い浮かべるのが、まったく別の小説ですが、森茉莉が女主人公と父親との濃密な関係を描いた、『甘い蜜の部屋』の、次の一節です。
(だが、これは俺にとって現実の花ではない。桃李は、幻の桃李だ。冠を正す必要はない……)(147頁)
これは、女主人公の父林作が娘との、いよいよ濃密になる関係について考える場面なのですが、「現実の花」ではなく「幻の桃李」であるというのは、「永遠に交接のない父と娘の間柄」(294頁)との表現もあるように、実際の性愛関係がないことを示しています。
これを『幻の朱い実』にあてはめると、蕗子と明子の関係が、性愛関係はないものの、性愛関係よりも濃密で素晴らしい関係であることを、示しているように思えます。「幻」の関係であるため、明子と蕗子には、実際の子供はいません。けれども『幻の朱い実』という、明子と蕗子の手紙=烏瓜によって構成された作品が、明子と蕗子の子供のようなものとして、残されたのです。
現実の世界に目を向けると、作者である石井桃子は生涯結婚せず、子供もいませんでした。けれども『幻の朱い実』では、葉子という娘が登場します。ここには、先ほど述べたように、明子と蕗子の幻想の子供というイメージ、そして葉子は国文学者として活躍する女性という設定ですので、次世代の文芸活動や仕事をする女性として、『幻の朱い実』という作品を受け取る人たちの存在を、作品の中に書き込んだものとも位置付けられます。
おわりに
以上をまとめると、「幻の朱い実」は、永遠に交接することのない蕗子と明子との、幻の子供を象徴し、それは美しい赤や黄色の実を銀鎖りのように連ねた手紙によって構築された小説『幻の朱い実』そのものと言えるでしょう。
*引用は石井桃子『幻の朱い実』上、下、岩波書店、1994年、『森茉莉全集・4‥甘い蜜の部屋』(筑摩書房、1993年)による。
全体まとめ
以上、本講義では、日本文学における花や植物のイメージを、ジェンダーや生殖とのかかわりから考察してきました。
近代以前の文学作品における、花・植物のイメージに関しては、生殖や繁栄の比喩であることを確認したうえで、そこからずれるものを見ました。
第2回講義においては、
『古事記』における、花=繁栄=美しさを象徴する木花之佐久夜毘売と、石=永遠性を象徴する石長比売のイメージを見たうえで、後代の物語や現代小説、エッセイに取り入れられ、変奏されるさまを確認しました。
また、『万葉集』のなでしこを取り上げ、家持周辺の人たちの間で詠まれることが多いこと、男性がたとえられることも、女性がたとえられることもあることを確認しました。
第3~4回講義では、『源氏物語』をとり上げました。
第3回においては、第2回の「なでしこ」ともかかわって、植物に「子供」をたとえる比喩を見ました。
第4回においては、源氏が作り出した季節の秩序からはみ出してゆく存在として、女三の宮における季節の表現を見ました。
第5回講義では、紫式部の家集である『紫式部集』をとり上げました。
『紫式部集』においては、表層は信じられておらず、言葉の底にある心において、女性同士のつながりは保たれています。結婚したり子供ができたり亡くなったりする中で失われてしまう心のつながりを再構成し、構築するものとして位置づけました。
第6回講義では、稚児物語である『秋の夜長物語』をとり上げました。
『秋の夜長物語』においては、少年である稚児が桜や紅葉にたとえられますが、稚児は〈産まない性〉であることが指摘されます。『秋の夜長物語』においては、桜や紅葉のイメージは、生殖からも女性であることからも離れて、はかなく美しいものの比喩として用いられています。
さらに、『秋の夜長物語』を明確に踏まえるものとして、稲垣足穂の近代小説『菟』についても見ました。
第7回講義では、お伽草子の『かざしの姫君』をとり上げました。
『かざしの姫君』でも、菊の花の精が男性として描かれますが、『秋の夜長物語』と異なり、菊の花の精は生殖します。姫君の王権への反抗のようなものも描かれますが、最終的には、姫君と菊の精の娘が入内することで、王権の物語に回収されます。
第8回講義では、『東海道四谷怪談』をとり上げました。
「お岩」の名前はイワナガヒメの系譜であると指摘され、「お梅」は妊婦を連想させる名であると言われますが、『東海道四谷怪談』では「お梅」は妊娠せず、イワナガヒメの系譜であるはずのお岩が妊娠すること、また、産女や子殺しのイメージと関連して考察されることを確認しました。
近代以降の作品に関しては、「生殖を禁じられた」存在である少女の比喩として用いられたことによるイメージの変容に注目しました。
第9回講義では、夏目漱石の『それから』をとり上げ、赤い花と白い花のイメージを見ていきました。
赤い花は、生殖、妊娠、出産などの象徴、白い花はそれとは異なる恋愛を象徴するものとして位置づけ、代助にとって三千代に子供がなく、できないこと、生殖行為そのものも困難であることが重要であることを確認しました。けれどもヒロイン三千代にとっては必ずしもそうではありません。
第10回講義では、尾崎翠『第七官界彷徨』をとり上げました。
『第七官界彷徨』においては、本来花粉を飛ばさないはずの蘚の受粉が受粉したり、発育不全の蜜柑が描かれたりします。蘚の受粉やにおいの描写について、詩と小説、歩行と舞踏とのかかわりから考察しました。
第11回講義では、野溝七生子『山梔』をとり上げました。
作品中で主に描かれる二つの白い花、山梔と白百合について考察し、山梔を日本の古い書物、過去、そして「誰か」と呼ばれる調、何も言わないで内向してゆく阿字子自身を象徴するもの、白百合を西洋の物語や遠く隔たった場所、そして妹の空に語る物語を象徴するものと位置づけました。
そのうえで、この小説を、語る相手(妹)のもとから旅立った後に、『山梔』を書くもの、と読み解きました。
第12回の今回は、石井桃子『幻の朱い実』をとり上げました。
「幻の朱い実」は、永遠に交接することのない蕗子と明子との、幻の子供を象徴するものであり、美しい赤や黄色の実を銀鎖りのように連ねた手紙によって構築された小説『幻の朱い実』であると、結論づけました。
以上のように、日本文学作品における花や植物のイメージを見てゆくと、花や実に託されて与えられる生殖のイメージから、ずれ続ける女性たちの姿を読み取ることができます。
例えば『山梔』の阿字子は純潔にこだわり、結婚して子を産み育てるようなあり方を拒絶しますし、『幻の朱い実』の(語り手明子には子どもがいますが)作者石井桃子は実際には結婚も出産もしなかったけれど、私たちは、すべての妹たちに向けて書かれた『山梔』や、すべての娘たちに向けて書かれた『幻の朱い実』を、受け取ることができます。
←第11回
こんにちは、本当に遅くなってすみません、
第12回をアップします。
今回の内容は、以前このブログで書いた「植物のイメージ:石井桃子『幻の朱い実』」(2014年12月21日)とかなり重なる部分があります。
はじめに
亡くなった女友達の思い出を描く石井桃子『幻の朱い実』(1994年)では、烏瓜の実が印象的に描かれます。この女友達のモデルとなったのが、実際に昭和前半の文学シーンにおいて注目される小里文子という女性であったことから、伝記的な観点から考察されることの多い作品ですが、烏瓜をはじめ植物の描写にはさほど注目されていません。
しかしながら、蕗子との再会において描かれる烏瓜、鰯漁を見に二人で出かけた宇原で摘んだ水仙など、植物の描写が重要な場面で描かれ、「幻の朱い実」というタイトルも、蕗子との再会で描かれた烏瓜、そして物語の最後で、新宿御苑で見つけた小さい烏瓜を前に娘に向かって「大津さんの烏瓜ね、この千倍も、万倍も美しかった!(中略)あなたに見せたかった、そういうものも、この世にあるんだってこと!」(下巻、362頁)と言ったことによるものです。
そこで本講義では、烏瓜の実を中心に、『幻の朱い実』における植物のイメージについて考察します。
1.梗概および研究史
【梗概】
語り手の明子と大学時代のあこがれの的だった大津蕗子との友情を描く。大学時代は特に交流のなかった蕗子と再会し、友人になる場面からはじまり、明子の結婚までを描く第一部、明子の妊娠とほぼ同時に蕗子の結核が悪化し亡くなるところまでを描く第二部、子供たちも成長し夫も亡くなったはるか後年、明子が蕗子の妊娠と堕胎の話を聞いたことから、真偽を確かめるためにかつての友人加代子とともに手紙類などを集める第三部に大きく分かれる。
*「自伝的」な作品ということになっているが、作者の石井桃子自身は結婚も出産もしていない。
石井桃子(1907-2007年)は、翻訳家・児童文学者として有名で、例えば『クマのプーさん』をはじめて翻訳したことでも知られています。編集者、「読書運動家」としても知られ、戦後の児童書や図書館の世界に大変大きな功績のあった人ですが(『日本人名大辞典』講談社、『日本大百科全書』等)、『幻の朱い実』は唯一の小説です。
一方で友人蕗子のモデルとなった小里文子は、
当時の作家や編集者の間では、そして現在も日本近代文学の研究には、ある程度知られている存在だろう。まず、一九二七(昭和二)年一月号の「新潮」に横光利一が発表した短編「計算した女」のお桂として有名になった。(尾崎真理子『ひみつの王国 評伝石井桃子』新潮社、2014年、122頁)
という人物です。
『幻の朱い実』に関するまとまった研究としては、石井桃子に対する200時間に及ぶインタビューをもとに、石井桃子の人生を再構成し、その文学世界を紹介する、尾崎真理子『ひみつの王国 評伝石井桃子』(新潮社、2014年)があります。
尾崎真理子は、『幻の朱い実』について、「魂を揺さぶられるとはこのこと」(119頁)と、非常に高く評価しており、200時間にも及ぶインタビューを敢行しようとした、直接の動機であると言っています。
また、『幻の朱い実』には大量の手紙が引用されるのですが、これについて、
蕗子が病み衰えていく第二部は、物語の筋書きとしてはいささかアンバランスなほど、蕗子から明子にあてた手紙がひっきりなしに引用され、明子の存在感は薄くなる。しかも、手紙のリアリティは他の文章、会話の部分を圧倒するほど生々しい。実在する手紙を活字にして残すためにこそ、この作品は構想されたと感じるほどの扱いだ。(119頁)
と述べています。
尾崎は「…と感じるほどの扱い」という言い方にとどめていますが、「蕗子」のモデルとされる小里文子はすでに亡くなっていますので、実際、手紙のやり取りを再構成することによって、亡くなった友人とのやり取りを文字として残す、構築する意味合いがあったように思われます。私が以前、『紫式部集』について述べたような意味合いです(→「日本文学Ⅰ(第5回):『紫式部集』における女性同士の絆」)。
この評伝の中から、石井桃子自身が『幻の朱い実』のモデルとなった女友達のことを述べているインタビュー
「男と女の愛情ってものと別に、女同士で対人間的に深く付き合う生活ができるんじゃないかと思うんですね。いわゆるレズビアンとか何かとは違って。相手の心のなかに踏み込んでね、生活していけるんじゃないかと思いますけど」(132頁)
(もう一人の親友である加代子=モデルは水澤那奈という女性、について)「蕗子を挟んで三角関係のような関係でもあるけど、お互いに嫉妬なんか持たずに別の愛し方をしている」「加代子は非常に頭が冴えてて、社会問題なんかを一生懸命勉強するほうだし、蕗子って人は偏ってて、気が向いたことしかしない。一番、どっちつかずでいながら生き延びちゃう―それが明子だってふうに書いたんですよね」(132頁)
からは、男女間や性愛関係にはない、女性同士の関係が、いかに大切なものだったのかが、よく伝わってきます。
また、国文学専攻の蕗子が「偏ってて、気が向いたことしかしない」破滅型の人間として描かれているのも、前々回扱った『第七官界彷徨』における国文科の少女のイメージなんかと合わせて、ちょっと面白いですね。
それでは、具体的に植物のイメージを見ておきましょう。
2.植物の描写
最初に述べたように、この作品の中では、鰯漁を見に二人で出かけた宇原の自然が印象的に描かれ、繰り返し登場する烏瓜の実が重要な意味を持ちます。
「宇原」というのは、房総半島の「勝浦と御宿の間の小さな港」(上巻、96頁)のある場所らしく、田舎ののどかな場所として描かれています。
明子と蕗子が鰯漁を見に出かけて、白い水仙の花を摘み、
何十歩とゆかず、そこだけ、神社側の山が崩れてできたらしい急斜面の草原があり、早朝は日かげでありそうな日だまりに、坂をかけおりてくるように白い花の群落がゆれていた。早く咲きだした一部は真盛りをすぎていたが、黄いろい小さな杯を一つずつまん中につけた白い小花は、ふさふさとした塊りになって、芳香を潮風の中にまきちらして踊っていた。まわりが茶っぽけた芝生ばかりのせいか、その白い小人たちの踊りは、いっそひそやかで、しかも賑やかだった。(上巻、104頁)
明子は、根元からちぎった数本を、ポケットのハンケチでくるみ、二人はしばらくその花の下の道を徘徊してから、元来た道をもどりはじめた。(中略)「ね、また、来年、来てみない?――いのちあらば……」と、蕗子は、ごろた石もまじるでこぼこ道をゆっくりもどりながら冗談めかしていった。(上巻、105頁)
とあるように、その翌年にはお家を借り切って、明子の結婚相手となる男性とも一緒にひと夏過ごしたりしています。
明子より数秒先に林間の百合、土手の河原撫子を見つけて、「ほら、山百合!」「ほら、撫子!」というためには、そこでなければならないのであった。(上巻、124頁)
とあるように、二人ともが生きていた頃の、きらきらとした友情が、美しい自然とともに描かれます。
そして何よりも重要なのが、烏瓜の実です。冒頭近くの蕗子との再会場面と、1年後、そして結末部分で描かれる烏瓜には、「結文(むすびぶみ)に似ているのでタマズサ(玉章)の名もある」(『日本大百科全書』)のですが、『幻の朱い実』においては、その手紙が大量に引用されているからです。
烏瓜の実は、再会場面で蕗子の家の門口に絡みつき、はなやかな赤や黄の実をつけていました。
そして、わざわざ目をやるまでもなく――というより、向こうから強引にこちらの目をひきこむように――細道の左側、四、五軒めの門口に、何百という赤、黄の玉のつながりが、ひょろひょろと突きたつ木をつたって滝のようになだれ落ちていたのだ。明子は小走りにそこまでいってみた。
のびすぎた木は檜葉で、それに薄緑の蔓が縦横無尽にまつわりつき、あるものは銀鎖りのように優美に垂れ、入り乱れてからまりあう蔓全体からぶらさがっているのは、烏瓜の実であった。(上巻、4頁)
けれどもその1年後、
だが、その一方、あの檜葉からは、前年ほどの華やかさではなかったが、やはり無数の烏瓜の銀鎖りが垂れ、そこから、美しく赤らんだ実に交じって、まだ白と緑の縞を描いた小動物めいた若い実もぶらさがっていた。(上巻、140頁)
とあるように、まだやはり美しく実をつけてはいるものの、まるで蕗子の生命力と連動するかのように、少しずつ、弱っていきます。
最後に烏瓜が描かれるのは、蕗子が亡くなってはるか後年、語り手明子の夫も亡くなり、娘の葉子がすでに成人して結婚し、学者になっている第三部の終わりの部分です。明子は御苑で、烏瓜の実を探します。
御苑ではほんの少し色づきはじめた木々も美しかったが、明子が目ざしたのは朱い烏瓜の実であった。駐車場周囲で、すぐ目についたのが、小粒の黄烏瓜だった。
「こういうんでないのよ。」と、明子は言った。
目のいい葉子に助けてもらって散々歩きまわり、あきらめて帰りかけたとき、出口に近い日陰の場所に、十つぶほどのあわれな実が、しなびた蔓からさがっていた。(下巻、361頁)
「葉子、大津さんの烏瓜ね、この千倍も、万倍も美しかった! 千倍も万倍も! こんなもんじゃないのよ。あなたに見せたかった、そういうものも、この世にあるんだってこと!」
葉子は、母の腕をとっていた手に力をこめ、しばらく無言でいてから、「ママ、いい友だちなくしたママの気持、わかるつもりよ。あたしたちには、もうそういう友だちはつくれない。でもね……。パパやあたしたちのことも忘れないで。」
「何いってんの。忘れようったって、忘れられないじゃないの? いつもあなたが、こうしてあたしをひったてるようにして歩いてるんだもの。」(下巻、362頁)
烏瓜は別名を「玉梓」(手紙)と言うため、まずは蕗子と明子との手紙を象徴するものであり、冒頭で描かれる銀鎖りのように連なった烏瓜は、蕗子と明子との手紙によって構築された『幻の朱い実』という作品そのものを指すものでしょう。
娘の葉子とのやり取りは、今の世の中にありえない存在となってしまった蕗子との友情を懐かしみつつ、葉子のような娘世代の新しい文芸行為に導かれていることを認め、娘世代の新しい文芸行為を寿ぐものと、ひとまずは言えます。
ただ、ここで注目したいのは、「実」のイメージです。
「実」というとどうしても、生殖や子供を連想しますが、『幻の朱い実』においては、明子の妊娠が蕗子の死と引き換えのように描かれており、第三部では蕗子の妊娠と堕胎が大きな謎として重要なモチーフとなるからです。
良妻賢母教育と関わって園芸の重要性が説かれ、白百合の花が純潔の表象である(渡部周子『「少女」像の誕生 近代日本における「少女」規範の形成』新泉社、2007年)など、花は少女と切り離すことができないものです。
しかしながら『幻の朱い実』において蕗子との友情を象徴するのは「花」ではなく「実」なのです。
明子は、第二部で妊娠し、子供を産みますが、蕗子の葬儀の「翌日から、彼女は三日ほど寝つき、それからの一週間を佐々木先生の病院に収容された。妊娠二カ月、つわりの症状と宣告された」(下巻、234頁)とあるように、明子の妊娠と蕗子の死がほぼ同時期に描かれています。
まるで、蕗子の死と引き換えに明子の子供が生まれたかのように…。明子の子供の葉子は、第三部では国文学者になっているのですが、蕗子は国文学専攻でした。明子の安定した生き方と、蕗子の国文学的なセンスを受け継いだような存在です。
ここからは、明子の子供は蕗子の生まれ変わり、あるいは、明子と蕗子の子供のようなイメージがあると考えられます。
蕗子が堕胎したか否かが第三部では重要な謎となっているのですが、なぜ、蕗子の堕胎が明子にとってはそれほどまでに衝撃となるのか、考えたとき、明子にとって自分の子供が、自分と蕗子の子供のように感じられているのではないか、ということが考えられるからです。
さらにここで、単なる「実」ではなく、「幻の」実であることも気になります。
一つには、末尾の場面でやっと見つかった烏瓜の実が、「しなびた蔓」からぶら下がった「あわれな実」(再掲)であったことから、蕗子の家の門口で見た見事な烏瓜の実が、今はもうない、「幻」であるという意味合いがあるでしょう。
ただもう一つ、「幻」という語感から思い浮かべるのが、まったく別の小説ですが、森茉莉が女主人公と父親との濃密な関係を描いた、『甘い蜜の部屋』の、次の一節です。
(だが、これは俺にとって現実の花ではない。桃李は、幻の桃李だ。冠を正す必要はない……)(147頁)
これは、女主人公の父林作が娘との、いよいよ濃密になる関係について考える場面なのですが、「現実の花」ではなく「幻の桃李」であるというのは、「永遠に交接のない父と娘の間柄」(294頁)との表現もあるように、実際の性愛関係がないことを示しています。
これを『幻の朱い実』にあてはめると、蕗子と明子の関係が、性愛関係はないものの、性愛関係よりも濃密で素晴らしい関係であることを、示しているように思えます。「幻」の関係であるため、明子と蕗子には、実際の子供はいません。けれども『幻の朱い実』という、明子と蕗子の手紙=烏瓜によって構成された作品が、明子と蕗子の子供のようなものとして、残されたのです。
現実の世界に目を向けると、作者である石井桃子は生涯結婚せず、子供もいませんでした。けれども『幻の朱い実』では、葉子という娘が登場します。ここには、先ほど述べたように、明子と蕗子の幻想の子供というイメージ、そして葉子は国文学者として活躍する女性という設定ですので、次世代の文芸活動や仕事をする女性として、『幻の朱い実』という作品を受け取る人たちの存在を、作品の中に書き込んだものとも位置付けられます。
おわりに
以上をまとめると、「幻の朱い実」は、永遠に交接することのない蕗子と明子との、幻の子供を象徴し、それは美しい赤や黄色の実を銀鎖りのように連ねた手紙によって構築された小説『幻の朱い実』そのものと言えるでしょう。
*引用は石井桃子『幻の朱い実』上、下、岩波書店、1994年、『森茉莉全集・4‥甘い蜜の部屋』(筑摩書房、1993年)による。
全体まとめ
以上、本講義では、日本文学における花や植物のイメージを、ジェンダーや生殖とのかかわりから考察してきました。
近代以前の文学作品における、花・植物のイメージに関しては、生殖や繁栄の比喩であることを確認したうえで、そこからずれるものを見ました。
第2回講義においては、
『古事記』における、花=繁栄=美しさを象徴する木花之佐久夜毘売と、石=永遠性を象徴する石長比売のイメージを見たうえで、後代の物語や現代小説、エッセイに取り入れられ、変奏されるさまを確認しました。
また、『万葉集』のなでしこを取り上げ、家持周辺の人たちの間で詠まれることが多いこと、男性がたとえられることも、女性がたとえられることもあることを確認しました。
第3~4回講義では、『源氏物語』をとり上げました。
第3回においては、第2回の「なでしこ」ともかかわって、植物に「子供」をたとえる比喩を見ました。
第4回においては、源氏が作り出した季節の秩序からはみ出してゆく存在として、女三の宮における季節の表現を見ました。
第5回講義では、紫式部の家集である『紫式部集』をとり上げました。
『紫式部集』においては、表層は信じられておらず、言葉の底にある心において、女性同士のつながりは保たれています。結婚したり子供ができたり亡くなったりする中で失われてしまう心のつながりを再構成し、構築するものとして位置づけました。
第6回講義では、稚児物語である『秋の夜長物語』をとり上げました。
『秋の夜長物語』においては、少年である稚児が桜や紅葉にたとえられますが、稚児は〈産まない性〉であることが指摘されます。『秋の夜長物語』においては、桜や紅葉のイメージは、生殖からも女性であることからも離れて、はかなく美しいものの比喩として用いられています。
さらに、『秋の夜長物語』を明確に踏まえるものとして、稲垣足穂の近代小説『菟』についても見ました。
第7回講義では、お伽草子の『かざしの姫君』をとり上げました。
『かざしの姫君』でも、菊の花の精が男性として描かれますが、『秋の夜長物語』と異なり、菊の花の精は生殖します。姫君の王権への反抗のようなものも描かれますが、最終的には、姫君と菊の精の娘が入内することで、王権の物語に回収されます。
第8回講義では、『東海道四谷怪談』をとり上げました。
「お岩」の名前はイワナガヒメの系譜であると指摘され、「お梅」は妊婦を連想させる名であると言われますが、『東海道四谷怪談』では「お梅」は妊娠せず、イワナガヒメの系譜であるはずのお岩が妊娠すること、また、産女や子殺しのイメージと関連して考察されることを確認しました。
近代以降の作品に関しては、「生殖を禁じられた」存在である少女の比喩として用いられたことによるイメージの変容に注目しました。
第9回講義では、夏目漱石の『それから』をとり上げ、赤い花と白い花のイメージを見ていきました。
赤い花は、生殖、妊娠、出産などの象徴、白い花はそれとは異なる恋愛を象徴するものとして位置づけ、代助にとって三千代に子供がなく、できないこと、生殖行為そのものも困難であることが重要であることを確認しました。けれどもヒロイン三千代にとっては必ずしもそうではありません。
第10回講義では、尾崎翠『第七官界彷徨』をとり上げました。
『第七官界彷徨』においては、本来花粉を飛ばさないはずの蘚の受粉が受粉したり、発育不全の蜜柑が描かれたりします。蘚の受粉やにおいの描写について、詩と小説、歩行と舞踏とのかかわりから考察しました。
第11回講義では、野溝七生子『山梔』をとり上げました。
作品中で主に描かれる二つの白い花、山梔と白百合について考察し、山梔を日本の古い書物、過去、そして「誰か」と呼ばれる調、何も言わないで内向してゆく阿字子自身を象徴するもの、白百合を西洋の物語や遠く隔たった場所、そして妹の空に語る物語を象徴するものと位置づけました。
そのうえで、この小説を、語る相手(妹)のもとから旅立った後に、『山梔』を書くもの、と読み解きました。
第12回の今回は、石井桃子『幻の朱い実』をとり上げました。
「幻の朱い実」は、永遠に交接することのない蕗子と明子との、幻の子供を象徴するものであり、美しい赤や黄色の実を銀鎖りのように連ねた手紙によって構築された小説『幻の朱い実』であると、結論づけました。
以上のように、日本文学作品における花や植物のイメージを見てゆくと、花や実に託されて与えられる生殖のイメージから、ずれ続ける女性たちの姿を読み取ることができます。
例えば『山梔』の阿字子は純潔にこだわり、結婚して子を産み育てるようなあり方を拒絶しますし、『幻の朱い実』の(語り手明子には子どもがいますが)作者石井桃子は実際には結婚も出産もしなかったけれど、私たちは、すべての妹たちに向けて書かれた『山梔』や、すべての娘たちに向けて書かれた『幻の朱い実』を、受け取ることができます。
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