人形と動物の文学論

人形表象による内面表現を切り口に、新しい文学論の構築を目指す。研究と日常、わんことの生活、そしてブックレビュー。

日本文学Ⅰ(第10回):尾崎翠『第七官界彷徨』

2020-07-19 11:11:23 | 日本文学
※非常勤講師を勤めております前橋国際大学での授業内容を、問題のない部分のみ、ブログ上にアップすることに致しました(資料は大学のLMS上にアップしていますが、引用文など少し長めの文章を載せたものは、スマホの画面ではかなり読みにくいため。ブログ記事であればスマホ上でも何とか読めるだろうと思うので)。

こんにちは、本当に遅くなってすみません、
第10回をアップします。

はじめに
 尾崎翠『第七官界彷徨』は、「第七官」に響く「詩」を書くことを志す、小野町子の「あるひとつの恋」をめぐる物語です。1931年、『文学党員』に発表されました。尾崎が後半生を鳥取の郷里で過ごし、ほとんど作家活動を行っていなかったことから、長く「忘れられた作家」となっていましたが、花田清輝の再評価などから、1970年代以降、コンスタントに作品集や全集がまとめられてきました。さらに2000年を過ぎたころから急速に研究が増え、尾崎に関する論文は多数、いくつかの研究書も刊行されています(すみません、追い切れていません)。

【梗概】
 物語は田舎から兄弟たちといとこの住む小さな家に町子がやって来るところから始まり、兄一助と「柳氏」との議論を片付けるために、一冊の書物を届ける場面で終わる。
 この小さな家の住人は、「分裂心理病院」に勤める医師の小野一助、植物の恋愛について研究する小野二助、音楽学校に受験するために勉強している佐田三五郎、そして「第七官」に響く「詩」を書きたいと願っているヒロインの四人で、ヒロインは一家の炊事係、ということになっている。
 当初町子と三五郎のあいだに、恋愛じみた雰囲気が漂うものの、隣家に越してきた少女との、垣根の蜜柑をめぐる心の交流(三五郎から少女への片恋)を経た後、町子が外部の医師(一助のライヴァル)と出会うところで終わる。三五郎は、一助に言付かった『ドッペル何とか』を買うためのお金でマドロスパイプを買ってしまったというので、町子は少し予定を早めて上京し、『ドッペル何とか』を買うためのお金を工面する。三五郎は、ヒロインが「くびまき」を買うように祖母から貰ったお金もボヘミアンネクタイに使ってしまう(ボヘミアンネクタイは当初ヒロインの髪に巻かれるが、最終的には「肘当て」になる)。最後にヒロインは一助のために『改訂版分裂心理辞典』(=『ドッペル何とか』?)を柳氏宅に届けるが、柳氏に「くびまき」を買ってもらう。したがってこれは、三五郎が使い込んだお金と、ほんらいそのお金で買うはずだったものをめぐる物語でもある。物語のなかでヒロインが恋愛めいた感情を抱くのは、三五郎と柳氏の、二人いるにも関わらず、「ひとつの恋」をしたようである、と語られるのも、そのためだろう。

 ここで注目しておきたいのが、「秋から冬にかけての短い期間」、町子は「変な家庭の一員としてすごし」、「ひとつの恋をしたようである」(127頁)とあるのですが、その「恋」はどうにもぼんやりしており、しかもこの小説の登場人物は、誰も彼もが失恋し、その目的は実を結んでいないのです。蜜柑は満足に実をつけず、三五郎が練習するピアノは、調律不能な調子外れなもので、一助や二助は不思議な論文を書き、家のなかには二助の研究する、大根や蘚を育てるためのこやしのにおいが漂っています。
 そして不思議なことに、蘚(コケ)が花粉を飛ばすのです。

(二助)「床の間には恋愛期に入った蘚の鉢をひとつずつ移していくんだ。(中略)僕の勉強部屋は、ああ、蘚の花粉でむせっぽいまでの恋愛部屋となるであろう」(66~67頁)
そしてついに二助は左手の人さし指と拇指に二本の蘚の花粉をとり、一本ずつ交互に鼻をあてて息をふかく吸いこんだ。 (94頁) 


『第七官界彷徨』のなかでは、何度も植物に関して「恋愛」という言葉が用いられるのですが、ほんらい胞子で殖えるはずの蘚が「花粉」を飛ばし、受粉するのです。
 なぜ、蘚が花粉を飛ばすのでしょうか。『第七官界彷徨』における植物と恋愛のイメージを、考えてみたいと思います。

【先行研究例】
『第七官界彷徨』に関しては、最初に述べたように、2000年代以降かなりの数の論文が書かれているのですが、主なものだけ少し、最初に紹介しておきたいと思います。
①高原英理「少女の作る小宇宙 尾崎翠『第七官界彷徨』一九三一」(1)は、町子がくびまきを買ってもらうことを、「花粉によって受精した蘚の喜び」にたとえ、「くびまきによる象徴的受精とそれにより詩を書くという象徴的出産が、既存の生殖の意味を裏返」すものとし、「肉体を介さない性的関係」と読みながら、「このような「奇妙な恋愛」こそ第七官界における恋愛」と位置づけます(137頁)。
 ただなぜ胞子で殖えるはずのコケが花粉を飛ばすのかについては、特に言及がありません。
 また、「町子にとっての本当の目的は第七官界探究という「勉強」」「『第七官界彷徨』が町子をとおして最もめざしているのは、この、欲望主体の希薄化とともに得られる世界への新鮮な驚き」「自意識に限定されないばかりか、人間として限定されることもない、そういう場所を尾崎は「第七官界」と名づけた(143頁)と指摘するのですが、当初の目的はそれとして、目的のある「探究」としてではなく、「彷徨」というタイトルが意味するところは重要でしょう。

②江黒清美「小野町子・『第七官界彷徨』尾崎翠」(2)では、「第七官界」について「町子がたどり着いた「第七官界」とは小さなジオラマの世界」(170頁)としています。
 さらに、「家の中で彷徨を続ける「少女」の身体性」が「極めて希薄」(172頁)であるとし、三つの要因があるとします。その二つ目に「セクシュアリティの希薄性」を挙げるのですが、そのなかで、コケが花粉を飛ばすことについて考察しています。
「蘚苔植物が単性生殖であり恋愛に表象される受粉の必要はなく」「人間と蘚苔植物の生殖行為を逆転させることで、生々しいはずの人間のセクシュアリティを軽減」(173頁)すると述べており、おおむね首肯できるのですが、ただしコケは完全な無性生殖ではないようです。

③石原深予「「第七官界彷徨」論:「喪失感」と「かなしみ」、「回想」のありかた」(3)では、「第七官界彷徨」というタイトルに二つの意味があるとして、二つの観点から考察しています。
 その一つは、「青春時代を贈る兄や従兄たちと共に大正期の東京で暮らした少女時代そのもの」。
 その時期に西洋から伝えられていた、(中略)「第七官」という新しい器官が感受する世界について考えをめぐらし、(中略)「第七官」という官能にひびくような詩を書こうと試みた思春期のいとなみを、「彷徨」という言葉で象徴的に表してるということである。これは語り手が過去に私的に体験したことであり、回想されるべき幸福な記憶である。
 もう一つは、関東大震災という未曾有の大災による変化を経たことによる、震災以前と以後とでの時間や空間の「断絶」のため、「第七官」=「千里眼」でさえ時間や空間を超越できず、そのまなざしは「少し前」の時期であるにもかかわらず震災以前の過去の時間・空間を探索しようとしても、ただ「彷徨」するばかりであるということ(150頁)

 とても説得力のある、面白い詩的なのですが、本講義では、また少し別の観点から考えてみたいと思っています。

「共感覚」についての論集に収載されている、
④山下聖美「日本文学における共感覚―宮沢賢治と尾崎翠を中心に」(4)では、次のように述べ、
「「二つ以上の感覚がかさなってよびおこすこの哀感」とは、共感覚の一つのかたち」「彼女は、自ら体感してしまう不思議な感覚世界を、五感を越え、第六感も越えた「第七官」と名づけ、ここで感受しているものを懸命に言葉に刻印した」(261頁)
「第七官」を共感覚の一種として位置づけています。

 生殖や恋愛とのかかわりから、コケが花粉を飛ばすことの意味を考えているのは①と②ですが、ここでは少し観点を変えて、前回扱った『それから』との関連から、考えてみたいと思います。

☆『それから』「アマランス」を受粉させる場面。
  代助は曲んで、花の中を覗き込んだ。やがて、ひよろ長い雄蕊の頂きから、花粉を取つて、雌蕊の先へ持つて来て、丹念に塗り付けた。(361頁)

☆『それから』百合の香りをかぐ場面
  彼は立つて百合の花の傍へ行つた。唇が瓣に着く程近く寄つて、強い香を眼の眩う迄嗅いだ。(557頁)

とあるように、『それから』においても『第七官界』と同様に、植物の受粉、においをかぐ場面があり、なおかつ詩や歩行に対する意識がありますが、『第七官界彷徨』でヒロイン町子は詩を書こうとしており、尾崎翠には「歩行」という作品もあるからです。そこで、『それから』と『第七官界彷徨』のインターテクスチュアリティを考察します。

*インターテクスチュアリティ(間テクスト性)…「一つのテクストが他のテクスト群とは無関係に、完全なオリジナルとして書かれることはありえない」(169頁)とし、「一つのテクストのなかでは複数もしくは無数の声=テクストが複雑に反響し合い、絶え間ない対話を交わし合っている」と考える「対話的なテクスト理論」のこと(168頁)。(5)

 ただしこの部分は、以前にブログ記事で書いた内容でもありますので、簡単に済ませます。

1.詩と散文、歩行と舞踏
 ここで参照するのが、ポール・ヴァレリーによる、詩を舞踏、散文を歩行にたとえる比喩、そしてヴァルター・ベンヤミンの「都市の遊歩者(フラヌール)」という概念です。

☆ポール・ヴァレリー
▽詩=舞踏、散文=歩行(6)(7)

☆ヴァルター・ベンヤミン 都市の遊歩者(フラヌール)(8)
▽詩への意識と、目的が達成されないこと

狩野啓子が、
 翠は、まさにここで言われている〈遊民(フラヌール)〉の一人であった。〈遊民〉の孤独は、もともと翠が抱え込んでいた孤独にも響き合うものであった。遊民の悲しみを存在自体の悲しみにまで深め、通常感覚を越えた新しい感覚世界を拓いてみせたのが、この作家の大きな意義であったと言えよう。(9)
と指摘するように、『第七官界彷徨』の「彷徨」は、ベンヤミン的な「遊民」(フラヌール)を思わせます。

 ヴァルター・ベンヤミンは、詩への意識と、目的が達成されないことを遊歩にたとえていますが、『第七巻界彷徨』のなかでも、目的は達成されません。
「人間の第七官に響くような詩を書いてやりましょう」(11頁)と思い、柳氏に「くびまき」を買ってもらったあとには「屋根部屋に住んで風や煙の詩を書きたい」と空想するものの、実際に書いたのは「我にくびまきをあたえし人は遥かなる旅路につけりというような哀感のこもった恋の詩」(123頁)でした。
 ただ、ヒロインが上京する際に

 旅だつとき、私は、持っているかぎりの詩の本を蒲団包みのなかに入れたのである。しかしまことに僅かばかりの冊数で、私はそれだけの詩の本のあいだをぐるぐると循環し、幾度でもおなじ詩の本を手にしなければならなかった。(25頁)

とあるような循環は、「私は女中部屋の机のうえに、外国の詩人について書いた日本語の本を二つ三つ集め、柳氏の好きであった詩人について知ろうとした」(123頁)ことによって、開かれます。また、一貫してこの小さな家庭の中に閉じられていた視点は、末尾近くでヒロインが柳氏の家に出かけることによって、ようやく外に出るのです。ただし、「私の読んだ本のなかにはそれらしい詩人は一人もいなかった」(同)とあるように、最終的にヒロインが持った目的「柳氏の好きであった詩人について知」ることは果たされません。

2.蜜柑と隣家の少女
 ところで、『第七官界彷徨』のなかでは、コケ以外に、蜜柑も描かれます。コケや大根は、この変な家庭の内部、二助の部屋の中で育てられますが、蜜柑は外部と内部の境界、お隣の家との垣根に植えられています。

 三五郎と私が家に着いたとき、家のぐるりに生垣になっている蜜柑の木に、さしわたし四分ばかりの蜜柑が葉と変りのないほどの色でつぶつぶとみのり、太陽にてらされていた。(中略、「私」が汽車の中で食べ残した蜜柑を一袋手に持っていたことに気づく)それにしても、この家の生け垣は何と発育のおくれた蜜柑であろう。――後になってこの蜜柑は、驚くほど季節おくれの、皮膚にこぶをもった、種子の多い、さしわたし七分にすぎない、果物としてはいたって不出来な地蜜柑となった。すっぱい蜜柑であった。けれどこの蜜柑は、晩秋の夜に星あかりの下で美しくみえ、そして味はすっぱくとも佐多三五郎の恋の手だすけをする廻りあわせになった。三五郎はさしわたし七分にすぎないすっぱい蜜柑を半分たべ、半分を対手にくれたのである。(15頁)

 このすっぱい蜜柑を食べてから三五郎は肥やしの汲み出しをやるのだと言い(46頁)、「いくらかうまくなったよ」と言いながらヒロインに接吻する(50頁)のですが、何よりも重要な役割を果たすのが、隣家の黒髪の少女との交遊の場となることです。

 小野二助の二鉢目の蘚が花粉をつけたころ、垣根の蜜柑は色づくだけ色づいてしまい、そして佐田三五郎と私の隣人とは蜜柑をたべる習慣をもっていた。(103~104頁)

 隣家の少女は夜学国文科に通っていますが、「すべての物ごとに折り目ただしい思想をもっている」「宗教女学校」の先生である(86~87頁)、親戚の女性の炊事係として暮らしています。隣家の少女とヒロインは、黙って相手の家事を手伝い、お隣の少女はヒロインの髪の毛をゴムの櫛でとめてくれます(87頁)。一方でヒロインはお隣の少女が蜜柑の垣に洗濯した靴下を干すのを手伝います。
 そしてこの蜜柑の垣根のところで、物干し用の三叉に手紙や栗や楽譜を結びつけて、「特殊な会話」(97頁)を行います。
 けれどもそのような会話は、隣家の厳しい「先生」にとっては「かけ離れた」ふるまいでした。隣家の少女は「家族」に「神経病」だから、静かな場所に引っ越したほうが良い、そして夜学国文科などではなく、健康に良い「体操学校」が良いと言われ、引っ越していくのです。

 隣家の少女たちが越した後、家主は蜜柑をすっかり収穫してしまい、ヒロインは窓辺で手紙を見つけます。手紙の最後には、次のように書かれていました。

「でもご家族と私とのとり交わした会話法は家族の思っているほどかけ離れたものではないと思います。私の国文教科書のなかの恋人たちは、みんな文箱という箱に和歌などを託して――ああ、もう時間がなくなりました。私の家族はすっかり支度のできた引っ越し車のそばでしきりに私を呼んでいます」(111~112頁)

 石原深予は「国文教科書のなかの」文のやり取りを持ち出していることと、ヒロインの名前が小野小町を連想させるものであることの呼応を指摘しています(11)。また、江黒清美は作中で一助が研究する「分裂心理」「ドッペルなんとか」(ドッペルゲンガー)の関連で、「日本における離魂の物語」の系譜として『源氏物語』をあげていますが(12)、小野小町の夢の歌、例えば「思ひつつ寝ればや人の見えつらむ夢と知りせば覚めざらましを」(『古今集』恋2、552)なんかも、遊離魂的な発想といえるでしょう。

そして私の家庭の周囲には一粒の蜜柑もなくなり、ただ蜜柑の葉の垣が残ったのである。(112頁)

 蜜柑がなくなった後、ヒロインの「一つの恋」が語りだされ、それまで家の内部に固定された視点が、外に出た際に、それまで家の中でしか漂っていなかった、大根畑の肥やしのにおいが漂ってきます。一方で蜜柑に関しては、はじめ汽車のなか、ヒロインによって立派な蜜柑が家の中にもたらされることと、垣根の貧弱な蜜柑がリンクしています。

おわりに
 区切られた世界の循環・彷徨が描かれる『第七官界彷徨』の世界は、ヒロインが蜜柑とともに外部から訪れることによってはじまり、外部が描かれることで終わりを告げます。隣家との境界である垣根の貧弱な蜜柑は、家主によって収穫され、初めて外部に出た語りの視点は、それまで内部でしか漂っていなかった、肥やしのにおいを嗅ぎつけます。

 ヒロインのひとつ目の目的「第七官」に響く詩を書くことは、「屋根部屋に住んで風や煙の詩を書」くことへと変化し、それは「我にくびまきをあたえし人は遥かなる旅路につけりというような哀感のこもった恋の詩」を書くというかたちへとずれていきます。そして最後に、「僅かな本の間を」「循環」していたヒロインが、新しい書物を得、柳氏の好きな詩人について知るという目的が生まれますが、その目的も達成されません。
 ただし、くびまきを買ってもらうという目的だけは、柳浩六氏によって達成され、それが「ひとつの恋」として提示されるのです。

*本文引用は、『夏目漱石全集5』(ちくま文庫、1988年)、中野翠編『尾崎翠集成(上)』(ちくま文庫、2002年)による。


(1)『少女領域』国書刊行会、1999年。
(2)『「少女」と「老女」の聖域 尾崎翠・野溝七生子・森茉莉を読む』學藝書林、2012年。
(3)『尾崎翠の詩と病理』ビイング・ネット・プレス、2015年。初出『和漢語文研究』第11号、2013年及び、『郷土出身文学者シリーズ⑦ 尾崎翠』鳥取県立図書館、2011年。
(4)北村沙衣編『共感覚から見えるもの アートと科学を彩る五感の世界』勉誠出版、2016年。
(5)土田知則・神郡悦子・伊藤直哉『現代文学理論 テクスト・読み・世界』新曜社、1996年(担当土田知則)。
(6)「詩人の手帖」佐藤正彰訳(落合太郎、鈴木信太郎、渡辺一夫、佐藤正彰監修『ヴァレリー全集6 詩について』筑摩書房、1967年)。
(7)同右「詩話」
(8)今村仁司他訳『パサージュ論3 都市の遊歩者』岩波書店、1994年。
(9)「感覚の対位法:尾崎翠『第七官界彷徨』」(岩淵宏子他編『フェミニズム批評への招待:近代女性文学を読む』学芸書林、1995年)。
(10)『国文学』2003年4月。
(11)注3参照。
(12)注2参照。

☆参考情報 拙ブログ
歩行と舞踏のあいだで―夏目漱石『それから』から尾崎翠『第七官界彷徨』へ:その1
歩行と舞踏のあいだで―夏目漱石『それから』から尾崎翠『第七官界彷徨』へ:その2
歩行と舞踏のあいだで:夏目漱石『それから』から尾崎翠『第七官界彷徨』へ:その3

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