少し前の話になりますが、ALL REVIEWSの阿部賢一×豊崎由美「佐藤亜紀『黄金列車』(KADOKAWA)を読む」(2020年2月20日)に行ってきました。
『黄金列車』は、第二次大戦末期にハンガリーの東の前線から西の前線まで、ユダヤ人の没収財産を積んだ列車が移動する間の、そこに乗り込んだ役人たちの話で、主な視点人物であるバログの回想と現在時点とが混じり合いながら進んでいきます。
阿部賢一さんは、『黄金列車』の中には生きたユダヤ人は一人も登場しないが、没収財産として物があって、その物を通して不在のユダヤ人の存在感を描く、そしてまた列車というものはご存知の通りホロコーストに深く関わっているものでもあって、それを列車を通して描くという手法に注目していました。
阿部さんの話は、こう言うと偉そうに聞こえるかもしれませんが、私も同じような感じのことが気になっていたので、わりと人文(文学?)系の定型的な発想なのかもしれません。
で、『黄金列車』の中では、没収財産を通して過去の回想へとつながってゆくのですが、その中で特に、結婚指輪の部分が印象的でした。
指輪、今『空気人形』で論文書いてるんですが、そのなかでたまたまヒロインの空気人形の「のぞみ」が自分でおもちゃ屋さんで指輪を買ってずっとつけていて、それがラストで小学生くらいの女の子の手に渡ったり、『それから』のなかに指輪が出てきたりとか、ちょっと気になっています。
それはたぶん単純に指輪(結婚指輪だけでなく)というのが重要なアイテムだということなのだと思うのですが、ちょっと気をつけて読んでみてもいいかな、と。
そういうわけで、『黄金列車』の結婚指輪の話を。それから『スウィングしなけりゃ意味がない』にも出てきたので少し(そういえば『鏡の影』にも結婚指輪ではないけれど指輪が出てきました)。
列車に積み込むために没収財産をチェックする場面です。
税関吏は箱の蓋をずらして中を見せる。金の輪がぎっしり詰まっている。結婚指輪だ。「査定済みです」
バログも気分が悪くなる。別に初めてではない。次長も参事官殿も机に座って指示をするだけだったが、バログは何回も目にしている。それでも気分が悪い。仕事に取り掛かろう、と言う。
(中略)
マルギットは自慢顔で手を翳して見せる。控えめで品のいい指輪が嵌まっている。趣味がいいでしょう、と言う。
あの人坊ちゃんだから、下品なものなんて選ばないの。
(中略)
ヴァイスラ―が買ってきた菓子を食べる前に、カタリンは皿を下げる。バログはそっと立って、皿を洗い始めたカタリンの脇に立つ。ポケットから小さな箱を出して、開いて、目の前に差し出す。彼女の手が止まる。
何でこんなところで、と中の指輪に目を遣ったまま、カタリンは言う。
あの指輪を見た後じゃ出せないよ。
そんなこと気にする?
するさ。
カタリンは水道の水で手を洗う。布巾で手を拭う。指輪の箱を取る。
でも高いでしょ。
私にはね、とバログは答える――ヴァイスラ―ほどの贅沢はさせられない。平の事務員だ。
そんなのどうでもいい。
皿を洗い、コーヒーを沸かして、二人は食卓に戻る。カタリンは指輪を嵌めた手をマルギットたちに見せる。マルギットは歓声を上げてカタリンに抱き付く。パイプをふかし始めていたヴァイスラ―はバログに微笑み掛ける。あの鷹揚な、気持ちのいい笑顔。(佐藤亜紀『黄金列車』KADOKAWA、2019年。40~42頁)
一つ目の(中略)から後が、過去の回想です。引用では(中略)を挟みましたが、本文中ではごくなだらかに、現在の物語から繋がっています。ヴァイスラ―というのがバログのユダヤ系(半分ユダヤ人)の友人で、お金持ちのお坊ちゃん、物語の現在時点ではすでに自殺して死んでいます。カタリンはバログの妻で、現在時点の少し前に、屋根裏の明り取りから転落して死んでいる(のをバログは自殺ではなく事故だと思いこもうとしている)。マルギットはカタリンの友人で、ヴァイスラ―の妻、現在時点ではすでに「事故」(ドイツ人に惨殺された)で亡くなっています。そしてヴァイスラ―とマルギットの二人の子供たちも行方不明。
バログが、没収財産の結婚指輪を見て、自分と友人のヴァイスラ―がそれぞれの相手に、結婚指輪を渡した日を思い出すという流れになっています。指輪は指に嵌めるものなので、それを嵌めていた人の存在をすごく感じさせますし、でも結婚指輪がそこに没収財産としてあるということで、その持ち主はすでに死んで(殺されて)いるのだろうということを同時に感じさせる。結婚指輪なので、すごく個人的なものであったはずだけど、没収されて、「査定」されて、個人的な価値を剥奪されて、単なる金の塊としてそこに収められている。
ヴァイスラ―がマルギットに贈った結婚指輪がどうなったのかは書かれていません。マルギットともに棺の中におさめられたのだろうと思いますし、黄金列車に積み込まれた没収財産は、芸術品としての価値があるようなものではなかったらしいので、ヴァイスラ―がマルギットに贈ったような品のいい指輪は混じっていなかったでしょう(価値のあるものはすべて国外に出ている、という記述もありました)。
二次大戦中のハンブルクのスウィングボーイズを描いた『スウィングしなけりゃ意味がない』のなかでは、結婚指輪は個人を特定するものとして機能しています。語り手エディのスウィング仲間で、父親の従業員の息子であるクーの母親(つまり父親の従業員)が空襲で亡くなります。
真っ黒に焦げた指の、真っ黒になった指輪に気が付く。医師が触るだけで、指はぽろっと落ちて指輪だけが残る。ぼろ切れで拭いてぼくによこす。見覚えはあるかね。
「ゲルトナー夫人です。従業員です」
(中略)
回収車が来た時、ぼくはゲルトナー夫人の遺体だけを置いていくように頼む。もしかすると右手は違うかもしれないが、それはもうどうしようもない。病院と遺体安置所回りの合間に顔を出したクーに指輪を渡す。クーは泣き出す。(佐藤亜紀『スウィングしなけりゃ意味がない』KADOKAWA、2017年。266頁)
「ゲルトナー夫人」というのがクーの母親です。これはたぶん、佐藤さん自身も参考文献にあげているイエルク・フリードリヒ『ドイツを焼いた戦略爆撃 1940-1945』(香月恵里訳、みすず書房、2011年)にも書かれていたエピソード(だったと思う)ですが、空襲でだれだかわからないくらいに焼けてしまった遺体に、結婚指輪があったことで辛うじて、誰だったのか判断している、それくらい結婚指輪が個人的なものとして機能しているのです。
『黄金列車』は、第二次大戦末期にハンガリーの東の前線から西の前線まで、ユダヤ人の没収財産を積んだ列車が移動する間の、そこに乗り込んだ役人たちの話で、主な視点人物であるバログの回想と現在時点とが混じり合いながら進んでいきます。
阿部賢一さんは、『黄金列車』の中には生きたユダヤ人は一人も登場しないが、没収財産として物があって、その物を通して不在のユダヤ人の存在感を描く、そしてまた列車というものはご存知の通りホロコーストに深く関わっているものでもあって、それを列車を通して描くという手法に注目していました。
阿部さんの話は、こう言うと偉そうに聞こえるかもしれませんが、私も同じような感じのことが気になっていたので、わりと人文(文学?)系の定型的な発想なのかもしれません。
で、『黄金列車』の中では、没収財産を通して過去の回想へとつながってゆくのですが、その中で特に、結婚指輪の部分が印象的でした。
指輪、今『空気人形』で論文書いてるんですが、そのなかでたまたまヒロインの空気人形の「のぞみ」が自分でおもちゃ屋さんで指輪を買ってずっとつけていて、それがラストで小学生くらいの女の子の手に渡ったり、『それから』のなかに指輪が出てきたりとか、ちょっと気になっています。
それはたぶん単純に指輪(結婚指輪だけでなく)というのが重要なアイテムだということなのだと思うのですが、ちょっと気をつけて読んでみてもいいかな、と。
そういうわけで、『黄金列車』の結婚指輪の話を。それから『スウィングしなけりゃ意味がない』にも出てきたので少し(そういえば『鏡の影』にも結婚指輪ではないけれど指輪が出てきました)。
列車に積み込むために没収財産をチェックする場面です。
税関吏は箱の蓋をずらして中を見せる。金の輪がぎっしり詰まっている。結婚指輪だ。「査定済みです」
バログも気分が悪くなる。別に初めてではない。次長も参事官殿も机に座って指示をするだけだったが、バログは何回も目にしている。それでも気分が悪い。仕事に取り掛かろう、と言う。
(中略)
マルギットは自慢顔で手を翳して見せる。控えめで品のいい指輪が嵌まっている。趣味がいいでしょう、と言う。
あの人坊ちゃんだから、下品なものなんて選ばないの。
(中略)
ヴァイスラ―が買ってきた菓子を食べる前に、カタリンは皿を下げる。バログはそっと立って、皿を洗い始めたカタリンの脇に立つ。ポケットから小さな箱を出して、開いて、目の前に差し出す。彼女の手が止まる。
何でこんなところで、と中の指輪に目を遣ったまま、カタリンは言う。
あの指輪を見た後じゃ出せないよ。
そんなこと気にする?
するさ。
カタリンは水道の水で手を洗う。布巾で手を拭う。指輪の箱を取る。
でも高いでしょ。
私にはね、とバログは答える――ヴァイスラ―ほどの贅沢はさせられない。平の事務員だ。
そんなのどうでもいい。
皿を洗い、コーヒーを沸かして、二人は食卓に戻る。カタリンは指輪を嵌めた手をマルギットたちに見せる。マルギットは歓声を上げてカタリンに抱き付く。パイプをふかし始めていたヴァイスラ―はバログに微笑み掛ける。あの鷹揚な、気持ちのいい笑顔。(佐藤亜紀『黄金列車』KADOKAWA、2019年。40~42頁)
一つ目の(中略)から後が、過去の回想です。引用では(中略)を挟みましたが、本文中ではごくなだらかに、現在の物語から繋がっています。ヴァイスラ―というのがバログのユダヤ系(半分ユダヤ人)の友人で、お金持ちのお坊ちゃん、物語の現在時点ではすでに自殺して死んでいます。カタリンはバログの妻で、現在時点の少し前に、屋根裏の明り取りから転落して死んでいる(のをバログは自殺ではなく事故だと思いこもうとしている)。マルギットはカタリンの友人で、ヴァイスラ―の妻、現在時点ではすでに「事故」(ドイツ人に惨殺された)で亡くなっています。そしてヴァイスラ―とマルギットの二人の子供たちも行方不明。
バログが、没収財産の結婚指輪を見て、自分と友人のヴァイスラ―がそれぞれの相手に、結婚指輪を渡した日を思い出すという流れになっています。指輪は指に嵌めるものなので、それを嵌めていた人の存在をすごく感じさせますし、でも結婚指輪がそこに没収財産としてあるということで、その持ち主はすでに死んで(殺されて)いるのだろうということを同時に感じさせる。結婚指輪なので、すごく個人的なものであったはずだけど、没収されて、「査定」されて、個人的な価値を剥奪されて、単なる金の塊としてそこに収められている。
ヴァイスラ―がマルギットに贈った結婚指輪がどうなったのかは書かれていません。マルギットともに棺の中におさめられたのだろうと思いますし、黄金列車に積み込まれた没収財産は、芸術品としての価値があるようなものではなかったらしいので、ヴァイスラ―がマルギットに贈ったような品のいい指輪は混じっていなかったでしょう(価値のあるものはすべて国外に出ている、という記述もありました)。
二次大戦中のハンブルクのスウィングボーイズを描いた『スウィングしなけりゃ意味がない』のなかでは、結婚指輪は個人を特定するものとして機能しています。語り手エディのスウィング仲間で、父親の従業員の息子であるクーの母親(つまり父親の従業員)が空襲で亡くなります。
真っ黒に焦げた指の、真っ黒になった指輪に気が付く。医師が触るだけで、指はぽろっと落ちて指輪だけが残る。ぼろ切れで拭いてぼくによこす。見覚えはあるかね。
「ゲルトナー夫人です。従業員です」
(中略)
回収車が来た時、ぼくはゲルトナー夫人の遺体だけを置いていくように頼む。もしかすると右手は違うかもしれないが、それはもうどうしようもない。病院と遺体安置所回りの合間に顔を出したクーに指輪を渡す。クーは泣き出す。(佐藤亜紀『スウィングしなけりゃ意味がない』KADOKAWA、2017年。266頁)
「ゲルトナー夫人」というのがクーの母親です。これはたぶん、佐藤さん自身も参考文献にあげているイエルク・フリードリヒ『ドイツを焼いた戦略爆撃 1940-1945』(香月恵里訳、みすず書房、2011年)にも書かれていたエピソード(だったと思う)ですが、空襲でだれだかわからないくらいに焼けてしまった遺体に、結婚指輪があったことで辛うじて、誰だったのか判断している、それくらい結婚指輪が個人的なものとして機能しているのです。