昨日(というか今日?)は疲れて朝までこたつで寝てしまった。電池が切れたみたい。背中痛いです。
ドッグトレーナーさんと話すの、思った以上にエネルギーを使ったようです。
フィギュアスケート男子シングルの表彰台とか見て、和気藹々としてたから癒されてます。パトリック・チャンがすっかり落ち着いて、いいお兄さんに見えた。カザフとスペインはメダル初めてなんじゃないの。日本はとりあえず3枠確保できたし、ずっと出ずっぱりでお疲れだったと思います。
ゲデちゃんのSP動画はまだ見る勇気が出ません。
今はやっぱり、犬と自分の将来(研究)のことを一番に考えて生活すべきなんだろうな。
そのために、できるだけ負担にならなくて、効率のよいお仕事を探さないといけない。そんなお仕事ないと思ってたけど、探し方が悪かったのかも。ハローワークとかで探したって、そりゃあ無理だよ…、っていう。
今日はしばらくアップしないでほうっておいた、人形論の3つ目のネタです。→人形論について―その2
現代小説を対象にした部分。たぶん、これまでも江戸川乱歩とか川端康成とか(「とか」で結ぶのは若干変ですが)、澁澤的人形愛の方向で論じたものはたくさんあったと思うのですが、私がテーマとしたいのは、人形表象による内面表現。ここで取り上げるのが、笙野頼子の「極楽」『硝子生命論』『水晶内制度』です。たぶん、『おんたこ』三部作も考察に入れないといけないことになると思いますが、まだ準備できてない。
【目的】
絵画/彫刻/人形の対立を踏まえながら笙野頼子「極楽」『硝子生命論』『水晶内制度』を考察することで、笙野が人形によって可能にした内面描写、文体のありようを明らかにする。それによって、従来の「内面」観では捉えきれない内面を模索する。
【対象とする作品について】
『硝子生命論』および、『硝子生命論』をプレテクストとして持つ『水晶内制度』においては、人形が重要な役割を果たす。『硝子生命論』は失踪した人形作家をめぐる書物であり、『水晶内制度』では仮想国家の起源神話において人形が重要な役割を果たす。『硝子生命論』『水晶内制度』ともにフィクションの構造やセクシャリティ、神話解釈やフェミニズムの観点など様々な読解が試みられるが、人形論の上に、作品の読解を位置づけた論考はいまだない。
【人形と内面】
人形、殊に女性によって制作される球体関節人形は、「内面」を表現する媒体として現在特異な発展を遂げている。球体関節人形とは、関節部分に球形のジョイントがはまり、動かすことのできる人形を指す。近代リアリズム文学における「内面」は専ら絵画的遠近法との類似から語られており、一方で人形は内面のないものの象徴であった。それゆえ人形による内面表現は、従来の内面観では捉え切れないインパクトを持つ。笙野もまた、従来の「内面」観によって近代以前や現在「内面」がないことにされてしまうことに反発し、それとは異なる内面や自己、「私」を描く(1)。遡ればデビュー作「極楽」(1981年)も、近代以前の絵画ジャンルである「地獄絵」をモチーフとしていた。その点で、笙野の作品群における内面や自己像は、現在流行の球体関節人形と通底しよう(2)。「いまだと乙女系やゴス系の人たちはハマるかもしれない」(3)とあるように、人形文化と関係の深い「ゴス」(4)との親縁性も指摘される。
→
そこで、現実の人形文化にも留意しつつ絵画/彫刻/人形表象の変遷を抑えることによって、「極楽」『硝子生命論』『水晶内制度』における人形表象の戦略を明らかにしたい。それによって、「内面」性の否定される現代社会における、あたらしい内面観を探求することができるだろう。
注記:(1)『だいにっほん、ろんちくおげれつ記』講談社、2007年、『だいにっほん、ろりりべしんでけ録』講談社、2008年等。
(2)例えば、球体関節の手法によるポートレイトドールによって注目される人形作家、井桁裕子は「私小説」をテーマとした展覧会を開催しており(「井桁裕子作品展 私小説―肖像の人形」ギャラリー「ときの忘れもの」第一八五回企画展、2010年3月23日~4月3日)、笙野が「私小説」にこだわりながらマジックリアリズム的な作品を発表し続けたことを髣髴させる。
(3)小谷真理、佐藤亜紀「対談による全著作レヴュー」(『文藝』2007年冬号)中の佐藤の発言。
(4)斉藤環「人形愛と女性の謎」(『yaso夜想 特集ドール』2004年10月)、西村則昭「「ゴシック」な世界観と「乙女」のアイデンティティ」(『仁愛大学紀要』2005年3月)等。『夜想』復刊第一号(2003年12月)が採用した用語「ゴス」を使用する。
ドッグトレーナーさんと話すの、思った以上にエネルギーを使ったようです。
フィギュアスケート男子シングルの表彰台とか見て、和気藹々としてたから癒されてます。パトリック・チャンがすっかり落ち着いて、いいお兄さんに見えた。カザフとスペインはメダル初めてなんじゃないの。日本はとりあえず3枠確保できたし、ずっと出ずっぱりでお疲れだったと思います。
ゲデちゃんのSP動画はまだ見る勇気が出ません。
今はやっぱり、犬と自分の将来(研究)のことを一番に考えて生活すべきなんだろうな。
そのために、できるだけ負担にならなくて、効率のよいお仕事を探さないといけない。そんなお仕事ないと思ってたけど、探し方が悪かったのかも。ハローワークとかで探したって、そりゃあ無理だよ…、っていう。
今日はしばらくアップしないでほうっておいた、人形論の3つ目のネタです。→人形論について―その2
現代小説を対象にした部分。たぶん、これまでも江戸川乱歩とか川端康成とか(「とか」で結ぶのは若干変ですが)、澁澤的人形愛の方向で論じたものはたくさんあったと思うのですが、私がテーマとしたいのは、人形表象による内面表現。ここで取り上げるのが、笙野頼子の「極楽」『硝子生命論』『水晶内制度』です。たぶん、『おんたこ』三部作も考察に入れないといけないことになると思いますが、まだ準備できてない。
【目的】
絵画/彫刻/人形の対立を踏まえながら笙野頼子「極楽」『硝子生命論』『水晶内制度』を考察することで、笙野が人形によって可能にした内面描写、文体のありようを明らかにする。それによって、従来の「内面」観では捉えきれない内面を模索する。
【対象とする作品について】
『硝子生命論』および、『硝子生命論』をプレテクストとして持つ『水晶内制度』においては、人形が重要な役割を果たす。『硝子生命論』は失踪した人形作家をめぐる書物であり、『水晶内制度』では仮想国家の起源神話において人形が重要な役割を果たす。『硝子生命論』『水晶内制度』ともにフィクションの構造やセクシャリティ、神話解釈やフェミニズムの観点など様々な読解が試みられるが、人形論の上に、作品の読解を位置づけた論考はいまだない。
【人形と内面】
人形、殊に女性によって制作される球体関節人形は、「内面」を表現する媒体として現在特異な発展を遂げている。球体関節人形とは、関節部分に球形のジョイントがはまり、動かすことのできる人形を指す。近代リアリズム文学における「内面」は専ら絵画的遠近法との類似から語られており、一方で人形は内面のないものの象徴であった。それゆえ人形による内面表現は、従来の内面観では捉え切れないインパクトを持つ。笙野もまた、従来の「内面」観によって近代以前や現在「内面」がないことにされてしまうことに反発し、それとは異なる内面や自己、「私」を描く(1)。遡ればデビュー作「極楽」(1981年)も、近代以前の絵画ジャンルである「地獄絵」をモチーフとしていた。その点で、笙野の作品群における内面や自己像は、現在流行の球体関節人形と通底しよう(2)。「いまだと乙女系やゴス系の人たちはハマるかもしれない」(3)とあるように、人形文化と関係の深い「ゴス」(4)との親縁性も指摘される。
→
そこで、現実の人形文化にも留意しつつ絵画/彫刻/人形表象の変遷を抑えることによって、「極楽」『硝子生命論』『水晶内制度』における人形表象の戦略を明らかにしたい。それによって、「内面」性の否定される現代社会における、あたらしい内面観を探求することができるだろう。
注記:(1)『だいにっほん、ろんちくおげれつ記』講談社、2007年、『だいにっほん、ろりりべしんでけ録』講談社、2008年等。
(2)例えば、球体関節の手法によるポートレイトドールによって注目される人形作家、井桁裕子は「私小説」をテーマとした展覧会を開催しており(「井桁裕子作品展 私小説―肖像の人形」ギャラリー「ときの忘れもの」第一八五回企画展、2010年3月23日~4月3日)、笙野が「私小説」にこだわりながらマジックリアリズム的な作品を発表し続けたことを髣髴させる。
(3)小谷真理、佐藤亜紀「対談による全著作レヴュー」(『文藝』2007年冬号)中の佐藤の発言。
(4)斉藤環「人形愛と女性の謎」(『yaso夜想 特集ドール』2004年10月)、西村則昭「「ゴシック」な世界観と「乙女」のアイデンティティ」(『仁愛大学紀要』2005年3月)等。『夜想』復刊第一号(2003年12月)が採用した用語「ゴス」を使用する。