こんにちは。
少し前ですが、10月22日に「黄金町バザール2017」のアーティストトーク「ラブドールはクラーナハの夢を見るか」に行ってきたので、メモをアップします。
黄金町バザールは、黄金町から日の出町までの高架下スペースを利用したアートイベントです。菅実花さんは芸大の博士課程の院生さんで、ラブドールのお腹を膨らませて妊娠したようにして撮った修士修了制作である写真作品で話題になりました。今回は、以前の作品よりも小ぶりな、クラーナハの三女神をイメージした3枚組の作品と、小さな写真作品、メイキング映像を出展されています。
今回のは以前の作品よりも小さかったためか、インパクトはそれほど強くない代わりに、優しい印象でした。
台風の日で、小さな会場だったので、すごく至近距離で菅実花さんのお話を聞くことができました(ほんとにお人形さんみたいなお顔だなあ、と思いました)。しかもどういうわけかトークイベントが始まる前と終わった後、高架下を歩いていたら菅実花さんとすれ違うという…。私、彼女のイベントに参加するのは今回で三回目だし、ものすごく熱烈なファンだとか思われて気持ち悪いとか思われてないかな、とかあらぬ心配をしてしまいました💦
対談は、菅実花さんと、美術解剖学者の布施英利さんによるもの。
実は付き合いはそんなに長くない、とのことでしたが、とても息の合ったトークでした。いつも思うけど、菅実花さんは作品のインパクトもあるけれどとてもクリティカル。芸術家ってちょっとうっかり口を滑らせてしまったり、あるいは敢えて炎上狙いな発言をすることも多いけれど、彼女はいつもとても慎重にお話しされるなあ、と思います。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
■ラブドールを使った作品を作るまでの経緯
□学部生の頃の作品
(菅)学部の時は日本画科だった。
パフェの絵を描いていて、女性はあまり描かなかった。
日本文化はもともと外来のものが日本で発展して、それが海外から(再)発見される、ということを繰り返していて、その過程が面白いと思っていた。
もう一つは、女性の美というものに対して興味があって、化粧品の広告のコラージュ作品も作っていた。
化粧品の広告はどれも同じくらいの大きさで、モデルさんの顔もかなり似ているため、短冊形に切って組み合わせてもちゃんと顔になる。ぜんぶ同じ顔になってしまう。というので、そういう作品を作っていた。
(布施)広告のコラージュ作品…アンディ・ウォーホルとか、資生堂の広告なんかもその流れ。
□ラブドールとの出会い
(菅)ラブドールは、自分が持っているのは一体60万円だったけれど、今は少し値上がりして67万円くらいになっている。
芸大の寮で彫刻科の人から、オリエント工業の展覧会に行くことを勧められる。あなたに似てる人形があるよ、と。
(布施)自画像的な要素も?
(菅)あると思います。
その時はなかなかそれを作品に、と考えることはなかったけれど、2014年にドイツに留学したんですが、向こうの妊婦さんは体のラインを隠すことなくすごくぴったりしたものを着ていることがあって、電車の中でぴったりした服を着た(すごくスタイルのいい)妊婦さんを見て、初めて妊婦さんの体形をきちんと見た。
その前に2013年に結婚したが、子どもはどうするの?、子どもは作るの?、といろんな人に訊かれた。
またドイツでの留学中、言葉もよく分からないし、あまりうまく自己主張ができない、で、褒めているのか批判しているのかよく分からないが、あなたお人形さんみたいね、とよく言われた。
そこで、自分の代わりに妊娠するラブドールがあったらどうだろう、という着想が生まれた。
□妊娠するラブドールを撮る必然性
(菅)(学部時代に作っていた)パフェも化粧品も自分から遠いもので、自分が作る必然性はどこにあるのかなと思っていた。
ラブドールは自分に似ていて、自分に近い。身長も自分と同じくらいで、実は服をシェアしたりできる(撮影用の衣装に買ったものを、もったいないので自分でも着る)くらい。
ラブドールを撮った作品としては、実はすでにあって、ローリー・シモンズや杉本博司の作品があるが、他者としてラブドールを撮っている。ローリー・シモンズは女性だけど、日本人の女の子がホームステイに来たような感覚で撮っていると言っていたので。
自分であれば、分身か友達かといった、近い感覚で撮ることができると思った。
■生命のないものに生命を宿す
□篠山紀信のラブドールの写真について
(菅)技術的にはすごい。人形を自然に撮るのは非常に難しいことだが、(ポージングをスタッフさんにやってもらったにしても)それができてしまうというのはすごいこと。
(布施)篠山紀信の場合は、「なかみのない人間を撮る」感じだが、菅実花の場合は生命がある。
(菅)それはかなり意識して選んでいる。300枚を超える中から1枚を選ぶのだが、空っぽじゃないもの、何か考えているように見える、自信がありそうに見える写真を選んでいる。
□美術史
(布施)菅実花の作品は、ベースに美術史的な素養がある(ルノアールとか、今回も三女神をモチーフとしたり)。
(菅)三女神はいろんな人が描いているが、今回クラーナハの三女神にしたのは、クラーナハの絵は、たぶん北方の女性の体形なのだと思うが、下腹が少しぽこっと出ている。
あと、技術的な理由として、人形は可動域が狭い。肩を上げるポーズが取れないとか、腰が曲がらないなど。その狭い可動域で撮れるポージングで可能なものとして、クラーナハの三女神を選んだ。
(布施)美術史の中で妊婦が出てくることは少ない。古代の地母神(を妊婦としたとして)から、クリムトくらいまで下る。
先史時代のヴィーナス像が何だったのかということについては、実はよく分かっていない。ただの太っている女性なのか、妊婦なのか。最近は授乳している母親の像とも考えている。お乳が大きい、ということは、食べるものがたくさんあるということ。
(菅)出産するときに握りしめていたという説も見た。
(布施)古代の像は男性がない。動物かヴィーナス像みたいなものだけ。
□生と死
(菅)学部生の時に東大でネアンデルタール人の骨(2歳のネアンデルタール人の子どものもの)をクリーニングするアルバイトをしていたが、ネアンデルタール人は骨格上今の私たちのような発声はできなかったということが分かっている。でも歌でコミュニケーションをとっていた。ネアンデルタール人を人間と考えていいのかと、考えていた。
(布施)埋葬するようになると(花を一緒に埋めると、花粉が残る)死という観念があることが分かる。生と死という、生命の観念がある。
ラブドールに命を宿らせるという菅さんの仕事は、生命のないものに生命を宿すという美術そのもの。
(菅)ラブドールは、何かで要らなくなって業者さんの元に戻ってきたら、人形供養に出す。だから、(買った人も、作った側も)生命のあるものとして扱っている。ラブドールを生命のあるものとして扱うのは、そんなに変なことではない。
■今後の展開
(菅)(遊びで)ラブドールとセルフィ―を撮っている。撮影が終わった後に、「お疲れー」みたいな感じで。一緒にプリクラをとりたいが、なかなか持っていくのが大変でできない。
■前作と今回の作品について
(菅)今回の作品は、会場の関係から以前作った修士修了作品(→慶應で展示があったときの情報)が入らないため、もう少し小ぶりの作品を作る必要があった。
以前の作品は、女神的な部分と同時に、すごく大きい作品にしたので、モンスター的なところもあった。
今回は、もう少し小ぶりであるということ、また黄金町バザールの趣旨(旧赤線地帯をアートで町おこし)を考えたときに、三女神というのは、愛欲と貞節を美がとりもつ、というもの。そういうつもりでアートをやっていますよ、という理由づけ。
マタニティヌードなんだけど、三つ並べると三女神に見えるような作品にしたかった。
慶應の時に、マネの「草上の食卓」みたいだねと言われた。それでマネのオランピア(娼婦を描いたというので批判された)をイメージした作品を、娼婦的な要素のあるラブドールで、撮ったものも(ル・コルビュジェの椅子に乗せて…大学にあったらしい)。
自分が花を持ってみたり、いろいろ(もとの絵画みたいになるようなことを)やってみたが、それをやると森村泰昌になってしまうなあと思って、自分がやることではないと思ってやめた。
ラブドール自体を否定しない作品にする、ということは意識してやっているつもり。
(布施)背景が黒であったり、余白が多いが、日本画が余白が多いことと関係はあるか?
(菅)受験時代にさんざんやった石膏デッサンの文法に似ていると思ってやっている(レタッチなど)。
(布施)シリコンは不思議な触感だが、触覚的な世界は、作品に反映しているのか。
(菅)あまり触覚的なものは反映していないと思う。
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(感想)
ラブドール(の妊娠)を、(対象ではなく)自分自身の分身として撮るということ、にもかかわらず、女性性や生殖を、傷や痛みとして表現するのではなく、美しいもの、よいもの、自信がある感じで、肯定的に撮っているということがやっぱり特異だなあ、と思います。
人形を自分自身の分身として作品を作る女性の方って、女性性に対する拒絶や、自分自身の身体の傷や痛みを表現する、という場合が多いと思うのですが(そしてそれは「死」への欲望と結びつくことも多い)。そうではなくて、妊娠を肯定的にとらえている感じなんですよね。
一方で、妊娠を肯定的に、美しいもの、良いものとする場合って、多くは妊娠を自然なものとして、生身の身体で表現することが多い。それを人工物であるラブドールで表現したところが、他にないんだろうと思います。
余談ですが、クラーナハをモチーフにしたということだったのでちょっと気になったので、クラーナハの絵って胸が小さいですよね、でもラブドールって胸大きいですよね、というのを質問してみたんですよね(人形の胸は気になっているポイントでもあるので)。そうしたら、画像を加工するときに、ちょっと胸を小さくしたとのこと(クラーナハっぽくない、と思って)。私トークが始まる前に、ささっとだけ作品見てたんですが、え、大きかったよね?、と思ってもう一度作品見直しに行きました。やっぱり、大きかったです。それでもちょっと小さくしてたのね…。
少し前ですが、10月22日に「黄金町バザール2017」のアーティストトーク「ラブドールはクラーナハの夢を見るか」に行ってきたので、メモをアップします。
黄金町バザールは、黄金町から日の出町までの高架下スペースを利用したアートイベントです。菅実花さんは芸大の博士課程の院生さんで、ラブドールのお腹を膨らませて妊娠したようにして撮った修士修了制作である写真作品で話題になりました。今回は、以前の作品よりも小ぶりな、クラーナハの三女神をイメージした3枚組の作品と、小さな写真作品、メイキング映像を出展されています。
今回のは以前の作品よりも小さかったためか、インパクトはそれほど強くない代わりに、優しい印象でした。
台風の日で、小さな会場だったので、すごく至近距離で菅実花さんのお話を聞くことができました(ほんとにお人形さんみたいなお顔だなあ、と思いました)。しかもどういうわけかトークイベントが始まる前と終わった後、高架下を歩いていたら菅実花さんとすれ違うという…。私、彼女のイベントに参加するのは今回で三回目だし、ものすごく熱烈なファンだとか思われて気持ち悪いとか思われてないかな、とかあらぬ心配をしてしまいました💦
対談は、菅実花さんと、美術解剖学者の布施英利さんによるもの。
実は付き合いはそんなに長くない、とのことでしたが、とても息の合ったトークでした。いつも思うけど、菅実花さんは作品のインパクトもあるけれどとてもクリティカル。芸術家ってちょっとうっかり口を滑らせてしまったり、あるいは敢えて炎上狙いな発言をすることも多いけれど、彼女はいつもとても慎重にお話しされるなあ、と思います。
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■ラブドールを使った作品を作るまでの経緯
□学部生の頃の作品
(菅)学部の時は日本画科だった。
パフェの絵を描いていて、女性はあまり描かなかった。
日本文化はもともと外来のものが日本で発展して、それが海外から(再)発見される、ということを繰り返していて、その過程が面白いと思っていた。
もう一つは、女性の美というものに対して興味があって、化粧品の広告のコラージュ作品も作っていた。
化粧品の広告はどれも同じくらいの大きさで、モデルさんの顔もかなり似ているため、短冊形に切って組み合わせてもちゃんと顔になる。ぜんぶ同じ顔になってしまう。というので、そういう作品を作っていた。
(布施)広告のコラージュ作品…アンディ・ウォーホルとか、資生堂の広告なんかもその流れ。
□ラブドールとの出会い
(菅)ラブドールは、自分が持っているのは一体60万円だったけれど、今は少し値上がりして67万円くらいになっている。
芸大の寮で彫刻科の人から、オリエント工業の展覧会に行くことを勧められる。あなたに似てる人形があるよ、と。
(布施)自画像的な要素も?
(菅)あると思います。
その時はなかなかそれを作品に、と考えることはなかったけれど、2014年にドイツに留学したんですが、向こうの妊婦さんは体のラインを隠すことなくすごくぴったりしたものを着ていることがあって、電車の中でぴったりした服を着た(すごくスタイルのいい)妊婦さんを見て、初めて妊婦さんの体形をきちんと見た。
その前に2013年に結婚したが、子どもはどうするの?、子どもは作るの?、といろんな人に訊かれた。
またドイツでの留学中、言葉もよく分からないし、あまりうまく自己主張ができない、で、褒めているのか批判しているのかよく分からないが、あなたお人形さんみたいね、とよく言われた。
そこで、自分の代わりに妊娠するラブドールがあったらどうだろう、という着想が生まれた。
□妊娠するラブドールを撮る必然性
(菅)(学部時代に作っていた)パフェも化粧品も自分から遠いもので、自分が作る必然性はどこにあるのかなと思っていた。
ラブドールは自分に似ていて、自分に近い。身長も自分と同じくらいで、実は服をシェアしたりできる(撮影用の衣装に買ったものを、もったいないので自分でも着る)くらい。
ラブドールを撮った作品としては、実はすでにあって、ローリー・シモンズや杉本博司の作品があるが、他者としてラブドールを撮っている。ローリー・シモンズは女性だけど、日本人の女の子がホームステイに来たような感覚で撮っていると言っていたので。
自分であれば、分身か友達かといった、近い感覚で撮ることができると思った。
■生命のないものに生命を宿す
□篠山紀信のラブドールの写真について
(菅)技術的にはすごい。人形を自然に撮るのは非常に難しいことだが、(ポージングをスタッフさんにやってもらったにしても)それができてしまうというのはすごいこと。
(布施)篠山紀信の場合は、「なかみのない人間を撮る」感じだが、菅実花の場合は生命がある。
(菅)それはかなり意識して選んでいる。300枚を超える中から1枚を選ぶのだが、空っぽじゃないもの、何か考えているように見える、自信がありそうに見える写真を選んでいる。
□美術史
(布施)菅実花の作品は、ベースに美術史的な素養がある(ルノアールとか、今回も三女神をモチーフとしたり)。
(菅)三女神はいろんな人が描いているが、今回クラーナハの三女神にしたのは、クラーナハの絵は、たぶん北方の女性の体形なのだと思うが、下腹が少しぽこっと出ている。
あと、技術的な理由として、人形は可動域が狭い。肩を上げるポーズが取れないとか、腰が曲がらないなど。その狭い可動域で撮れるポージングで可能なものとして、クラーナハの三女神を選んだ。
(布施)美術史の中で妊婦が出てくることは少ない。古代の地母神(を妊婦としたとして)から、クリムトくらいまで下る。
先史時代のヴィーナス像が何だったのかということについては、実はよく分かっていない。ただの太っている女性なのか、妊婦なのか。最近は授乳している母親の像とも考えている。お乳が大きい、ということは、食べるものがたくさんあるということ。
(菅)出産するときに握りしめていたという説も見た。
(布施)古代の像は男性がない。動物かヴィーナス像みたいなものだけ。
□生と死
(菅)学部生の時に東大でネアンデルタール人の骨(2歳のネアンデルタール人の子どものもの)をクリーニングするアルバイトをしていたが、ネアンデルタール人は骨格上今の私たちのような発声はできなかったということが分かっている。でも歌でコミュニケーションをとっていた。ネアンデルタール人を人間と考えていいのかと、考えていた。
(布施)埋葬するようになると(花を一緒に埋めると、花粉が残る)死という観念があることが分かる。生と死という、生命の観念がある。
ラブドールに命を宿らせるという菅さんの仕事は、生命のないものに生命を宿すという美術そのもの。
(菅)ラブドールは、何かで要らなくなって業者さんの元に戻ってきたら、人形供養に出す。だから、(買った人も、作った側も)生命のあるものとして扱っている。ラブドールを生命のあるものとして扱うのは、そんなに変なことではない。
■今後の展開
(菅)(遊びで)ラブドールとセルフィ―を撮っている。撮影が終わった後に、「お疲れー」みたいな感じで。一緒にプリクラをとりたいが、なかなか持っていくのが大変でできない。
■前作と今回の作品について
(菅)今回の作品は、会場の関係から以前作った修士修了作品(→慶應で展示があったときの情報)が入らないため、もう少し小ぶりの作品を作る必要があった。
以前の作品は、女神的な部分と同時に、すごく大きい作品にしたので、モンスター的なところもあった。
今回は、もう少し小ぶりであるということ、また黄金町バザールの趣旨(旧赤線地帯をアートで町おこし)を考えたときに、三女神というのは、愛欲と貞節を美がとりもつ、というもの。そういうつもりでアートをやっていますよ、という理由づけ。
マタニティヌードなんだけど、三つ並べると三女神に見えるような作品にしたかった。
慶應の時に、マネの「草上の食卓」みたいだねと言われた。それでマネのオランピア(娼婦を描いたというので批判された)をイメージした作品を、娼婦的な要素のあるラブドールで、撮ったものも(ル・コルビュジェの椅子に乗せて…大学にあったらしい)。
自分が花を持ってみたり、いろいろ(もとの絵画みたいになるようなことを)やってみたが、それをやると森村泰昌になってしまうなあと思って、自分がやることではないと思ってやめた。
ラブドール自体を否定しない作品にする、ということは意識してやっているつもり。
(布施)背景が黒であったり、余白が多いが、日本画が余白が多いことと関係はあるか?
(菅)受験時代にさんざんやった石膏デッサンの文法に似ていると思ってやっている(レタッチなど)。
(布施)シリコンは不思議な触感だが、触覚的な世界は、作品に反映しているのか。
(菅)あまり触覚的なものは反映していないと思う。
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(感想)
ラブドール(の妊娠)を、(対象ではなく)自分自身の分身として撮るということ、にもかかわらず、女性性や生殖を、傷や痛みとして表現するのではなく、美しいもの、よいもの、自信がある感じで、肯定的に撮っているということがやっぱり特異だなあ、と思います。
人形を自分自身の分身として作品を作る女性の方って、女性性に対する拒絶や、自分自身の身体の傷や痛みを表現する、という場合が多いと思うのですが(そしてそれは「死」への欲望と結びつくことも多い)。そうではなくて、妊娠を肯定的にとらえている感じなんですよね。
一方で、妊娠を肯定的に、美しいもの、良いものとする場合って、多くは妊娠を自然なものとして、生身の身体で表現することが多い。それを人工物であるラブドールで表現したところが、他にないんだろうと思います。
余談ですが、クラーナハをモチーフにしたということだったのでちょっと気になったので、クラーナハの絵って胸が小さいですよね、でもラブドールって胸大きいですよね、というのを質問してみたんですよね(人形の胸は気になっているポイントでもあるので)。そうしたら、画像を加工するときに、ちょっと胸を小さくしたとのこと(クラーナハっぽくない、と思って)。私トークが始まる前に、ささっとだけ作品見てたんですが、え、大きかったよね?、と思ってもう一度作品見直しに行きました。やっぱり、大きかったです。それでもちょっと小さくしてたのね…。