今日は久々に研究関連のネタを。
1年ほど前のことになりますが、長らく入手困難だったグスタフ・マイリンク、今村孝訳『ゴーレム』(以下、『ゴーレム』とする)が白水Uブックスで出版されました(→白水社、書籍詳細)。
『ゴーレム』に関しては、私もブログ記事で触れたことがあります(→空間表象と小説の扉)。
ゴーレムとはユダヤの伝説にある土でできた人様の生き物で、現代の幻想小説では人形や人造人間などとも関連の深い形象です。
『ゴーレム』のなかでもゴーレム伝説は(当然)重要なモチーフなのですが、実はここで登場するゴーレムはあんまりゴーレムっぽくない。ルドルフ二世のゴーレム伝説が引用されもするのですが、『ゴーレム』のなかで実際に主人公が対峙するのは、むしろ分身に近いものです(ほんらいユダヤの伝説におけるゴーレムは、土くれに近いもののようですが)。それゆえにこそ、人形や記憶、内面と結びつくと言える。
なかなかシンプルにあらすじをまとめるのは難しい小説なのですが、語り手である「ぼく」が帽子を間違えられたことによって、その帽子の持ち主の人生を夢に見る、という構造の枠物語です。その夢のなかでは、「アタナージウス・ペルナート」という宝石細工師が、とある書物の修理を頼まれたことから事件に巻き込まれます。
「ぼく」が見る夢のかたちで枠どられる物語において、夢の始まりと終わりを象徴する「脂肪に見えていた石のイメージ」(8頁)、「記憶」を象徴する「小石」を拾い集め、あるいは遠くへと放り投げようとする行為、見られた夢のなかで主人公が「宝石細工師」、すなわち石に文字や記憶を刻み込み、浮かび上がらせる職業であること、間違えられた帽子に刺繍された金色の名前などは、夢や空間を用いて意識の内部と外部が反転する構造を支えます。
ユダヤの伝説から現代の幻想小説や映像文化におけるゴーレムまで概観したものに、
・金森修『ゴーレムの生命論』(平凡社新書、2010年)、
・大場昌子、佐川和茂、坂野明子、伊達雅彦『ゴーレムの表象 ユダヤ文学・アニメ・映像』(南雲堂、2013年)
がありますが、『ゴーレムの生命論』のなかでも、『ゴーレム』は「全体としては興味深い作品」だが、「ゴーレム伝説の〈伝説素〉の豊穣化にとって、濃縮的というよりはむしろ希釈的に働く文献」であるから「二次的な言及」に留める、という扱いになっています。
『ゴーレムの生命論』は、伝説上のゴーレムからロボットや自動人形との関わり、近現代における形象までをたどりながら、現代の生命倫理と結びつけます。
第一部では主にユダヤ教のタルムードや伝説を集めた書物を扱い、古代から近代まで、ドイツロマン派、フランケンシュタインなどの影響による変容をたどります。第一章ではゴーレム伝説を歴史的に概観し基本的な要素、〈言語欠如性〉、「土」という材料、「未定形の〈魂〉」としての「胎児」のイメージ、「護符」などを抽出します。第二章では20世紀初頭に書かれた『ニフラオート・マハラル』という書物を扱い、「不死身の用心棒」ではなく「少し大柄で力が強いだけの普通の男」のようなゴーレム像を指摘します。
第二部では『フランケンシュタイン』、『砂男』、『ロボット』などにおける、怪物や自動人形、ロボットの形象を考察し、ゴーレムと共通する〈人間圏の境界〉〈劣等人間〉という要素に焦点を当てます。
第三部では現代の作品や人工細胞の開発を例にとり、生命倫理とも関連づけます。現代におけるゴーレムの形象を、〈人間圏の境界〉にあることによって、他者をゴーレムとして境界線を引き、あるいは自己をゴーレムとして見るようなドッペルゲンガー的なものとして位置づけ、最終的には「〈命〉に対する問いかけ」に向かわせるものとして結論づけます。
『ゴーレムの形象』は、何人かの著者によって書かれた本で、編著者たちが行ってきた「ユダヤ系作家の読書会」が企画のもとになっているようです。したがってユダヤ系作家の作品が考察の中心になっていますが、アメリカのスーパーヒーローや日本のアニメ、現代のTVドラマなどにおけるゴーレムも扱っています。後半、あまりにも多様なゴーレム像を扱ったために羅列的になっている部分があり、少し残念に感じました。
個人的には、女性形象としてのゴーレム像(大場昌子「ユダヤ系女性作家の伝説書き換え」)や、性欲を持つゴーレム像(金森修「愛するゴーレム」)が気になりました。
ただ、ゴーレムの場合は性欲あるいは愛がないなどの要素を反転してゆく場合も、誰かに対して愛情を抱くようなふつうの恋愛物語になってしまうパターンが多いみたいで、人形の場合とはまた違うなあ…と。
私も『ゴーレム』はかなり好きな小説なのですが、『ゴーレム』あるいはゴーレム伝説がどの程度私の研究テーマである人形とかかわりがあるのかというと、微妙なところです。
性欲も生殖能力もない点は人形にも共通するイメージですが、ゴーレムには圧倒的に男性のイメージがあること、また人形のような性的な客体ではないこと、美的イメージはないことが大きな違いといえます。
ひとつ、(女性や人形を)客体として見ると言った場合に、オブジェ的なもの、機械や物質の側に寄せて把握する場合と、知的な認識(主体)と対照的なものとして自然を見る、という二つのパターンがあると思うのですが、ゴーレムはどちらかと言うと自然の側に振れる形象かもしれません。
* * * * * * *
おまけ:現在里親募集中のわんこ達
空ちゃん→ペットのおうち、いつでも里親さがし
もこちゃん(左)→里親さん見つかりました
うめちゃん(右)→ペットのおうち、いつでも里親さがし
夢ちゃん→6月からいったん募集を終了しています。
さちちゃん(左)→6月からいったん募集を終了しています。
今日は夢ちゃんさちちゃんの抜糸(避妊手術)でした。
夢ちゃんは車のなかでゲロゲロするし、さちちゃんは座席の下に入り込んで引っかかって出られなくなるし(座席を取り外せるということが分かり、どうにか引っ張り出した)でたいへんでした。
1年ほど前のことになりますが、長らく入手困難だったグスタフ・マイリンク、今村孝訳『ゴーレム』(以下、『ゴーレム』とする)が白水Uブックスで出版されました(→白水社、書籍詳細)。
『ゴーレム』に関しては、私もブログ記事で触れたことがあります(→空間表象と小説の扉)。
ゴーレムとはユダヤの伝説にある土でできた人様の生き物で、現代の幻想小説では人形や人造人間などとも関連の深い形象です。
『ゴーレム』のなかでもゴーレム伝説は(当然)重要なモチーフなのですが、実はここで登場するゴーレムはあんまりゴーレムっぽくない。ルドルフ二世のゴーレム伝説が引用されもするのですが、『ゴーレム』のなかで実際に主人公が対峙するのは、むしろ分身に近いものです(ほんらいユダヤの伝説におけるゴーレムは、土くれに近いもののようですが)。それゆえにこそ、人形や記憶、内面と結びつくと言える。
なかなかシンプルにあらすじをまとめるのは難しい小説なのですが、語り手である「ぼく」が帽子を間違えられたことによって、その帽子の持ち主の人生を夢に見る、という構造の枠物語です。その夢のなかでは、「アタナージウス・ペルナート」という宝石細工師が、とある書物の修理を頼まれたことから事件に巻き込まれます。
「ぼく」が見る夢のかたちで枠どられる物語において、夢の始まりと終わりを象徴する「脂肪に見えていた石のイメージ」(8頁)、「記憶」を象徴する「小石」を拾い集め、あるいは遠くへと放り投げようとする行為、見られた夢のなかで主人公が「宝石細工師」、すなわち石に文字や記憶を刻み込み、浮かび上がらせる職業であること、間違えられた帽子に刺繍された金色の名前などは、夢や空間を用いて意識の内部と外部が反転する構造を支えます。
ユダヤの伝説から現代の幻想小説や映像文化におけるゴーレムまで概観したものに、
・金森修『ゴーレムの生命論』(平凡社新書、2010年)、
・大場昌子、佐川和茂、坂野明子、伊達雅彦『ゴーレムの表象 ユダヤ文学・アニメ・映像』(南雲堂、2013年)
がありますが、『ゴーレムの生命論』のなかでも、『ゴーレム』は「全体としては興味深い作品」だが、「ゴーレム伝説の〈伝説素〉の豊穣化にとって、濃縮的というよりはむしろ希釈的に働く文献」であるから「二次的な言及」に留める、という扱いになっています。
『ゴーレムの生命論』は、伝説上のゴーレムからロボットや自動人形との関わり、近現代における形象までをたどりながら、現代の生命倫理と結びつけます。
第一部では主にユダヤ教のタルムードや伝説を集めた書物を扱い、古代から近代まで、ドイツロマン派、フランケンシュタインなどの影響による変容をたどります。第一章ではゴーレム伝説を歴史的に概観し基本的な要素、〈言語欠如性〉、「土」という材料、「未定形の〈魂〉」としての「胎児」のイメージ、「護符」などを抽出します。第二章では20世紀初頭に書かれた『ニフラオート・マハラル』という書物を扱い、「不死身の用心棒」ではなく「少し大柄で力が強いだけの普通の男」のようなゴーレム像を指摘します。
第二部では『フランケンシュタイン』、『砂男』、『ロボット』などにおける、怪物や自動人形、ロボットの形象を考察し、ゴーレムと共通する〈人間圏の境界〉〈劣等人間〉という要素に焦点を当てます。
第三部では現代の作品や人工細胞の開発を例にとり、生命倫理とも関連づけます。現代におけるゴーレムの形象を、〈人間圏の境界〉にあることによって、他者をゴーレムとして境界線を引き、あるいは自己をゴーレムとして見るようなドッペルゲンガー的なものとして位置づけ、最終的には「〈命〉に対する問いかけ」に向かわせるものとして結論づけます。
『ゴーレムの形象』は、何人かの著者によって書かれた本で、編著者たちが行ってきた「ユダヤ系作家の読書会」が企画のもとになっているようです。したがってユダヤ系作家の作品が考察の中心になっていますが、アメリカのスーパーヒーローや日本のアニメ、現代のTVドラマなどにおけるゴーレムも扱っています。後半、あまりにも多様なゴーレム像を扱ったために羅列的になっている部分があり、少し残念に感じました。
個人的には、女性形象としてのゴーレム像(大場昌子「ユダヤ系女性作家の伝説書き換え」)や、性欲を持つゴーレム像(金森修「愛するゴーレム」)が気になりました。
ただ、ゴーレムの場合は性欲あるいは愛がないなどの要素を反転してゆく場合も、誰かに対して愛情を抱くようなふつうの恋愛物語になってしまうパターンが多いみたいで、人形の場合とはまた違うなあ…と。
私も『ゴーレム』はかなり好きな小説なのですが、『ゴーレム』あるいはゴーレム伝説がどの程度私の研究テーマである人形とかかわりがあるのかというと、微妙なところです。
性欲も生殖能力もない点は人形にも共通するイメージですが、ゴーレムには圧倒的に男性のイメージがあること、また人形のような性的な客体ではないこと、美的イメージはないことが大きな違いといえます。
ひとつ、(女性や人形を)客体として見ると言った場合に、オブジェ的なもの、機械や物質の側に寄せて把握する場合と、知的な認識(主体)と対照的なものとして自然を見る、という二つのパターンがあると思うのですが、ゴーレムはどちらかと言うと自然の側に振れる形象かもしれません。
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おまけ:現在里親募集中のわんこ達
空ちゃん→ペットのおうち、いつでも里親さがし
もこちゃん(左)→里親さん見つかりました
うめちゃん(右)→ペットのおうち、いつでも里親さがし
夢ちゃん→6月からいったん募集を終了しています。
さちちゃん(左)→6月からいったん募集を終了しています。
今日は夢ちゃんさちちゃんの抜糸(避妊手術)でした。
夢ちゃんは車のなかでゲロゲロするし、さちちゃんは座席の下に入り込んで引っかかって出られなくなるし(座席を取り外せるということが分かり、どうにか引っ張り出した)でたいへんでした。