今日は、巽孝之・荻野アンナ編『人造美女は可能か?』(慶応義塾大学出版会、2006年)および、人形と機械に関わる書籍を少し紹介しようと思います。
17世紀、デカルトは『人間論』において、
「身体を、神が意図してわれわれにできる限りにるように形づくった土〈元素〉の像あるいは機械にほかならない」(225頁)
と言いますが、これが「人間機械論」と呼ばれ、人形論やロボット、ゴーレムなどとさまざまに関連づけて論じられてきました。
人間を機械として見る、という視点は、先日引用した谷川渥の、人形を人間として見る「ピグマリオニズム」と、人間を人形として見る「逆ピグマリオニズム」の区別でいえば「逆ピグマリオニズム」にあたりますが、人間が機械=人形(自動人形)→人間をつくる、というピグマリオニズム的な感覚と交差しながら、この「私」を人形=機械のように感じる、という現代的な感覚へと到り着きます。
神ならぬ人間が人形=機械→人間を作ろうとする行為は、神の位置を簒奪するものとして(例えば『フランケンシュタイン』)、どこかいかがわしいものとされてきました。演劇に関する有名な表現に「機械仕掛けの神」というものがあるように、フィクションを想像する行為の比喩としても有効だと思われます。
さて、『人造美女は可能か?』についてですが、2005年12月16日に慶應義塾大学で行われたシンポジウムを基にしたもので、古典的な文学作品から現代文化まで、「人造美女」という観点から広範な対象を10名の著者が論じたものです。「ホフマンからゴスロリまで」という見取り図や、「人造美女編年史」もついてたいへんに親切。ただ、非常に広範な対象を扱ったためかやや煩雑な印象になってしまったこと、どちらかというと男性が人造美女を作ろうとする方向に対象が偏っていた点が残念です。
個別に疑問に感じた点を一点。
巽孝之「死んだ美女、造られた美女―ポオ、ディキンスン、エリオット」では、ナボコフの『ロリータ』を、ポオの「アナベル・リー」の影響下で、「死せる美少女が人造美女へ転生する」ものとして位置づけます。『ロリータ』における「アナベル・リー」の影響や、過去に死んでしまった「アナベル」という少女の(外見的な)「再来」として「ロリータ」が登場する、ということに関しては首肯できます。ただ、「ロリータ」は「人造美女」というよりは、外見ばかりはニンフェットでも現実のくそ生意気なアメリカン・ガールであって、回想の中にいる死んでしまった理想的な美少女ではなく、そういう現実のクソガキを愛してしまった、というところにむしろ『ロリータ』の眼目(というか滑稽さ)はあると思うのですが…。
アリスにしてもロリータにしても、いかにも現実にいそうなくそ生意気なガキ(子供嫌いな私にはちょっと耐え難い)であって、そういう現実にいそうなガキが理想的な少女イメージの原型になったことが、かえって面白いのかもしれません。
人間、機械、人形の観点から興味深い小説を一つ紹介しておきましょう。
山尾悠子『仮面物語 或は鏡の王国の記』(1980年)。これに関しては、別に論じたこともありますので、よろしければ→こちらもご参照ください。
架空の王国を舞台とした、「影盗み」と呼ばれる真実の顔を見る能力を持った彫刻師をめぐる物語で、この彫刻師は葬儀のときにつかう等身大の像をつくる仕事をしています。自動筆記の詩人も登場し、機械=人形という視点は、フィクションの構造とも関わります。
この中に登場する「聖夜」という名の領主の娘が、数年前に転落事故で体を破損し機械人形のものと取り換えているのです。彼女には「自分が自動人形ではないと納得させるために」(127頁)、「アマデウス」という名の自動人形が与えられます。しかしながらかえってそのことで、彼女には自分と自動人形との区別がつかなくなります。聖夜はさらに事故にあい、最後には「人間ではないもの」になってしまいます(254頁)。アマデウスが「魂」を失ったことが描かれることで、自動人形にも魂があることが示唆されます。
この物語のなかでは、人間の身体と人形、機械との区別はすでになく、しかもそれが、人間を人形として愛する男性の側からではなく、自分のことを人形のように感じる側の感情として描かれるのです。
京極夏彦『魍魎の匣』(1995年)もこのような観点から興味深い作品ですが、表象文化論学会第9回大会でパネル発表(2014年7月6日(日)16:30~18:30、於東京大学駒場キャンパス)があり、私もコメンテーターとして参加いたします。
興味があればぜひおいでください。
機械=人形は、ロボットやゴーレムのイメージとも関わりますが、それに関してはまた別に紹介できればと思います。
では。
*引用は、「人間論」…『デカルト著作集 4』(白水社、1973年)、
山尾悠子『仮面物語 或は鏡の王国の記』(徳間書店、1980年)による。
17世紀、デカルトは『人間論』において、
「身体を、神が意図してわれわれにできる限りにるように形づくった土〈元素〉の像あるいは機械にほかならない」(225頁)
と言いますが、これが「人間機械論」と呼ばれ、人形論やロボット、ゴーレムなどとさまざまに関連づけて論じられてきました。
人間を機械として見る、という視点は、先日引用した谷川渥の、人形を人間として見る「ピグマリオニズム」と、人間を人形として見る「逆ピグマリオニズム」の区別でいえば「逆ピグマリオニズム」にあたりますが、人間が機械=人形(自動人形)→人間をつくる、というピグマリオニズム的な感覚と交差しながら、この「私」を人形=機械のように感じる、という現代的な感覚へと到り着きます。
神ならぬ人間が人形=機械→人間を作ろうとする行為は、神の位置を簒奪するものとして(例えば『フランケンシュタイン』)、どこかいかがわしいものとされてきました。演劇に関する有名な表現に「機械仕掛けの神」というものがあるように、フィクションを想像する行為の比喩としても有効だと思われます。
さて、『人造美女は可能か?』についてですが、2005年12月16日に慶應義塾大学で行われたシンポジウムを基にしたもので、古典的な文学作品から現代文化まで、「人造美女」という観点から広範な対象を10名の著者が論じたものです。「ホフマンからゴスロリまで」という見取り図や、「人造美女編年史」もついてたいへんに親切。ただ、非常に広範な対象を扱ったためかやや煩雑な印象になってしまったこと、どちらかというと男性が人造美女を作ろうとする方向に対象が偏っていた点が残念です。
個別に疑問に感じた点を一点。
巽孝之「死んだ美女、造られた美女―ポオ、ディキンスン、エリオット」では、ナボコフの『ロリータ』を、ポオの「アナベル・リー」の影響下で、「死せる美少女が人造美女へ転生する」ものとして位置づけます。『ロリータ』における「アナベル・リー」の影響や、過去に死んでしまった「アナベル」という少女の(外見的な)「再来」として「ロリータ」が登場する、ということに関しては首肯できます。ただ、「ロリータ」は「人造美女」というよりは、外見ばかりはニンフェットでも現実のくそ生意気なアメリカン・ガールであって、回想の中にいる死んでしまった理想的な美少女ではなく、そういう現実のクソガキを愛してしまった、というところにむしろ『ロリータ』の眼目(というか滑稽さ)はあると思うのですが…。
アリスにしてもロリータにしても、いかにも現実にいそうなくそ生意気なガキ(子供嫌いな私にはちょっと耐え難い)であって、そういう現実にいそうなガキが理想的な少女イメージの原型になったことが、かえって面白いのかもしれません。
人間、機械、人形の観点から興味深い小説を一つ紹介しておきましょう。
山尾悠子『仮面物語 或は鏡の王国の記』(1980年)。これに関しては、別に論じたこともありますので、よろしければ→こちらもご参照ください。
架空の王国を舞台とした、「影盗み」と呼ばれる真実の顔を見る能力を持った彫刻師をめぐる物語で、この彫刻師は葬儀のときにつかう等身大の像をつくる仕事をしています。自動筆記の詩人も登場し、機械=人形という視点は、フィクションの構造とも関わります。
この中に登場する「聖夜」という名の領主の娘が、数年前に転落事故で体を破損し機械人形のものと取り換えているのです。彼女には「自分が自動人形ではないと納得させるために」(127頁)、「アマデウス」という名の自動人形が与えられます。しかしながらかえってそのことで、彼女には自分と自動人形との区別がつかなくなります。聖夜はさらに事故にあい、最後には「人間ではないもの」になってしまいます(254頁)。アマデウスが「魂」を失ったことが描かれることで、自動人形にも魂があることが示唆されます。
この物語のなかでは、人間の身体と人形、機械との区別はすでになく、しかもそれが、人間を人形として愛する男性の側からではなく、自分のことを人形のように感じる側の感情として描かれるのです。
京極夏彦『魍魎の匣』(1995年)もこのような観点から興味深い作品ですが、表象文化論学会第9回大会でパネル発表(2014年7月6日(日)16:30~18:30、於東京大学駒場キャンパス)があり、私もコメンテーターとして参加いたします。
興味があればぜひおいでください。
機械=人形は、ロボットやゴーレムのイメージとも関わりますが、それに関してはまた別に紹介できればと思います。
では。
*引用は、「人間論」…『デカルト著作集 4』(白水社、1973年)、
山尾悠子『仮面物語 或は鏡の王国の記』(徳間書店、1980年)による。