人形と動物の文学論

人形表象による内面表現を切り口に、新しい文学論の構築を目指す。研究と日常、わんことの生活、そしてブックレビュー。

表現力について。

2013-05-02 21:28:07 | 日記
 今年は例年より寒いとはいえ、だいぶん日差しも強くなってきて、お天気のいい日は気持ちいい。
 犬も、晴れた日はお庭に出たら、なかなか戻ってこないです(ふだんなかにいる子は、1日1回お庭に出してる)。


のすけちゃん。お庭に出しても長いこと、何もしないで玄関から外を眺めてることがよくある。


ジジちゃんも、窓からお外を眺めてた。


物欲しそうなりくちゃん。

 で、季節外れだけど、今日はフィギュアスケートのお話。「表現力」という、言葉についてです。

 私、ふだん文学を考察するときに、「表現」を考察する、という言い方良くするんですけど、これ、一般の人に説明するとき結構難しいんですよね。「表現」という言葉の一般的な使い方なのかも、ちょっと自信ない。
 縁語とかね。物語の表層にあらわれている、言葉と言葉の結びつきに留意して考察したい、くらいの意味なんですけど。
 逆に一般的にいう、「表現」の意味がよく分からないです。

 フィギュアスケートの、「表現力」があるとかないとか、音楽を表現するとか、よく分からないです。音楽を表現したいんだったら、楽譜見て演奏すればいいんで、フィギュアスケートはフィギュアスケートなんだと思うんですけど。
 音楽であるとか、物語であるとか、あるいは感情とか、表現されるべきものがあってそれを表現するというのではなくて、ジャンプなりスケーティングなりスピンなり、ふりつけのちょっとした動きなり、フィギュアスケートの動きそのものが表現なんだと思うのだけど。
 ジャンプ1つとっても、真央ちゃんみたいなふわっと上がるジャンプもあれば、キム・ヨナみたいなするっと跳ぶジャンプ、美姫ちゃんみたいな速い、鋭いジャンプ、ゲデちゃんみたいなバネを生かした高いジャンプもあって、それぞれが表現。表現でないものなど何もないので、「表現力がない」という言い方もよく分からない。

 確かに、ジャンプミスしても構成点下がらない選手もいるけど、たぶんそれは、「表現力」と言うよりは、ジャンプの個性の問題なんじゃないのかな。例えばキム・ヨナとか真央ちゃんとかは、わりと淡々と跳ぶので、ジャンプミスしてもプログラム全体の流れに影響がない。でも、美姫ちゃんとかゲデちゃんとかは、メリハリがある感じの跳び方をするので、ミスしたときに目立つんですよね。それは音楽の一番盛り上がるところで跳ぶのか、平坦なところで跳ぶのか、ということとはまた別の問題で。

「感情」を表現する、という観念は、文学の世界では(国語教育などで)ある種のしろうとくささと結びついて称揚されるのだけれど。フィギュアスケートのような、明らかに常人とは違う人たちの演技について「感情を表現する」という観念があらわれることについては、謎としか言いようがないです。


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